第15話「おかえりが待ってる場所」

 共同生活を始めてもうすぐ1ヶ月が経とうとしていた。


「ほら、瀧本さん、起きてください。遅刻しますよ」

「ん、ああ、ありがとう、アシュリー」


 朝7時、寝ぼけ眼をこすりながら、瀧本はベッドから起き上がる。

 エプロンを巻いたアシュリーは、そのまま台所に立ち、朝食の準備を進めていた。


 同棲して最初の頃は何もできなかったアシュリーだが、今では完全に全てのスキルが瀧本より格上となっている。

 掃除も、洗濯も、全ての家事をテキパキとこなすその姿は、まるで新妻のようだ。


 もちろん料理の腕だって上達しているし、アシュリー自身が趣味として楽しむようになった。

 この間まで料理を炭にさせた人物とは思えない。

 もう黒焦げにしないし、どこの店が作るものよりも美味いし、それはそれは完璧なものを振る舞ってくれた。


 今朝もアシュリーの作ってくれた味噌汁と玉子焼きと白米を食した瀧本は、仕事に行く準備をした。

 こんなちゃんとした食事をするのも久しぶりだ。


「行ってきます」

「はい。行ってらっしゃい」


 アシュリーは笑顔で小さく手を振る。

 エプロン姿に屈託のないスマイル。

 ここだけみると新婚夫婦のように見えなくもない。


「夫婦、か……」


 信号待ちの間、ポツリと呟いてみた。

 途端にむず痒くなる。

 今まで想像なんてできなかったし、これからもそんな縁なんてないと思っていた。

 だけど、これは千載一遇のチャンスなのではないだろうか?


「ねーえ、瀧本くーん、もしもーし、聞こえまーすかー?」


 矢野の手が顔の前でブンブンと振られているのに気づき、瀧本はそれでようやく現実世界に帰って来た。

 どうやら無意識のうちに職場までやってきたらしい。


「なーにかあったのかなー?」

「…………何もないよ」


 覗き込むような矢野の顔は、これまでにないくらいニヤニヤとしていた。

 はあ、と溜息をつきながら、瀧本は業務をこなす。


「最近幸せそうだね。それでどうなの? アーちゃんとは。上手く行ってる?」


「アーちゃん」というのは、矢野がアシュリーのことを呼ぶ時に使う略である。

 ここ2週間前くらいから使い始めている。


「どうだろう。喧嘩はしたことないけど」

「それだけ?」

「それだけだけど?」

「またまた、そんなこと言って。もう付き合ってるでしょ?」


 勝手に決めつけるな、という言葉を飲み込んで、瀧本は目の前の画面に集中した。

 アシュリーはただの同居人。

 それ以上でもそれ以下でもない。


 ただ、彼女とお付き合いができたら、それはそれで毎日が幸せになるだろう……


 瀧本は自分の想像をかき消すかのように、ブンブンと頭を振り、カタカタとキーボードを鳴らす。

 しかしタイプミスが連発し、思うようにタイピングができなかった。

 それでも矢野は瀧本に追撃の一撃を食らわせる。


「瀧本くん、アーちゃんのこと好きでしょ?」

「はぁ?」


 いつぞやと同じ、またしても頓狂な声を出してしまったので、再び冷たい目で見られることとなった。

 周りの視線が痛い。

 すみません、と縮こまり、顔を両手で覆った。


 元凶である矢野は、隣で声を殺しながらケラケラと笑っていた。

 一発ぶん殴ってやろうか、という怒りを鎮めるように、すう、はあ、と大きく呼吸を整える。


「なんでそう思う訳?」

「だって、いっつもアーちゃんの話ばっかりするんだもん。『今日はこれができた』とか『昨日の晩御飯が美味しかった』とか。惚気じゃん」

「そう、かな……」


 うんうん、と矢野は頷く。

 そんなことはない、と言葉では否定したけれど、完全に言い切れなかった。

 瀧本自身に交際経験は全くないから、そういう感情がいまひとつ理解できない。


 首を傾げながら、再び瀧本はPCとにらめっこをする。


「ま、いっぱい悩みなよ。気が済むまでさ。あと今日遊びに行っていい?」

「却下だ」


 矢野がいたら考え事もままならないだろう。

 はあ、と溜息をつきながら、瀧本は業務に集中した。

 しかし矢野が妙なことを言ってきたせいで、この日一日はあまり仕事に集中できなかった。


 とぼとぼと独り、帰り道を歩く。

 その間も瀧本はずっとアシュリーのことを考えていた。


 アシュリーは綺麗で、美しくて、優しくて、普通の男性なら手の届かない場所にいる人間だ。

 憧れのような感情は持っているけれど、それが恋慕かと問われたら少し返答に困ってしまう。


 いくら考えても答えは見つからない。

 いかんせん恋をしたことがないから、恋心がどういうものかすら、瀧本にとって見当がつかなかった。


 そんなことを考えながら家に帰ると、アシュリーがいつものように満面の笑みで出迎えてくれた。

 朝と同じように、エプロン姿で、右手にはお玉を持っている。


「お帰りなさい」


 その笑みを見て、悩みはすぐに吹っ飛んでしまった。

 恋心がどうこうなんて、今は関係ない。

 ただいま、と言ってくれる人がいて、おかえり、を待っている場所がある。

 それ以上に幸せなことなんてあるだろうか。


「ただいま」


 部屋に入ると、香ばしい匂いが漂ってきた。

 今日はカレーだな、なんて思いながら、瀧本は自室に荷物を置き、リビングに向かった。

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