第2章
第19話「祭りの前」
珍しくアシュリーより先に目覚めた瀧本は、ベランダに出て陽の光を浴びていた。
5月になりたての風はまだ清々しく、体感するだけでも気持ちいい。
ぐっと背筋を伸ばし、身体をリフレッシュさせる。
しばらく経ってアシュリーが起きてきた。
先客に少し戸惑ったアシュリーだったが、いつものようにクスリと笑った。
「おはようございます、そ、爽太さん」
アシュリーは瀧本の下の名前を口にした途端、ポッと顔を赤く染め、トタトタと台所に駆けていった。
その仕草が実に初々しくて、見ている瀧本も思わず顔を赤くしてしまう。
どくん、どくん、と瀧本の心臓が高鳴る。
あんなことをされてしまったら、意識しないわけにはいかない。
瀧本はベランダからリビングに戻り、アシュリーに声をかける。
「えっと、今のは……」
「あの、名前で呼んでみたくて……ダメ、でしょうか?」
「いや、構わないけど、どういう風の吹き回し?」
「なんというか、もっとあなたと親密になりたくて」
そうなんだ、と返事をし、クルリとそっぽを向いた。
あんなことを言われて喜ばない男はいないだろう。
まだ心臓はどくん、どくん、と音を立てている。
できました、とアシュリーが言うので、瀧本はダイニングに向かった。
テーブルには目玉焼きとウインナー、それに味噌汁と白米が並んでいる。
「さっきの」
「て?」
「さっきの、気にしないでください。私が、呼びたかっただけ、ですから。お気に召さなければ呼びませんので」
少しはにかみながら、アシュリーは味噌汁を啜る。
いつもよりせこせこと食べ物を口に運んでいるようで、少しせわしない。
きっと、彼女自身も心に余裕がないのかもしれない。
「僕は……すごく嬉しかった。だから、また名前で呼んでほしい」
「本当ですか?」
キラキラと光るエメラルドの瞳が眩しい。
うん、と半ば彼女に圧倒されつつ、瀧本はウインナーを口にした。
パリッとした触感から広がるじゅわっとした肉汁の旨み。
焼き加減も完璧だ。
目玉焼きは言わずもがなで、味噌汁も出汁が効いていてとても美味しい。
本当に黒墨を錬成していた人と同一人物か、とついつい疑ってしまう。
その後、いつもと同じようにスーツに着替えて、いつものように家を出た。
「じゃあ行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
ニコリと笑うアシュリーは、いつもより微笑みの度数が高い気がした。
これはおそらく気のせいではないだろう。
アシュリーが嬉しくなると、瀧本も嬉しくなる。
だからついつい自然と口元が綻んでしまう。
すぐに「気を引き締めろ」と自分に言い聞かすけれど、矢野はそのわずかな隙を見逃しはしなかった。
「ねーえ、なんか良いことあった?」
ここでアシュリーのことを出すと後々面倒になりそうなので、瀧本はシラを切ることにした。
「ないよ?」
「絶対嘘だ」
「なんで」
「だって瀧本くん、すっごく幸せそうな顔をしている」
「…………気のせいだろ」
「いーや、気のせいじゃないね。これはアーちゃん関連とみた」
相変わらず矢野の推察力はすさまじい。
グイグイと右肘を脇腹に擦り付ける矢野を払いのけ、瀧本は業務に集中する。
それからしばらくはしつこく絡んでくる矢野だったが、30分も経つと飽きてしまったのか、その後仕事中に絡んで来ることはなく、いつも通り平常運転で一日は終了した。
もっと絡まれるかと思ったが、杞憂に終わってよかった。
時計を見ると、もう既に提示を回っていた。
そろそろ帰るか、と瀧本が帰宅準備を進めていると、ちょいちょい、と何者かに右肩をつつかれた。
こんなことをする人間は限られている。
「何の用だ」
「いやー、アーちゃん、瀧本くんの部屋に籠りっぱなしじゃないかなーって思って。よかったら今度の休みに2人で出かけてきなよ」
はい、と矢野は瀧本に2枚のパンフレットを渡す。
隣町のとあるイベントの告知のようだ。
このイベント自体瀧本も知っている。
とはいえちゃんと行ったことはなかった。
「うちのところのイベントももうすぐあるからさ、偵察がてら行ってきてよ」
「ま、考えておくよ」
「その言葉、肯定的な捉え方で受け止めておくね」
じゃあ、と矢野はスタスタと帰っていった。
いつもは面倒臭い彼女だが、こういう根回しに関しては誰よりも気が利く人だ。
だから瀧本も矢野のことを完全に嫌いになることはできない。
瀧本はもう一度パンフレットに目を通す。
地元の特産品を押し出した露店販売がメインで、他は地域の自治体と協力した出し物やステージなどがあるそうだ。
これは、6月に行われる瀧本たちの町のイベント内容とほとんど変わらない。
「誘うだけ、誘ってみようかな」
思えば、アシュリーに綺麗な服を買い与えたのはいいものの、それを披露する場所は何一つとして用意していなかった。
外に出る機会は日々の食材の買い出しくらいで、どこかへ遊びに行こうとしたことなんて一度もない。
せっかくの宝が腐ってしまう。
「喜んでくれるといいな」
瀧本はパンフレットをA4のクリアファイルに入れ、市役所を後にした。
いつもの帰り道は、ほんの少しだけ色づいて見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます