第33話「仕事をする意義」
もうすぐ7月、例年以上に早く梅雨も明け、夏本番を告げるようなじめじめとした熱気が大地を包む。
瀧本は部屋の掃除をしながらのんびりと休日をくつろいでいた。
「暑いですね。洗濯物がよく乾くので、とても助かりますけれど」
アシュリーがベランダから戻り、ふう、と汗をハンカチで拭く。
「まあ夏だからね。向こうの世界ではここまで暑くなかったの?」
「暑いですよ。でもカラッとしていて、ここよりは少し暮らしやすかったかと。逆に冬はかなり冷え込むので、暮らすのにはなかなか大変で」
「へえ、そうなんだ」
日本の夏は単純に熱いだけでなく、蒸し暑いからタチが悪い。
もう少しカラッとしていれば、多少マシになったのだろうけれど。
だが室内にいればそんな悩みとは無縁だ。
冷房をつけ、快適な温度を調節することができる。
ナタリーは「寒暖差が激しくて身体を壊しそうだ」とあまり好きではなさそうだが、夏は冷房がないと最悪命を落としかねない。
そんなナタリーは今日も今日とてアルバイトだ。
出勤してからしばらく経つが、随分と慣れたらしい。
理不尽な客への対応もどうにかコツを覚えたらしく、曰く「いつもの私でやればいい」とのことだ。
たしかにこの手の客は相手が何も言い返してこないということを前提にしているところはあるので、逆に威圧的な態度を取れば大人しく引き下がる、というのはあながち間違いではない。
とはいえやりすぎていなければいいけれど。
「私も何か職を探さないといけないですね」
アシュリーは申し訳なさそうに口端を上げる。
「何かないの? 得意なこととか、興味あることとか」
「興味、ですか。それは、この世界のことについていろいろ見て回りたいですけれど」
ならば学者だろうか。
しかしその道に進むことは働くことよりもはるかに大変だろう。
と、ここでインターホンが鳴る。
今日は来客の予定はないはずだが、アシュリーは誰が来たのかが分かったような反応を見せていた。
「やっほー、遊びに来たよ」
矢野だった。
何故来たのか不思議で仕方がない。
矢野を呼んだ記憶なんて全くなかった。
「私が呼んだんです。この前買い物に行った時に偶然知り合って、そこで連絡先を交換したんです」
「そうそう。で、あたしが遊びに行きたいなーって連絡したら、是非ってアーちゃんが言うもんだから、お言葉に甘えちゃって」
呆れてものも言えない。
そんなところで繋がっていたなんて、思ってもみなかった。
ニヒッと矢野はいたずらを仕掛けた子供のように笑う。
してやったり、と言わんばかりに、彼女はピースサインまで瀧本に掲げる。
まあ、いいや、と呆れ半分の溜息をついた瀧本は、矢野をリビングまで通し、アシュリーは彼女にお茶を出す。
「で、あの子はどこ?」
「今はバイトだ。夕方には帰って来ると思う」
「ふうん。そうなんだ」
相変わらず矢野はナタリーに対して冷たい。
せっかくならこの機会に彼女たちに仲直りしてほしいが、果たしてできるだろうか。
アシュリーの淹れたお茶を飲み干した矢野は、ふう、と一呼吸置き、アシュリーの方に向く。
「それで、何か相談事でもあるの?」
矢野の問いにアシュリーはゆっくりと頷く。
彼女が抱えている相談事といえば、ひとつしか思い浮かばない。
「仕事、見つからなくて。特筆してやりたいこともありませんし。妹は頑張って働いているのに、今のままなのは少し後ろめたい気持ちがあります。私だって、爽太さんの役に立ちたいのに……」
そうかそうか、とニヤニヤしたまま矢野はアシュリーの話に相槌を打つ。
アシュリーにとっては人生相談のはずなのに、まるで恋愛相談を聞いているみたいに矢野は楽しそうだ。
微笑みながら、矢野は頬杖を突く。
「アーちゃん、料理得意なんだから料理教室初めてみたら? それか、料理のブログを更新するとか」
それはいいアイデアかもしれない。
しかし、今時ブログなんて見るだろうか?
ネットは流動性だ。
いろんな情報が常に飛び交っているSNSのほうがいいだろうけれど、果たして。
しかしアシュリーの方は若干乗り気だった。
興味あります、と矢野の話に食いつく。
まるで釣り針にかかった魚だ。
変なことを吹き込むなよ、と隣で聞いていて心配だったが、矢野の言う事も一理ある。
アシュリーは最初こそ料理は下手だったけれど、今ではいろんな料理を覚えて、最近だと創作料理にも挑戦し始めたほど料理の腕が上がっている。
そんな彼女のレシピを世界に発信するのも悪くはない。
しかし、安定する仕事ではないのは確かだ。
料理教室は開くために場所を借りなければいけないし、お金も当然今以上に必要になるだろうから、結果的に赤字になるのは目に見えている。
かといって、ブログが収入源になるとも考えにくい。
「どこかのレストランの厨房スタッフとかどうだ? アシュリーに向いてるかもしれない」
「それだ! 瀧本くんナイスアイデア!」
瀧本の提案に、矢野はもちろんアシュリーも賛同した。
こうして、アシュリーの新たな再出発が決まったのである。
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