あなたとであえて
結城柚月
プロローグ
いつも通りの朝だった。
なんの変哲もない曇り空だ。
バターを塗ったトーストに微糖のコーヒーという質素な朝食を済ませると、
市役所勤めになってから1年、まだスーツをうまく着こなせていないことにコンプレックスを抱いている彼は、今日も姿見の前で苦い顔を浮かべながらネクタイを結ぶ。
全ての身支度を終えた瀧本は靴を履き、マンションを出た。
ここから程なくのところにある横断歩道を渡り、少し歩けばあっという間に市役所だ。
「おはよ」
自分のデスクに向かう途中、同僚の
肩までかかる艶のある黒髪に整った小さな顔に、スラリとした体つき。
まさに大和撫子そのものだ。
矢野は瀧本に手を振ると、「ほれ」と缶コーヒーを手渡す。
「さっき飲んできたばっかなんだよなあ」
「あら、じゃあいらない?」
「いや、受け取っておくよ。ありがとう」
そう言うと瀧本は缶コーヒーのプルタブを開け、一口飲む。
本当は微糖くらいの苦さが丁度いいのだが、ブラックコーヒーも飲めないわけではない。
瀧本の隣の席で矢野も仕事を始める。
彼女は近くの喫茶店で販売しているクリーム入りのお洒落なドリンクを飲みながらタイピングをしていた。
だったら同じのくれよ、という愚痴は心の中に留め、瀧本も今日の業務に取りかかる。
全ての仕事が終わった頃、時刻は午後7時を過ぎていた。
グッと両腕を上に伸ばすと、隣のデスクから矢野が顔を見せた。
「ねぇ、これから飲みに行かない?」
「ごめん。今日はゆっくり休ませて。また今度飲みに行こう」
特に断る理由もなかったのだが、矢野は瀧本が飲めなくなっても酒を強要するから、彼自身彼女と一緒の酒の席になるのはあまり好きではなかった。
そうとも知らず、矢野は少し残念そうに肩を下げる。
「そっか。じゃあまた今度ね。今日はお疲れ様」
「はいはい。また今度な」
矢野は椅子から立ち上がり、そのまま帰っていった。
瀧本も帰宅準備を済ませ、退勤する。
その後近くのコンビニに寄り、缶ビール一本とそのつまみを買った。
仕事終わりの酒が美味いことに最近気付いた瀧本にとって、この一杯は頑張った自分へのご褒美に近い。
街灯が照らす夜道を一人歩く。
隣の家からは楽しそうな子供の笑い声と美味しそうな料理の匂いがしてきた。
思わず立ち止まり、楽しそうな家族の会話に耳を傾ける。
この匂いは……カレーだろうか。
子供の頃も学校帰りによその家の晩御飯の匂いを嗅ぎながら、今日の夕食を楽しみにしていたっけ。
昔を懐かしみながら、瀧本は再び足を動かす。
過去を懐かしんでも、美味しい料理が出てくるわけではない。
きっと、あんな家族のような日々とは無縁の生活を送るのだろう。
そんなことを思っていた。
彼女と出会うまでは。
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