第29章 死守

 もう何日か経った夕方頃にようやく希望の兆候が表れた。深緑と共に大理石の柱が並んだ道を歩いていた所、何本にも分かれた道の分岐点に何処かを指し示した看板が見えてきた。今までの遺跡のものとは違い、木で出来ており、文字も掠れずに残されていた。比較的最近のものだと予想でき、これまで創作の意図を汲み取れるような建造物もなかったため、活路としては非常に頼もしい存在だった。

「あの看板、この遺跡と違う年代の物に違いないよ。あの先に人が居るかも。」

 私は嬉々として彼にそう言った。その看板に何と書かれているのかは知識が足りず、読み解けなかったが、古代の文字というわけでもなさそうだった。その指し示す先にも道は続いているようだが、木々の繁茂が進み、見通しは良くなかった。しかし、彼は咳をしながら急に

「これはまずいな。アンナ俺に何かあっても…」

 と途中まで言いかけて、その場で吐血した。かなりの量が咳と共に吐しゃ物の様に地面にまき散らされた。服は血で汚れ、膝から彼はその場に倒れこんだ。

「ソルヴ!どうしちゃったの?」

 咄嗟に彼に駆け寄る。最近の彼の異常性と関連付けるのは簡単だが、症状から何の病気かは読み解けない。まだ息はあった。息苦しそうに呼吸を行っているが、目は虚ろだ。そして泣き言を言って彼に問いかけている場合ではない。完全に死が秒読みを開始しているような緊迫感があった。私は彼の肩を持ち、看板が示す道の方へ歩いていった。彼は歩く気力も残っていないようで、私は半分引きずるような形で、顔の高さに伸びている枝をかき分けながら、進んでいった。

 それらを超えると比較的見晴らしの良い道に出た、草木は依然として左右に生えているが、他の所と比べると足を取られるようなものはなく、仇道の様にも見えた。道の幅はかなり広いが、視線の先にはまだ人の痕跡があるようなものは発見できない。

 ゆっくりと彼を何度も持ち上げるようにして肩で支えながら進んでいると、獣の唸り声がしてきた。一匹ではなく数匹の群れで行動しているみたいで、左右両方の茂みからそれらは聞こえてきた。いつの間にか囲まれていた。きっと彼の血の匂いを嗅ぎ付けてきたのだ。こちらが獲物として認識されているのは本能的に察知できた。

 唸り声が止んだと思った瞬間、茂みの中の一匹が飛び掛かって来た。その正体はオオカミだった。道の幅は広く、茂みまでの距離があり、到達までの余韻もあったものの、その襲撃に対応することが出来なかった。その一匹は勢いよく走ってきて、ソルヴの手に嚙みついて引っ張って持って行こうとした。

「やめろ!」

 私は叫び、肩から早急に彼を下ろし、ライフルで至近距離射撃を行った。鳴き声と血と共にそのオオカミは絶命する。彼の手からもダラダラと血が流れていた。

 それを号令としたように、私の銃声で怯むことなく、三匹が茂みから飛び出してきた。警戒はしているようで、囲われながらじわじわと迫ってくる。後何匹いるかは分からないが、ここで迎撃するしかなかった。私はその場で臨戦態勢を取った。ライフルの危険性も把握しているのか、銃口を向けるとそれらは素早く動き、照準をずらすようにした。

 私の二発目の発砲と同時に、射撃された以外のオオカミがこちらへ飛び掛かった。その二発目も標的に当たることなく掠めただけだったようで、負傷せずに歩みを少し止めさせるだけだった。他二匹は私に目もくれず、ソルヴにだけ攻撃を行った。噛みつくと途端に強く引っ張り、肉を引きちぎろうとする。私も必死の抵抗でその二匹に撃ちこんだ。こんな距離なのに、素早く動かれたために無駄撃ちを誘われることになった。装填されている弾丸を全て消費してようやく、その二匹を絶命へと追いやることに成功した。ソルヴも至る所を噛みつかれ、傷は深くなってしまう。しかし意識が薄いのか、彼が痛みに反応している様子はなかった。

 私はリロードを挟もうとポケットに手を入れたが、さっき討ち損ねたオオカミは私の隙を理解しているかのように、その間にこちらへ突っ込んできた。後を追うように茂みから更に二匹飛び出し、こちらに向かってきた。距離はあったがリロードの隙はない、今度は一直線にこちらへ着て、打ち損ねた一匹はソルヴに食いつき、もう二匹は私の抵抗を妨げるように私に喰らいついてきた。まるで人間相手の狩りに慣れているかのように賢く、立膝を付いていた私が倒れこみそうになるほどに力は強かった。私に痛みはない。だからそれらに怯むことなく、ライフルのストックでソルヴに嚙みついた一匹を殴って怯ませた。かなり強く殴打したつもりでも頭蓋を粉砕するような力は出せず、致命傷を与えることが出来なかった。

 それと同時にこちらに噛みついていた二匹も振り払おうとしたところ、少し体勢が崩れてしまい、それが隙になってしまった。振り払って後ろへ下がった一匹が私に体重を乗せて飛び掛かり、横転させられた。仰向けになる形でのしかかられ、顔に噛みつこうとしてくる。もう一匹は私の足に噛みつき引っ張った。残った一匹は私の倒れた上に覆いかぶさるオオカミの体躯のせいで見えなかったが、ソルヴが標的になっていることは想像に難くなかった。私は銃で、圧し掛かってくるオオカミを抑え込み、死ぬ思いでポケットから弾薬を取り出し、銃にそれらを装填した。クリップを使い、一気に八発込めなければならないので、強く押さえつけられ、震える手の中それは困難な話だった。やっとの思いで銃に弾丸を装填し、乗ってきたオオカミの脇腹にナイフ差し込み、怯んだ隙に銃で殴って、私を標的とした二匹に射撃した。五発打ち込み、その二匹も葬り去った。と同時に銃声が何度か鳴り、ソルヴを襲っていたオオカミも鳴き声と共に絶命したため、私がそれに撃ちこむ必要はなかった。その銃声はソルヴからのもので、腕に喰らいついている所に何発か撃ち込んだらしかった。私は荒い息とともに周りを警戒していたが、それ以上の奇襲はなさそうで、何とかこの死闘を制すことが出来たみたいだった。そして、ソルヴにもまだ意識があることは分かった。私もボロボロになりながらソルヴの横に座り込む。

「大丈夫。もうすぐ着くからね。」

 彼からの反応はなかった。拳銃を撃った後はぐったりとしており、意識も朦朧としていた。彼の衣服もズタボロになり、手は抉れて、骨まで見えてしまいそうだった。私も足を深く噛まれ、歩行は困難だった。それでも彼を担ぎ、道を進んでいった。途中何度も転び、思うように進むこともできなかった。それでもこの人を見捨てるわけにはいかない。例え私が終わってしまったとしても、彼を安全な所へ運ばなければ。その思いだけが歩みを進めた。

 道なりに進み、曲がり角を何度か曲がった先に、行き止まりの様な場所があるのを見つけた。木の影が暗く、此処からではそこが何かは判別できなかったが、開けた所であることは確かだった。もしかしたら村かもしれない。一筋の希望を追い、私はその場所へ流れ着いた。

 その場所は、中央に見たこともない程の大樹が一本植えられている場所で、それを囲むように小川が出来た自然の大部屋のような場所だった。周りは木々に囲まれており、それらが空間の仕切りになっていたので、ここが本当に一つの部屋であるかのように感じさせる風景だった。小川は幾筋かに伸び、この広間の先まで流れていた。それらには花弁が散って浮かび、穏やかに流れ、大地には腰の高さほどの石柱が幾つか建てられている不思議な場所だった。夕暮れの、もう世界が終わってしまいそうな赤々とした光が木漏れ日として差し込み、妖艶で十分な明るさがあった。神秘的で世界樹なんて言葉が似合うくらいの大きな木があるここは、まるでこの旅の終焉を告げているようだった。

「なによ。この場所。」

 こんな幻想的な場所であっても今の私には響かない。救いを求めて辿り着いた場所がこんな何もないただの自然なんて。

「なんて綺麗な場所だろうか。そこの木まで行って座りたいな。」

 声も絶え絶えで、彼はそう言った。意識を辛うじて取り戻し、この状況でも見とれていたのだ。

「ダメ。まだ先があるの。助かるためには進まなきゃ。」

 彼が話してくれたのは嬉しかったが、もう生きている方が不自然なくらいに衰弱している様子だ。ここは広間としては完結していたが、道はまだ伸びており、進むべき所はあったのだ。

「アンナ。」

 大した言葉いらなかった。私はその言葉を汲み取り、彼の望む通りに大樹の傍まで運び、木に寄りかかれるようにして座らせた。大樹を囲む小川は所々で途切れ、大樹がある場所まで渡れるようになっていた。もう、彼が旅立ってしまうという事は紛れもない事実だった。

「素晴らしい場所だ。ここが最期の場所なら、なんてロマンチックなんだろう。」

 彼もそれを察しているようで隠さずにそう言った。

「ねえ、どこにもいかないでよ。」

 もっと色んなことを聞きたかった。何が原因でこうなっているのか、あなたを失った私はどうすればいいのか、そんなことを沢山聞きたかった。まだまだ旅は続くと思っていた。世界は広く、美しい場所や、知らないものにもっと多く出会っていくのだと思っていた。非力な私たちが、旅の果てに重大な何かを手にできるなんて思っているわけではない。世界を救うヒーローでもなければ、何かのカギになるような存在でもない。真相を知っていようとも何かを変える力なんてないのだ。そんな大層なものはなくてもいい。だからせめて、もっとこの人と居させてよ。

「アンナ。ごめんね。急すぎるよね。君を一人にさせたくない。ずっと一緒に居たかった。アンナ。アンナ。」

 彼が残る体力で、私を力いっぱい抱きしめてくれる。お願い。最期くらいこの人の体温を感じ取りたかった。私も力いっぱい抱きしめ返すが、きっと冷たくなっていっている彼を感じ取れなかった。

「ソルヴ。私はあなたなしじゃ生きられないよ。お願い、嘘だと言って。」

 彼が居なくなるなんて考えたくもない。心の整理をする時間も与えず、運命は彼の命を刈り取ろうとする。人生の終わりとはあまりにも無情で、前触れもなく、例えそれが、未来が明るく照らされた前途にいてもやってくる。

「アンナ。君には幸せに生きて欲しい。俺はこの旅で本当に多くの物を得ることが出来た。後悔なんて微塵もないんだ。あの街を抜け出して、色んな所へ行けた。ただ喧騒から逃げるつもりだったのに、こんなにも翼を広げられた。だから最高だったよ。アンナにとってこの旅は何だった?俺にとっては…」

 彼は全て言い切る前にこと切れてしまい、それ以上口を開くことは出来なくなってしまった。最期の言葉さえも聞き切ることは出来なかった。そして私の答えを聞かぬ間に旅立ってしまった。

「ソルヴ。行かないで。ねえ、返事をして。嫌。」

 私の慟哭は木霊したが、誰の耳に届くこともなかった。この現実に耐え切れず、私は彼が動かなくなった後も強く抱きしめ、何度も体を揺すった。その度に骨だけを揺らしているような無情さだけが私を貫く。彼は最期に何を伝えたかった?私もこの旅で色んなことを手にすることが出来た。仰天するような、世界を股に掛けるような、華やかな旅ではなかったけど、人や風景との出会い、そして私自身も成長できた。もしも、彼と旅に出ていなかったら、私はただ何もせずに一生を終えたのだろうか。私もこの旅に後悔なんてなかった。嫌なものから逃れるだけでなく、私が望んだ以上のものをこの旅は与えてくれたから。

「私にとっては人生だったよ。本当に美しい場所ともたくさん出会えた。一番の友達だってできたし、私が理想とした駆け落ちだってできた。だから、それが答え。」

 何度も体を揺すっていたが、思考を巡らす内に彼を安眠させたいという思いも芽生え、優しく、寝かしつけた。彼にとってこの旅はなんだったのだろう。彼も私と同じように思うのだろうか。

 彼の死を受け入れることはそうそうできる事ではなかった。頭は混乱し、未だに手は震えていた。当初の予定通り、私もここで果てて、彼と一緒に眠ることも考えた。彼への依存は確かなもので、本当に何もかもを奪われた感覚になった。このゴミみたいな世界で生きている意味もなく、ただ死だけを渇望した。痛みを感じない分、きっと彼の拳銃で自殺することも難しいことではなかった。でも、彼のくれた人生を無駄にしたくはないという考えだけが、それを押しとどめた。といっても死にたい思いは強かった。何かの拍子でそれが実行できてしまう程には。

 私は考える。せめて私が、いや私たちが報われる道を。考えれば考えるだけ、ここに希望はなく、ましてや世界にもそんなものを求めるというのはおこがましいことだ。

「ソルヴ。私はどうやって生きていけばいいの?居場所もなければ拠り所もない。あなただけが生きる理由だったのに。」

 見つける前に失ってしまった。きっと彼と長く平和に暮らしていくことが出来るならば、いずれ見つけられたかもしれないはずのものを。私が見据えることなく遮られた。もう一度戻ってクウェンと共に戦争することも考えた。しかし、その考えは自分たちの都合で他者を傷つけない。と誓った私たちの倫理に反する行為だった。だからこそ、当てのない憎しみをどこかにぶつけることが出来ないのが悔しかった。死ぬことでさえ、進み続けなければ途中で諦めたことが結果の原因となる。という彼の言葉が尾を引く。それをしてしまえば、この苦しみの行き着く末を、自らがそうしたということに仕立て上げてしまうのだ。思い出の全てが私を縛る鎖となり、溢れ出る暴力性を開放できない。

「ひどいよ。もう死なせてよ。」

 歯止めが効いていることが何よりも耐え難い。どれだけ叫ぼうが喚こうが、何処にも届かず、この心が晴れることなどありはしない。やはり依存すべきではなかったのだ。失った時に行動に制限がつきすぎることを考えてもおくべきだった。死ねぬというなら進むしかない。そんな単純明快な答えは分かり切っていた。だが、その選択をせざるを得ないというのはどんなに酷か。

 私は彼をこの地に埋め、何度もこの場所を往復し、花を摘んで戻ってきては、それを手向けとし、耐えがたい苦悩に舌を噛み切りそうになりながら、何度も何度も発狂しかけてはそれを抑えた。もう何度行ったかもわからない。そうしている間に自分がすべきことと向き合う時間もできていた。

「私が生きる意味と旅の意味を無くさないためには、とにかく自分にできる事をするしかないんだよね?」

 この気持ちが報われないなら尚更そうするしかなかった。私はこの大切な人に感化され、自分自身の行く末もそうあるべきだと思うようになったのだ。幸福になりたいというのなら、その先がどのような絶望であっても、彼の言葉通り歩むことを止めてはいけなかった。

「もう、行くよ。さようなら、ソルヴ。絶対に忘れない。また戻ってくるからね。」

 私の平静はきっと淀んでいたが、ここを旅立とう。そう思い、この地から離れることにし、新たな道へ歩んでいった。決して塞がらない傷口を抱えながらも、後悔しない人生を歩むために。

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