第32話「初出勤」

「行ってきます、アシュリー」

「行って参ります、お姉様」


 ナタリーの初出勤日、瀧本はナタリーと共に家を出る。

 彼女のアルバイト先は近くのコンビニだ。

 異世界人である彼女の履歴書が果たしてどこまで通用するかと心配したが、意外とすんなり面接は通ったらしい。


「けど、君が接客業か。あんまり想像できないな」

「なんだ、私ではできないと言っているのか?」

「そういうわけじゃくて。ほら、君、僕に対して当たりがきついでしょ? だから大丈夫なのかなって思って」

「失礼な奴だな。大丈夫だ。お姉様に叩きこまれたからな」


 それはそれで心配だが、礼儀正しいアシュリーに教えてもらったのなら多少は信用できる。

 おそらくネットで知り得た情報だけれど、アシュリーなら、という謎の信頼があるのはなぜだろう。


 心配は残るが、今更そんなことを言っていても仕方がない。

 頑張れ、と心の中で呟いた瀧本は、ナタリーと別れ、職場に向かう。


 今日はいい天気だ。

 最近雨が続いていたから、こんな風にカラッとした天気はこの時期には少し珍しく思える。

 まるでナタリーの初出勤を祝っているようだ。


「よっす。あの子、元気にしてる?」


 職場に着くと、開口一番に矢野がナタリーのことについて尋ねてきた。

 必要かはわからなかったけれど、一応彼女にもナタリーと一緒に暮らしているということを伝えている。

 その時の矢野は「そう」と興味なさそうに返事をしていたけれど。


「元気だよ。今日はバイト初出勤なんだ」

「へえ。何のバイト?」

「コンビニ。見た目以上に激務だから、少し心配だな」

「大丈夫なんじゃない? あの子なら」


 矢野のナタリーに対する印象は、あのイベントの時からあまり変わっていない。

 慇懃無礼で、自分の姉のためならなんだってする、みたいな感じに思っていそうだ。

 

 一緒に暮らしてわかったけれど、ナタリーは矢野が思っているほど慇懃無礼でもないし、アシュリーと喧嘩する時だってある。

 それは大体おやつの取り合いくらいで、彼女たちが経験してきた戦争と比べたらまだかわいいものだ。


 クルクルとペン回しをしながら、矢野は瀧本に問いかける。


「前から思ってたんだけどさ、瀧本くん、どうしてあの2人と一緒に暮らしてるの?」

「どうしてって、なんで今更?」

「ほら、だって、もうアーちゃん家族が見つかったんでしょ? だったら、姉妹水入らずでさ、暮らせばいいのに、なんでまだ一緒に暮らしてるんだろうって、ちょっと疑問に思っちゃって」


 ピタリ、と瀧本の手が止まった。

 そんなところを突かれるなんて思ってもみなかった。


 まさか、アシュリーとナタリーの正体が何者なのか探ろうとしているのではないだろうな。

 ひょっとしたら彼女があの時アシュリーを襲った犯人……?


 ……いや、それはないな。


 一瞬でも矢野を黒幕だと疑った瀧本は、自分自身を脳内で一発ぶん殴った。

 こんな間抜けな顔をしてあくびをしているような人間が黒幕のはずがない。

 そもそも黒幕らしい挙動すら何一つとして見つからないし、現にアシュリーとナタリーは襲撃した人物と邂逅しているのだから、もし矢野が犯人だとしたらもっと驚いてもいいはずだ。


「特に理由はないよ。ただ、僕も、アシュリーも、このままを続けたいだけ。ナタリーはアシュリーが一緒にいるからかな」

「このままを続けたい、ねえ。まあいいと思うけど、変わっていかなきゃいけないところもあると思うよ。ナーちゃんが働き始めたみたいにね」


 またしても矢野は変なあだ名をナタリーにつける。

 これを本人が耳にしたらどんな反応をするだろうか。

 ……想像は容易だったから、そうならないことを願うばかりだ。


 手を動かせ、と上司に叱られたので、瀧本と矢野は黙ってPCと向かい合う。

 矢野との会話を頭の中で繰り返しながら、瀧本はカタカタと事務作業をこなしていく。

 薄々わかっていたことだ。

 そしていずれ、この関係も終わらなければならないという事にも。


 少し憂鬱な気分のまま一日が終わってしまった。

 重い足を動かしながら、瀧本は自宅へと帰る。


「ただいま」


 沈んだ気持ちを持ち上げるように、ちょっと無理して明るく振る舞った。

 リビングからトタトタと小さな足音が聞こえてくる。


「おかえりなさい。夕飯の準備、出来てますよ」


 アシュリーはいつものようにエプロン姿で瀧本を出迎える。

 その微笑みを見ただけで、疲れも、悩みも、全て吹き飛んでしまう。

 今はこの笑顔さえ見られたら、それでいい。

 自然と瀧本も口元が上がり、重たかった足も軽くなる。


 リビングでは初勤務を終えたナタリーが横になっていた。

 威勢の良かった午前中とは違い、かなりお疲れの様子だ。


「あんな理不尽な仕打ちは初めてだ。恥ずかしが、殺してしまいたいとすら思った」


 訊けば、迷惑な客と遭遇してしまったらしい。

 対応が遅いだの礼儀が鳴ってないだの散々言われ、それはもう我慢ならなかったらしい。


「それはお疲れだね。ま、アシュリーの作ったご飯でも食べて、今日はゆっくり休みな」

「ああ、そうするよ」


 よいしょ、と身体を起こし、ナタリーはダイニングに向かう。

 今日は肉じゃがだ。

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