第2話「一晩明かして」

 朝9時のアラームで瀧本は目を醒ます。

 自分のベッドは彼女に使わせているから、彼はソファで横になっていた。

 本当は彼女に何かあった時のために彼女が目覚めるまで徹夜するつもりでいたけれど、疲労と睡魔には勝てなかった。


 彼女は大丈夫だろうか。

 酷い傷だったから、完治はしていないだろう。

 応急措置をしたとはいえ、病院で診てもらわなければならないレベルだ。


 コンコン、と自室のドアをノックする。


「…………はい」


 返事が聞こえた。

 昨日、瀧本に助けを求めたあの声よりも少し元気が出ていた。


「入ってもいいですか?」

「ええ、大丈夫です」


 その言葉を信じ、瀧本はドアを開ける。

 ベッドの上では上半身だけを起こした彼女がニッコリと柔和な笑みを彼に向けていた。

 瀧本が持ってきた着替えもちゃんと着てくれている。


「あなたが、助けてくれたんですね」

「ええ、まあ」

「その節は大変お世話になりました。おかげで助かりました。あと、その……着替えも」


 はにかみながら彼女は答える。

 少しドキリとしてしまったが、Tシャツの隙間から昨日巻いた包帯が顔を見せた。


「傷の具合は?」

「大丈夫です。あなたが手当てしてくれたおかげでかなり傷も癒えてきました」

「本当に?」

「はい」


 それを裏付けるように、彼女はするすると包帯を解いていく。

 確かに、昨日あった腕の傷は見事に完治していた。

 昨日、今日で完治するような傷でないのはちゃんと確認したから、この異常事態について行けない。


 どうして、と尋ねるよりも早く、ぐうう、とお腹が鳴る音が聞こえた。

 瀧本からではない。


「……すみません」


 言わずもがなの結果だった。

 顔を赤くする彼女を見て、瀧本は考えることを放棄した。


「…………朝ご飯にしましょうか?」


 瀧本の提案に、彼女はコクリと小さく頷き、ベッドから起き上がる。

 昨日は横になっていたり、担がれたりでよくわからなかったが、女性にしてはかなり背丈が高い部類になる。

大体170cmくらいだろうか。

 瀧本とそこまで背が変わらない。

 若干瀧本の方がリードしているか。


 これだけスタイルが良く、顔も整っているのだから、モデルのお仕事でもしているのだろうか、と一瞬妄想が膨らんだが、刹那にしてそれがただの妄想に過ぎないことに気付いた。

 もし本当にモデルや女優だとしたら、あんな傷なんて絶対負わないだろう。

 特殊メイクを施し、一般人に対するドッキリ、という可能性だってなくはないけれど、だとしたら家まで連れていこうという時点でスタッフが出てくるはずだ。

 そもそも全裸なんてコンプライアンス的に無理だろう。


 いろいろ考えたけれど、答えなんて出ない。

 瀧本は考えるのをやめた。


 キッチンのテーブル向かい合って座る。

 会話なんてものはなく、昨日と同じ、トーストにコーヒーというシンプルなセットをテーブルの上に並べた。


「これだけ、ですか?」

「すみません、毎朝これなもので。もしよろしければコンビニでパンでも買ってきますけど」

「こんび…………いえ、結構です」


 一瞬戸惑いの表情を見せた彼女だったが、すぐに柔和な笑顔に戻った。

 しかしトーストを前にして、またしても彼女は困惑の表情を浮かべた。

 瀧本はそんな彼女を不思議そうに眺めながらトーストを齧る。

 サクッ、という乾いた音が部屋の秒針と共に静寂を告げた。


「もしかして、トースト、熱かったですか?」

「いえ、そんなことはないです。いただきます」


 瀧本の真似をするように、彼女はトーストの両端を持ち、ゆっくり口元に近づけ、一口小さく齧る。

 次の瞬間、まるで初めて美味しいものを食べた子供のように、彼女は目を見開いてエメラルド色に輝く瞳をキラキラとさせた。


「そんなに美味しいですか、トースト」

「はい、美味しいです!」

「それはよかった…………」


 瀧本がいつも購入しているトーストは、スーパーで販売しているただの食パンだ。

 それも、一番安いもの。

 バターも市販のものだし、コーヒーだって同じだ。

 高級なものなんて何一つ使っていないし、違いすらわからない。


 ここまで感動するなんて、トースト1枚すらまともに食べられない複雑な事情があるのか、それとも彼女がお嬢様すぎてこんな庶民の味なんて今まで食べたことがなかったか、だ。


 いずれにせよ、こんな朝食で喜んでくれるのなら、出してよかったな。

 ふふ、自然と口角が上がり、瀧本のトーストを頬張るスピードが上がる。


「そういえば、まだ名前、聞いていませんでしたね。僕は瀧本爽太と言います。よろしければあなたのお名前も教えてくれませんか?」

「そうでしたね。名乗らずにお礼を申し上げるのも失礼でしょう」

 

 右手を口元に添えて笑う彼女だったが、既にトーストを1枚完食してしまっていた。


「アシュリー・クロウと申します。この度は私を助けていただき、ありがとうございました」


 ニッコリと微笑む彼女に、瀧本の心は少しトクンと揺らいだ。

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