第3話「アシュリー」

 瀧本は先程彼女から聞かされた名前を反芻する。


 アシュリー。


 やはり日本人ではなかった。

 ということはこの日本語も相当勉強したことになるわけだ。


「えっと……いろいろ質問してもいいかな」

「はい。応えられる範囲でしたら」

「わかった。まずは………君はどこから来たの?」


 瀧本の問いに、アシュリーはいきなり口を噤んでしまった。

 答えられない事情でもあるのだろう。

 答えが返ってくるのを諦め、瀧本は別の質問をする。


「…………昨日の夜、君は何してたの?」


 またも返事はなかった。

 アシュリーは口を噤んだまま俯き、何も語ろうとしない。

 

 沈黙。


 空気が妙に重い。

 でも打開策が分からない。

 ただ、瀧本の目の前に映る彼女は、憂いた表情でも魅力的だった。


 食事を終え、瀧本は食器を洗う。

 アシュリーも彼の隣で食器を洗う手伝いをしようとしたが、もたついた手つきで上手くできない。


「代わりましょうか?」

「いえ、大丈夫です」


 そう言うとアシュリーはじっと瀧本の手元を観察し、その動作をマネする。

 使用済みの皿を洗剤と一緒にスポンジで洗うという簡単な作業だが、先程とはうって変わって手際のいい手つきで食器を洗っていく。


「初めてなんですか? 食器を洗うの」

「え? ああ、まあ……」


 歯切れの悪い回答だった。

 また沈黙が空間を支配する。


「帰り道わかりますか? 送っていきますけれど」


 その問いに、アシュリーは完全にフリーズしてしまった。

 ジャーッと水道から水が流れる音が響き、白く美しい手が流れる水に当たる。


「どうかしました?」

「あ……えっと……その…………」


 アシュリーは変に言葉を濁らせていた。

 何か地雷を踏んでしまっただろうか、と焦る気持ちを抑え、瀧本は蛇口の水を止める。


 彼女の顔は、不安と焦燥感に駆られた顔だ。

 少しだけ呼吸が荒くなる。

 大丈夫ですか、と声をかける余裕すらなかった。


「…………さい」

「え?」

「ごめんなさい!」


 ペコリとアシュリーは深々と頭を下げた。

 食器は割れていないし、ちゃんと洗えている。

 謝られる道理なんて瀧本にはこれっぽっちもない。


 だから、瀧本の頭上にはクエスチョンマークがいくつも発生した。

 瀧本が声を発する隙もなく、アシュリーは続ける。


「私……家がないんです。初めての土地で、住む宛てもなくて……それで、元居たところに帰れなくて……ごめんなさい」


 アシュリーの肩が震える。

 見知らぬ土地にポツンと一人、おまけに傷だらけ。

 不安だっただろう、怖かっただろう。


 何か力になってあげたい。

 そう思ったら、無意識に身体が動いていた。

 瀧本は優しく彼女の手を握り、大丈夫ですよ、と声をかける。

 アシュリーの手は先程まで洗い物をしていたから、少し冷たかった。

 それは瀧本だって変わらない。


「大変でしたね。それなのに僕はいろいろと切り込んだ質問ばかりしてしまって。本当に申し訳ない」

「いえ、そんな……でも、今は話す気分にはなれません。あなたを、巻き込みたくないから」


 やはり何かいろいろ事情があるようだ。

 とはいえ、困っている彼女を放っておくわけにもいかない。

 ひょっとしたら彼女のことを狙っている人間がいるかもしれないし、もし彼女にこれ以上関わってしまったら瀧本自身の命の保証もないだろう。


 そんなことわかっている。

 わかっていても、それが目の前で泣いている彼女を見捨ててもいい理由にはならない。


 あの、と瀧本は少し興奮した口調で口走る。


「もしよろしかったら、一緒に暮らしませんか?」


 自分の発言の2秒後、自身の言葉でゾクリと背筋が凍りついた。

 その刹那、なんであんなこと言ったんだ、と後悔の念に押し潰されそうになる。


 昨日であったばかりの女性に「一緒に住もう」なんて、急展開にも程があるだろう。

 下心丸出しの人間だと思われていないだろうか。


 不安視する瀧本だったが、アシュリーの反応はその逆で、むしろ目を見開かせて感涙の笑みを浮かべていた。


「いいんですか?」

「は、はい。君さえよければなんですけど。もしかしたら今後も命を狙われるかもしれないし、しばらくの間君を匿う、という形にはなりますけど、大丈夫ですかね」

「問題ないです! 嬉しいです! よかった、これでちゃんと生きていける……」


 よほど嬉しかったのか、アシュリーは膝を崩し、ボロボロと涙の雫をこぼした。

 やはり泣いている様子も絵になる。

 

「貴方には助けてもらってばかりですね。1度目は昨日、2度目は今。このご恩は必ずお返しします」

「いいですよ、そんなの気にしなくて。僕はただ、困っている人が放っておけないだけなので」

「ふふ、素敵な人ですね」


 クスリとアシュリーが微笑む。

 涙のせいで目元が赤くなっていたけれど、それでもやはり美しい笑顔だった。


「これから御厄介になりますけど、よろしくお願いしますね」

「ああ、はい。こちらこそよろしく」


 2人は顔を見合わせ、互いに頭を下げる。

 こうして、瀧本とアシュリーとの、同棲生活が始まったのである。

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