第14話「私の名前」

 鍋の中のすき焼きはぐつぐつと美味しそうな音を立てていた。

 ひょい、ひょい、と矢野はアシュリーが用意した取り皿に肉を入れて、すき焼きのたれをかける。


「取り過ぎじゃないか?」

「これくらい普通だって」


 負けじと瀧本も肉取り合戦の応酬に混ざろうと画策したが、きっとアシュリーが置いてけぼりになってしまうのでやめた。

 代わりに白菜や豆腐をたくさん取るとしよう。


 自分の分を取り終えた矢野は、勝手に冷蔵庫を開けた。

 購入した缶ビールを冷やしていたらしい。


「勝手に他人の冷蔵庫を使うなよ」

「じゃあどうやってビールを冷やせと?」

「買わなければよかったんじゃないか?」

「酒のない晩ご飯なんて美味しくない!」


 溜息を吐きながら、瀧本は牛肉をたれにつけて白米と一緒に食べる。

 安物の牛肉であるが、それなりに美味しい。


 目の前のアシュリーはニコニコと微笑みながら、瀧本と矢野を見る。

 その目線が気になって、あまり食事に集中できなかった。


「…………な、なんですか?」

「いえ、お2人は仲がいいんですね」

「あはは、まあ、うん……」


 あまり素直に頷きたくはなかった。

 仕事でも、それ以外でも矢野と絡む機会は確かに多い。

 そのため、他の同僚や先輩よりも彼女と親密になるのは自然なことだった。


 だからこそ納得できない。

 こんな風に「仲がいい」と片付けられてしまうなんて。


 瀧本と矢野の関係はもっとドライで、それ以上なんて存在しない。


 アシュリーは少しだけ俯き、箸を持つ手を止める。


「私、少し羨ましいんです。矢野さん、瀧本さんといつも仲良さげにしているから。私だって、もっと瀧本さんと仲良くなりたいのに、上手くできなくて……」


 内情を吐露した彼女は、少し怯えているようにも見えた。

 そんなアシュリーを見かねた矢野は、立ち上がると彼女のところまで駆け寄ってぎゅっと優しく抱きしめる。


「瀧本くん、冷たいんだねえ、よしよし。お姉さんが慰めてあげよう」

「おい、僕は無実だ」

「でも君がアシュリーに冷たくするから、この子もいろいろ迷ってるんじゃん」

「それは…………」


 否定できなかった。

 彼女と出会って、また敬語を外したことはないし、そういえば名前だって呼んだ記憶はない。

 それはアシュリーのことを嫌っているからではなく、ただ緊張してかしこまってしまうからに過ぎなかった。


 そのことを、アシュリーは気にしているのだろうか?


「……僕も、正直な話、あなたともっと仲良くなりたいです。でも少し緊張してしまって……それであなたに心配をかけてしまったのなら、謝ります。ごめんなさい」

「なら、私のことを名前で呼んでください。そうしないと許しません」


 ええ、と半ば呆れた反応をする瀧本だったが、それくらいで済むのならむしろ安いものだ。


「…………アシュリー、さん」

「さん、はいりません。私も呼び捨てで呼びますから」

「僕としては呼び捨てはあまり好きじゃないんだよなあ」


 別に理由があるわけではない。

 ただ、呼び捨てにされるとむず痒いだけで、多分慣れてしまえば問題ないのだろうけれど、その慣れるまでの道のりが長い気がしてならない。


 すう、と呼吸を整え、目の前の彼女を見つめる。

 今か今かと待ち構えるアシュリーに対して、瀧本は言葉を紡いだ。


「あ、アシュリー」

「はい、なんでしょう」


 そう返事する彼女はとても嬉しそうだった。

 こんな単純なことで人は一喜一憂するのか、と嚙みしめるように実感しながら瀧本はすき焼きの肉を食べる。


 少し卵が欲しくなってきた。

 瀧本は冷蔵庫から生卵を取り出し、小皿に入れる。

 適当にかき混ぜ、もう一度肉を掴んでは卵入りの小皿に移した。


「卵ですか?」

「いりますか?」

「是非」


 あたしも欲しい、と矢野が手を挙げる。

 はいはいと呆れつつも瀧本は2人分の卵を彼女たちに渡した。


「……これは中々。卵の甘みが効いていて美味しいですね」

「やっぱすき焼きには極上の肉に極上のたれ、そして極上の卵だよねー」


 全部安物の癖に何を言ってるんだ。

 そんな言葉は喉の奥にしまっておいて、どんどん鍋の中に肉や野菜を入れていった。


 その後も、矢野を中心に会話が続く。

 と言うより矢野しか喋っておらず、瀧本たちはずっと聞き手に回っていた。

 しかし不思議と嫌な時間ではない。

 それは彼女の高いトーク力のおかげだろうか。


「あーお腹いっぱい。満足満足」

「そうですね。美味しかったです」


 矢野に同調するように頷くアシュリーだったが、おそらくこれくらいでは足りないだろう。

 だが本人も自分が大食らいであることはある程度気にしているため、ここでは何も指摘しなかった。


「いやー、今日は楽しかったよ。また遊びに来るね」

「結構だ」

「是非お待ちしてますね」


 拒絶する瀧本に対し、アシュリーは歓迎の様子を見せていた。

 彼女にそう言われたら反対なんてできない。


 ニヤリと笑ったアシュリーは、瀧本に向けて「じゃ」とだけ告げて玄関の扉を開けた。

 少なくともせめて月一程度であってくれ、と願いながら、瀧本は玄関の扉を閉める。

 それと同時に、ぐう、と腹の虫が鳴った。


「…………おにぎり作るから、待ってて」

「ありがとうございます」


 その後、アシュリーは瀧本の作ったおにぎりを一心不乱に頬張った。

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