第1章
第1話「傷だらけの彼女」
閑静な住宅街を一人歩く。
右手には今日の晩酌用のビールとコンビニの焼鳥と枝豆が入ったレジ袋。
これで腹が足りるとは到底言えないが、そこまで空腹でもないし、足りなければ備えていたカップ麺があるので問題はない。
節約のために食事の量を減らし、最初はひもじい思いをしていたが、慣れてしまうとなんてことはなかった。
自炊したい、健康に気を遣いたい、という考えは頭の片隅にあるものの、どうにも実行できそうにはない。
マンションのゴミ袋捨て場を横切ろうとすると、妙なものを見つけた。
麻布のようなものに覆われ、ゴミ袋ではないことは明瞭だ。
朝見た時にはなかったことを記憶している。
布の隙間から足の指のようなものが見えた。
人形か? いや、それにしてはサイズが大きすぎる。
この大きさは、明らかに成人のものだ。
それに、なんだか麻布の一部が赤い染みができている。
まさか血……ではあるまいな。
いずれにせよ、このまま放置しておくと面倒なことになりかねない。
おそるおそる、瀧本は麻布をめくった。
どうか、ただの人形でありますように。
「えっ…………」
布をめくると、予想の遥かに斜め上を突き抜けた光景が広がっていた。
ブロンドの長い髪に、メリハリのある身体。
まるでこの世の美を集約したかのような女性がそこに横たわっていた。
メデューサの伝説をふと思い出す。
横たわる彼女は本当に石になるくらいの美貌だった。
しかし彼女の全身には痛々しい傷が張り巡らされているかのように存在し、彼女の呼吸も荒く、苦しそうだ。
「……だ、大丈夫ですか?」
思わず瀧本は彼女に声をかける。
その少女は霞んだ目を開いて俺を確認した。一つ一つの動作がやっとのように思える。
呆然としている瀧本の腕を、弱々しい手が掴む。
「たす……けて…………」
流暢な日本語だ。
だがそんなことは今はどうでもいい。
か細い声は、その端麗な顔によく合っていた。
今にも消えてしまいそうな声。
それが彼女の最大の叫びであることは瀧本でも理解できた。
彼女は立ち上がろうと、ゆっくりと身体を起こす。
しかし、思うように力が入らず、加えてどこかを動かす度に、軋むような表情を見せた。
放っておけない。
滝本は彼女に麻布を被せ、彼女の肩を担ぐ。
想像以上に彼女の肉体は軽く、そして彼女の傷も重症だ。
ここで軽い応急処置をして、次の日に病院で診察してもらおう。
「ありがとう……ございます…………」
「今は何も喋らないで。ひとまず俺の部屋で応急処置を施します。病院には明日連れていくから」
「感謝します…………」
その後、彼女からの反応はなかった。
死んでしまったか、と背筋が凍る瀧本だったが、すう、すう、という寝息を聴いた途端に安堵の域を洩らす。
少し冷静になったその瞬間、身体に触れる感触や体温で気付いた。
彼女は麻布で隔てているとはいえ、何も着ていない裸の状態であるということに。
一気に心臓の鼓動が早くなる。
落ち着け、と自分で深呼吸してみたけれど、一度気になりだすともう気になって仕方がない。
だが今は一刻を争う状況だ。
そんなやましい気持ちでは、彼女を救うことは出来ない。
ふう、と一呼吸置き、再び前を向く。
滝本の部屋は6階だ。
当然エレベーターを使った方が楽なのだが、このエレベーター内には監視カメラが設置されてある。
当然、こんな無防備な状態の彼女をカメラの元に晒すわけにはいかない。
もうエントランス前の防犯カメラにバッチリ映ってしまっているから、どうせ無意味だとは思うけれど。
ふう、ふう、と息を切らしながら瀧本は階段を上る。
エレベーターの点検時しか階段を使わないから、運動不足気味の瀧本にとってこの階段は地獄そのものだ。
おまけに眠ったままの謎の女性というハンデまでついている。
起きてくれたら少しは楽なのだが、今はゆっくり休ませてあげたい。
心なしか、傷の具合は最初目視した時よりも随分と回復傾向にあった。
流血していた部分もあったのに、今はどこを見ても擦り傷程度のものしか残っていない。
来た道を振り返って見ても、血だまりの跡はどこにも残っていなかった。
くびをひねりながらも、瀧本は歩く。
「着きましたよ」
ぜえ、ぜえ、と息を切らしながら、瀧本は自室である603号室の前に立った。
しかし彼女が目を醒ます気配は感じない。
寝息の音は聞こえているので、死んでいるわけではないのはわかっている。
ただ、本当に身体の具合は大丈夫なのかと心配なのは変わらない。。
とにかく今は応急措置だ。
ガチャリ、と扉の鍵を開け、ドアノブを捻る。
眠ったままの彼女を自室まで運び、ベッドの上で寝かせた。
瀧本は机から救急箱を取り出すと、彼女の傷だらけの腕や脚に慣れた手つきで包帯を巻いていく。
しかしさすがに胸部、腹部、頸部に触れることはできなかった。
一通り応急措置の手順を終え、ほっと胸を撫で下ろす。
今もまだぐっすりと眠っているようで、呼吸も落ち着いている。
一応包帯を巻いてみたけれど、やはり流血は申していなかった。
「これで、よかったのかな」
いくら手際がいいとはいえ、所詮は応急措置、やれることには限度がある。
やはり最初に救急車呼べば良かっただろうか。
そんな後悔してももう遅い。
既に彼女を家に上げてしまったのだから。
面倒ごとになっていなければいいけれど、と思いながら瀧本は彼女の着替えを用意する。
できるだけ無地のTシャツとジャージがあれば問題ないだろう。
下着に関しては……俺のものを使ってもらうしかない。
「それにしてもこの娘、一体どこから来たんだ?」
改めてベッドで眠る彼女を見つめる。
腰までかかるブロンド……と言うよりクリーム色の長い髪の毛に、明らかに日本人離れした顔立ち。
外国人、にしては日本語が非常に精錬されていた。
母国で必死に勉強したのだろうか。
それにあの傷の正体。
一体何をしたらあんな深手の傷を負ってしまったのか。
そして、なぜあんなにも治りが早かったのか。
「大丈夫、だよな……」
彼女の表情を見る限り、苦しそうな様子は全く見られない。
でも容体が急変してしまう可能性だってある。
今は祈るばかりだ。
彼女がちゃんと目覚めてくれることを願おう。
買ってきたビールを冷蔵庫に入れ、代わりに冷凍の白ご飯をレンジで温め、買ってきた焼鳥と枝豆を一緒に食す。
今はお酒なんて飲んでいられない。
冷蔵庫で冷やしておいた麦茶と共に、白米を喉奥に流し込む。
こんなに味のしない夕食を食べたのは久しぶりだった。
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