第31話「履歴書」

 2人がスマホを購入してから約1週間。

 現代病のひとつにスマホ依存症があるが、2人には心配いらなかった。

 購入した当初はあれだけはしゃいでいたアシュリーだったが、翌日にもなるといつも通り家事をこなし、ナタリーも興味なさげにただ窓の外を眺めていた。

 ナタリーほどの歳なら、スマホから仕入れてくる情報なんて生命線にも等しいはずなのに、彼女はあまり興味を示さなかった。


 一度、ナタリーに尋ねたことがあった。


「私は現場で多くの実情を見てきた。だから、上辺だけの言葉より、生で見たものの方を信用したい」


 なるほど、医者らしい説得力のある答えだ。

 とはいえ彼女もスマホに夢中になる時があるようで、それは可愛い動物の動画を見る時だ。

 いつもの冷たい表情とは違って、口元を綻ばせ、満面の笑みを浮かべる。


「ああそうだ瀧本。アルバイトのことなんだが」


 ナタリーはくるりと振り返り、瀧本の方を見る。


「私なりにいろいろ探したんだ。コンビニのアルバイト、なら私でもできそうな気がする」

「へえ、大変そうだと思うけど」

「私はいろんな修羅場を乗り越えてきたんだ。この世界の仕事など簡単にこなして見せる」


 頑張れ、とだけ瀧本は呟く。

 大学時代に瀧本はコンビニで働いたことがある。

 しかし想像以上にハードワークで、働き始めてしばらくはとにかく大変だった記憶しかない。


 働いてほしい気持ちはわかるが、無理はしてほしくない。

 そんな瀧本の考えなんて見透かしているように、ナタリーはフン、と鼻で笑った。


「私は貴様が想像しているほどヤワではないぞ? これでも軍人なものでな、一応」

「そうです。ナタリーの言う通り、ここは信用してみましょう」


 ポン、とアシュリーは瀧本の肩に手を置いた。

 信頼しろ、という合図だろう。


「わかった、いいよ。無理だけはしないでね。あと、周りの人に迷惑をかけちゃダメ」

「承知だ。心得ている」


 得意げに彼女は微笑んだ。

 正直心配な部分はあるけれど、アシュリーが言うのだから、少し信じようと思う。


 瀧本の心配をよそに、ナタリーはスマートフォンを取り出し、ポチポチと端末を操作する。


「ほら、申し込んだぞ」

「じゃあ、履歴書だな」

「履歴書?」

「ああ。これがないと応募しても面接を受けられない」

「そうか……大変なんだな、働くって」


 変なところでそれを実感するんだな、と思いながら、瀧本は以前購入した履歴書を取り出す。

 アシュリーやナタリーにも働いてほしい、と考え始めた頃にコンビニで購入したものだ。

 履歴書なんてもう買わないと思っていたのに、まさかまたこれのお世話になるとは思わなかった。


 瀧本はナタリーに履歴書の書き方をレクチャーする。

 が、この世界の文字に不慣れな彼女の字は拙く、まるで小学生が書いたような文字だった。

 あまりの出来の悪さに、瀧本も絶句してしまう。


「これは……特訓が必要だな」

「なんだ、私の字はそんなに恥ずかしいものか?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど、うーん……」


 首を捻り、瀧本はアシュリーを招いて彼女にも文字を書かせる。

 小学生のような文字とは違い、アシュリーのそれはまるで教科書のお手本にしてもいいくらいの綺麗な文字だった。

 まさかナタリーほど汚くはないだろう、程度にしか考えていなかった瀧本にとってこの結果は予想外過ぎた。


「すごいね、勉強したの?」

「はい。少しでも不自由がないように、と」


 どうやら独学らしい。

 ボールペンの資格を受講していないのに、ここまで綺麗な字になるなんて、やはり彼女は天才肌の気質のようだ。


 出来の良い姉の文字と、出来の悪い自分の文字を見比べて、さすがにナタリーも顔を赤くして、下を向いた。


「もう少し、マシにならないだろうか?」

「特訓しましょう、ナタリー。私が教えますから」

「ですが、私はお姉様と違って容量が悪いので、すぐに覚えられるかどうか」

「大事なのはすぐに覚えられるかではありません、ちゃんと、確実に覚えられるかです。頑張りましょう」


 ニコッとアシュリーは微笑む。

 その笑顔に釣られて、ナタリー、そして瀧本も口角が上がった。


 アシュリーはナタリーを自室に招き入れ、そこからしばらく出てこなかった。

 昼食の時間になっても、彼女たちは「今忙しい」とだけ言って部屋に引きこもったままだ。

 少しもの悲しさを覚えながら、瀧本は冷凍のチャーハンを食する。


 久しぶりの自宅での一人飯だ。

 正確には自室にアシュリーたちがいるから完全な一人ではないのだけれど、静かなリビングで一人を食事をするのは彼女たちと出会ってからはなかったから、こんなに寂しいものだったのかと痛感する。


 ナタリーたちが部屋から出てきたのは夕食前のことだった。

 ぜえ、ぜえ、と満身創痍になりながらも、やってやった、と言わんばかりの充実感に満たされた表情を見せる。


「大丈夫?」

「ああ。お姉様につきっきりで教わったおかげでなんとか形にはなったぞ」


 そう言うとナタリーは千鳥足で履歴書の元に向かい、おぼつかない手で文字を書いていく。

 まだ拙いけれど、最初と比べると随分とマシになった。


 アシュリーほどではないけれど、やっぱりナタリーも飲み込みはいい方らしい。

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