第12話「慌ただしい一日の始まり」

 アシュリーと出会ってから3日、瀧本は大きな問題を突きつけられていた。

 今日は平日、つまり市役所勤めである瀧本は職場に出勤しなければならない。

 そうすると、アシュリーは独りになってしまう。


 今のアシュリーに家事全般が出来るとは到底思えない。

 一応昨日のうちに粗方の家事は教えたつもりだけれど、ちゃんとできるだろうか不安で仕方がなかった。

 しかし仕事をすっぽかすわけにもいかないので、彼女を留守番させるしかない。


「僕は仕事に行きますけど、留守は任せても大丈夫でしょうか?」

「はい。家事は昨日教わりましたし、おおよそのことはできるかと。」


 ニッコリと微笑むアシュリーだったが、やはり瀧本の心の中に不安が残る。


「部屋のものあんまりイジっちゃ駄目。テレビも見過ぎないように。それからお昼御飯ですけど、食器棚の下の方にカップ麺があると思いますので、お好きなものを食べてください」

「カップ麺……ですか?」


 瀧本が発した単語を聞いて、アシュリーはきょとんと目を丸くする。

 まさかこんなところで躓くとは思っても見なかった。


 履いていた革靴を脱ぎ、瀧本はトタトタと早足で台所に戻る。


「これです。これにお湯を注いでください」

「お湯は?」

「えっと、ケトルに水を入れてそれで沸せてください」


 瀧本はケトルを指差すが、果たしてアシュリーにはどれだけ伝わっているだろうか。

 本当はもう少し丁寧に教えてあげたいところだったけれど、これ以上時間をかけると遅刻してしまう。


「じゃあ、留守をよろしくお願いします」

「はい。いってらっしゃい」


 いってらっしゃい。


 その言葉を聞いたのはいつ以来だろう。

 こそばゆい感じがして、顔が赤くなるのを見られたくなかった瀧本は、再度革靴を履いてさっさと家を出た。


 時計を見て少し焦る。

 間に合うか間に合わないかギリギリの瀬戸際だ。

 いつもならこの時間はもう職場の前なのだが、今日はアシュリーにいろいろ教えていたため少し遅れを取ってしまった。

 こうなれば遅刻覚悟でちゃんと教えた方が良かっただろうかと思ったが、そんな開き直り、社会では通用しない。


 気持ち早足で向かったおかげか、なんとか朝礼のギリギリ前には間に合った。


「珍しいね、こんな時間に出勤なんて。なんかトラブルでもあったの?」

「まあ、ちょっとな」


 自分のデスクに座ると、矢野がニヤリと尋ねてきた。

 この「ちょっと」には先程の流れも含まれているが、それ以外にも遅刻してしまいそうな要素は十分にある。


 いつも通りの時刻で起きるまでは良かったが、朝ご飯を作りたい、と言ってきたアシュリーを信用するべきではなかった。

 目玉焼きを作ろうとすると、卵を全部おじゃんにし、トーストを作ろうとすると全部を黒焦げにしてしまったのだ。

 結局瀧本が全て作り直すことにし、その結果全てのモーニングルーティンの時間がずれ込んでしまったのだ。


「まあ聞かないけどさ。瀧本くんのことだからどうせしょうもないことでしょ?」

「まあ、そうなのかな」

「なーにその曖昧な返事。ねえ、もしかしてその原因ってアシュリー?」


 矢野に指摘され、言葉で表現しようとしても出来ないような特殊な声を発する。

 図星だとすぐに勘付いた矢野はニヤニヤと瀧本を見つめた。


「なんかいいよねー、同棲カップルって感じがしてさ」

「無駄口を叩くな。今は業務時間だぞ」

「へいへい」


 むすっと口を尖らせた矢野は、乗り出してきた身を戻し、自分のPCと対峙する。

 瀧本もPCを起動させたが、一世代前の機種であるためそれなりに時間はかかる。


「ねーえ、あたし瀧本くんの家に行きたいんだけど」

「はあ?」


 矢野の唐突な提案に大声を出してしまったので、冷たい目線が瀧本に向けられた。

 すみません、と小さく謝罪し、瀧本はPCにログインする。


 張本人である矢野は瀧本の受けた仕打ちに笑いを堪えきれず、クスクスと息を漏らしていた。


「…………なんでそうなるんだよ」

「だって、危なっかしいんだよ。何も知らなそうで。だから大人のお姉さんであるあたしがいろいろ教えてあげようかと思って」

「誰が大人のお姉さんだこのちんちくりん」


 ひっどーい、と頬を膨らます矢野だったが、彼女は童顔で背丈も成人女性の平均よりは低く、スレンダーな体躯をしているため、未成年と間違われることがしばしばある。

 この辺り一帯の居酒屋やスーパー、コンビニではもう酒飲みの女王として君臨しているため、スルーされているけれど、初めて訪れた場所ではまだ年齢確認されるそうだ。

 そのことについて矢野は半分誇りに思っているが、半分不満にも思っているらしい。


 矢野は瀧本に言われた言葉への不満をキーボードにぶつける。

 カタカタとなるタイピングの音はいつもよりも少し激しかった。


「まあいいや、行くから」

「無茶苦茶な」

「けってーい!」


 はあ、と溜息をつきながら、瀧本も業務を始める。

 こうなったら矢野はもう止まらない。

 帰ったらアシュリーに何て報告しよう、と危惧したが、多分彼女のことだから大歓迎してくれるだろう。


 キリキリと胃が痛んでくる。

 デスクに常備していた胃薬は既に空だった。

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