第36話「愚痴と羨望」

 公園から歩くこと約数分、ようやく矢野の住むマンションに到着した。


「じゃあ僕はこれで」

「何言ってんの。今から飲んでこうよ」

「はあ?」


 時刻はもう11時を過ぎている。

 いつもより飲んでいないとはいえ、既に缶ビール3本は体内に摂取しているため、これ以上飲むのは体に毒であることに変わりはない。

 

「流石に飲み過ぎだ。肝臓にも悪いぞ」

「まあまあ、悪いようにはしないから。さ、入って入って」


 矢野は瀧本の腕を引っ張り、家に上がり込む。

 彼女の部屋は思いの外整頓されていて、いつも見ている性格からはあまり想像が出来ない。

 そういえば矢野のデスク周りは常に無駄なものがなかった。

 意外と几帳面のようだ。


「とりあえずアシュリーに連絡を入れるよ」

「そっか。アーちゃん待ってるんだもんね。早めに切り上げるからさ、ちーっと付き合ってよ」


 彼女はグラスにワインを注いでいく。

 頭痛いんだけどな、なんて思いながら、瀧本は彼女のグラスを手に取る。

 無意味にグラスを回してみたけれど、それで味が変わるのかはわからない。


 とりあえず、一口飲んでみる。

 思ったより飲みやすい味だ。


「美味いな。どこのワイン?」

「え? スーパーのやつだけど」

「そうなんだ。もっと高級なものだと思ってた」


 へえ、と返事をして、瀧本はさらに飲み進める。

 アルコール度数も少なそうだし、これならアシュリーでも飲めるかもしれない。


「締めの一杯にね、たまに飲むんだ」

「まあ後味いいし、飲みやすいしな」


 飲みやすいからついついもう一杯、となりたくなるけれど、以外にも矢野は追加でグラスにワインを注ぐことはなかった。

 

 少し憂いた目を矢野はしていた。

 それが妙に色っぽくて、どきりと胸が不意にときめいてしまう。


「なんで、僕をここに誘ったの? 初めてだよね、君が家に招くなんて」

「ちょっとね、愚痴を聞いてほしくて。あたし、アーちゃんたちの前ではなるべく仕事の話をしたくないんだ。まあこれはアーちゃんに限らず、職場の人間じゃない人の前ではね」


 えへへ、と矢野は照れ笑いを浮かべ、のらりくらりと身体を捻らせる。

 相当恥ずかしい様子だ。

 だったら言わなければいいのに、という野暮なことは胸のうちに留めておいた。


 とはいえ、仕事に対しては瀧本もいくつか口がある。

 その3割くらいの対象は矢野が原因なのだけれど。


 そんな瀧本の心労なんて知らず、矢野は矢野はまるで取り憑かれたかなように淡々と愚痴を吐いていった。

 上司がウザい、仕事が多い、友達もなんか面倒くさい……そういうのが色々混ざり合って、今体調が優れていない。


「こんなこと話すの瀧本くんくらいだよ。あー、スッキリしたー!」


 さっきまで憂いを孕んでいた矢野の瞳が輝きを取り戻す。

 長年苦しめられていた足かせが外れたみたいだった。


「意外だね、君もいろいろ考えてたんだ。君は悩みや不安とかと無縁だと思ってたから」

「失礼だなあ。それを言うなら、瀧本くんだってさ、アーちゃんやナーちゃんみたいな可愛い娘達と一緒に暮らせてさ、本当に羨ましい限りですよ。そういうのと無縁で生きていくんだろうなって何となく思っていたのに」

「そっちも失礼じゃないか」


 呆れ半分、安堵半分の溜息を吐き、瀧本はグラスの中のワインを飲み干す。

 やっぱり舌触り含めて味がいい。

 今度アシュリーと一緒に飲めたらいいな、と改めて思う。


 矢野は羨望の目を向けていた。

 その温かい眼差しが、少し不気味に思える。


「……何?」

「いいや、別に。アーちゃんみたいなかわいい子から、『いってらっしゃい』とか、『おかえりなさい』とか言われるの、羨ましいなあって。家族っていいなあって」

「そうかよ」


 そんなことを言われると少し照れくさい。

 家族、か。

 瀧本は矢野の言葉を反芻する。


 ふふ、と矢野は優しい笑みを浮かべながら言葉を続けた。


「あたしも一人暮らしだからさ、家族の大切さが今になって沁みるんんだ。だから瀧本くんはアーちゃんとナーちゃんを大事にしてあげて。あそこはあの2人の居場所なんだから」

「言われなくても、そのつもりだから」


 瀧本も笑い返した。

 なんだか柄でもないことを言い合った気がして、2人はついに吹きだしてしまった。

 ケラケラと2人の笑い声が夜に響く。


 スマホの時計を見た。

 もう家を出てから30分近く経っている。

 すっかり遅くなってしまった。

 これは土下座コース確定だろう。


「そろそろ帰るよ。アシュリーが心配してるだろうし」

「今度は3人で遊びに来てよ。ごちそうする」

「機会があったらな」


 矢野に見送られながら、瀧本は彼女の家を後にした。

 公園での涼しさはどこへ消えたのか、蒸し暑さがべったりと肌にまとわりつく。

 少し早足になりながら、来た道を戻り、アシュリーたちが待つ家に向かった。


「ただいま」


 ガチャリとドアを開く。

 その向こう側には、案の定アシュリーが待機してくれていた。


「おかえりなさい」


 いつもの笑顔だ。

 この笑顔を見る度に、瀧本は幸せな気分になる。


 安心しろ。ちゃんと守るから。


 心の中でそう呟いた瀧本は、笑顔でアシュリーに返事を返した。


「ただいま」

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