第37話「もしも向こうに戻ったら」

 リビングに向かうと、案の定ナタリーは怒っていた。


「貴様、お姉様を散々待たせておって。それでも一家の主か!」

「それは別に関係ないんじゃないか?」


 うるさい、とナタリーはそっぽを向き、自室に戻ってしまった。

 アシュリーは食器を片付けながら、その他の家事を進めている。


「アシュリーもごめんな。待たせちゃって」

「いいえ、大丈夫です。それよりも早くお風呂に入ってください。明日も仕事ですよね」

「ありがとう、そうする」


 瀧本は彼女を拝みながら風呂へ入った。

 帰りが遅くなったのにも関わらず、何も咎めないなんて、まるで女神だろう。


 湯船は丁度良い湯加減だった。

 日々の疲れが取れていく。

 風呂は命の洗濯だ、と誰かが言ったが、まさにその通りである。


「お風呂上がったよ」


 リビングに戻ると、アシュリーはベランダで夜空を眺めていた。

 その後ろ姿が綺麗で、しばらく見惚れてしまっていた。


「あら、爽太さん。早かったんですね」

「まあね。それよりこんなところで何してたの?」

「いえ。少し故郷のことを思い出していたんです。王国のことを」


 その言葉を聞いて、瀧本の顔が引きつる。

 軽い気持ちで尋ねただけなのに、返ってきたのが重いものだったので、ちょっと申し訳ない気持ちになった。

 アシュリーのブロンドの髪は憂いの色に見え、それが夜空とのコントラストでさらに増す。


 瀧本もベランダに出て、空を眺めた。

 遮るものが何もないから、綺麗な星の粒が無数に広がっている。

 向こうの世界でも似たような景色が広がっていたのだろうか。


「いつかは、帰らなきゃいけないんだね」

「そうですね、国の皆が心配していますし、跡取りのこともありますし。ですが私は、出来ることならもう少しこの世界を堪能したいです。平和で、争いのない世界を」


 平和、と聞いて、瀧本の胸に引っかかるものがある。

 確かにこの国は平和だ。

 国民一人一人が豊かな生活を送れるし、紛争とは無縁の毎日を過ごしている。


 だけど目を逸らしてはいけない問題は世界中に広がっていて、もちろんこの日本にも例外ではない。


「僕はさ、一度海外でボランティアをしたことがあったんだ」

「ボランティア、ですか」


 アシュリーは瀧本の言葉を繰り返した。

 ちゃんと言葉の意味は理解しているようだ。


「世界の貧しい場所に行って、いろんな問題を解決していく。それが活動内容だったんだけど、まあ全然上手く行かなくてね。僕らの暮らしって、当たり前のようで実はとてもすごいことなんだなって、改めて知ったよ」

「そうなんですね。私も、街での生活と戦場での現状との落差に驚いた経験があります。街はあんなにも平和なのに、どうして戦地は、あんなにもおぞましく……」


 アシュリーの声のトーンが下がる。

 今まで幾度となく凄惨な現場を目の当たりにしてきたのだろう。

 中には自分自身がそれを生み出してしまう、なんてこともあったかもしれない。


 まだ20歳なのに、とても重たい十字架を背負っているような気がした。


 瀧本はアシュリーの隣に一歩近づいた。

 肩と肩が触れ合う。

 彼女は拒絶もせず、瀧本の隣で星を眺めた。


「故郷も星が綺麗だったんです。ですが戦争がひどくなっていくにつれ、夜空はいつしか黒煙でおおわれていきました。こんな風に綺麗な星空を見られたのも久しぶりなんです。だから、向こうに戻ったら、この空が見られるように、早く戦争を終わらせたいです」

「それは……大変だね」

「はい、大変です」


 そう返事する彼女の声はどこか寂しかった。


 アシュリーの内包されている力がいったいどれほどのものなのか、瀧本にはわからない。

 以前あの姿を見た時、「国が亡ぼせる」とあったけれど、もし彼女の力をもってしても敵わないとなると、相手も相当の力を持っているということになる。

 だから戦争が長引いているのかもしれないし、もしアシュリーが本気を出してしまったら最悪自国も滅びかねないのだろう。

 つまり、瀧本たちの世界で言うところの核兵器に匹敵するのだ。


「ずっと、いてくれたらなあ……」


 心の中だけで留めておくだけのつもりだった。

 しかし口に出てしまっていたらしい。


 ピタリ、と魔法で時間が止められてしまったかのように、静寂が瀧本たちを包む。

 あれ、と自分の発言を回顧した瀧本は、ゆっくりとアシュリーの方に顔を向けた。


「えっと、それは……」


 彼女は困惑している様子で瀧本の方をじっと見つめる。

 心なしか少し頬が紅潮しているようにも見えた。


「……ごめん、なんでもない。おやすみ」


 逃げるように瀧本は部屋に入る。

 自室の布団に転がって、先程のことを忘れるように目を瞑った。

 しかし当然、忘れることなんてできない。


 もしも、アシュリーたちが向こうに戻ったら。

 この部屋は当然広くなって、賑やかな毎日は静かになって、そして……。


「いなくならないでほしいなあ」


 子供のようにポツリと呟いた。

 気を緩めたら涙が出てしまいそうだった。

 目頭が熱くなるのを我慢しながら、瀧本は布団の中でうずくまる。

 その日は一睡もできなかった。

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