第28章 楽園
そこへの到着は実に2週間以上も掛かることとなった。彼は最近咳が多く、どこか気だるそうだが、進むことに支障が出るほどではなく、たいして気にも留めていなかった。森も鬱蒼としており、足元が悪く、傾斜もかなりある所を歩いていた。道なき道を、草木を掛け分けながら進んでいると、熟れた果実がきれいに実った木があることに気が付いた。それまでの道も木の実はあったものの、こんなにも美しい果実が実っていた場所などなかった。まさかとは思い、さらにそこをかき分け前へ進んだ。
幾つかの木を超えると広々とした空間にたどり着いた。そこは正に楽園の様な場所で、周りの木々には様々な食べられる果実が自然と実り、地には野菜などが栽培されているわけでもないの豊富に自生し、川が流れ、花が咲き誇っていた。ここがムーンホルトだということも直ぐに解った。遺跡群という言葉の通り、過去の産物である思われる大理石でできた柱や建物の断片、石造りの神殿跡などが点々と、そしてかなり広大に横にも縦にも続いていた。ここからの景色だけではこのムーンホルトの規模は図りしれない程であった。
「すごいな。まるで楽園だ。」
彼も私と全く同じようにここを捉え、驚いた口調で言った。
「やっと着いたんだね!なんて良い場所。」
単純な感想だが感動は有り余るものだった。例え人が居なくともここなら暮らしていけるかもしれない。想像では遺跡群が続くだけの寂しい場所だったので、いい形でそれを裏切ってくれた。
「これからどうする?まだ先に向かうかい?」
私たちにとってこの選択は重要だった。クウェンの話だと、人もいる可能性も十分にあった。自立して暮らすよりも既に文明が構築された所で暮らす方が安心できた。
「うん。当然。まだまだ先は長いかも。でもひとまずはゆっくりと行こう。」
焦る必要はなかった。ここには食べ物も動植物も豊富にある。人為的にこれらが作られているのではないかと思うくらいに。いや、その線も少しは考えた方がいいのかもしれない。
遺跡群の景色は見渡す限り続いており、その先も断続的にそれらがあることが予想できたので、森での暮らしと違い、移動に全力を注がず、軽く移住していくような形を取ることにした。その日はまだ日は上っていたが、焚火の準備と周りの可食性のものを取り揃え、夜に備えることにした。
夜になり焚火を囲いながら過ごし、時間が進んだ頃、彼が
「アンナ。なんだかとても寒いんだ。」
と私に寄りかかってきた。甘えているわけではなく、本当にそのようだった。今日はあまり体調も悪くなかったが、ここに来てひどくなってしまったのだろうか。凄い汗で熱もありそうだった。
「大丈夫?苦しいの?」
私にできることは彼に何が起きているのかをいち早く突き止め、容態を回復させることだった。ここに医者はなく、少しのことでも命取りになりかねない。
「悪寒がする。だけどただの風邪かもしれない。アンナが居れば落ち着くよ。」
それが何から来るものなのか確認の仕様もなかった。彼は息を深くつくとそのまま眠ってしまった。寝息は苦しさを帯びてはおらず、緊急性もなさそうだった。今日は起き続けて彼を見守ることにした。彼の苦痛を減らすことしか今できる手はない。重い病気ならば、ことは深刻だ。このムーンホルトに人の住まう場所があるのなら、そこを目指す必要が出てきた。私は焚火を灯し続けながら、朝を迎えた。
朝、彼が目覚めると昨日のことは嘘の様に回復していた。依然として咳はあるが、ただの風邪だったという言葉を私は追いかけた。
「よかった。何ともないのね?」
私は胸をなでおろし、彼の安否を確認した。
「ああ、昨日がおかしかっただけなのかな。」
元気そうで何よりだ。しかし、安心はできない。
「でも、何処かで診てもらった方がいいのかも。もしもムーンホルトにそんな場所があるとしたらだけど。」
元来た道を引き返しても望みはなかった。そこには既に戦争になってると思しき国と街しかないのだから。
「その通りだな。望みがあるなら進まなくては。」
その言葉には重みがあった。ここはかつて文明があったのか、生い茂った草木に隠れるようにして道も続いていた。それを辿ればどこかに着くかもしれないし、完全に行き場を失ったわけではない。
「そうね。でも無理はしないでよね。悪くなったら元も子もないんだから。」
苦しみの果ての苦しみ。私の中でその言葉が何度も往復した。彼の言葉の意味が何となく分かった気がする。例えこの先に何もなくても私たちは進まねばならない。何も出来ずに果てれば、進まなかったことが理由になるのだから。そんな思いと共に嫌な予感が沸き、私はそれを振り払うようにして考えないようにした。
その先も道は続いていた。何度か遺跡の数が少なくなったりもしたが、目に見える範囲には必ずそれがあった。道中は道の幅が狭く、自然がほとんどで、都市らしさのない部分もあったが、最初に出会った大きな広間のような場所が幾重にも繋がって存在しているようで、進むことに妨げは無かった。しかし、規模は想像をはるかに超えたもので、歩いても歩いても遺跡群は続き、まるで何処か違うおとぎ話の世界に迷い込んだと思ってしまう程に自然豊かで、それらと共に崩壊した文明を感じさせる景色が永遠と続いていた。動物は多く生息していたものの人の気配はなく、景色は少しずつ変わっていくが、広すぎるこの場所は何処に向かうべきかを正してくれなかった。
私たちは遺跡の数が比較的多い場所を頼りに進んでいくことにした。その方が人の居る環境も近くにあるかもしれないと思ったからだ。根拠はないが他に頼るべきものは無かったのだ。二日目は何事もなく、終えることが出来た。ウサギを一羽狩り、それを頂いた。彼も落ち着いた様子で、咳以外に異常な点もなかった。
三日目は変だった。景色はいつもと殆ど変わらず、遺跡群の広間に小さな湖のある場所を歩いている時だった。昼過ぎ頃にまた一昨日と全く同じ症状が彼に出た。
「アンナ。少し休もう。横になりたいんだ。」
昨日は何ともなかったのに。今日になってまた再発した。
「大丈夫なの?ただの風邪じゃないよね。」
何かが変だった。発作の様にこのような症状を繰り返すのは明らかに異常だ。
「休めば良くなるさ。きっと進んだ先に何かある。」
今度は息苦しそうにしている。前よりも悪化しているみたいだ。急がねばならない。
「うん。きっと大丈夫よ。必要なものがあったら何でも言ってね。」
彼を心配させまいと私は彼の手を強く握り、必死に祈った。どうか何事もなくここを抜けさせてくださいと。彼は次第に眠り、夕暮れまでそうしたままだった。
その後も前のものと同じだった。次に起きた時にはさっきの発作は尾を引くことなく、彼を健康に仕立て上げていた。まだ、遺跡群は続き、途方もない道筋を行かなくてはならないのか。焦燥感に迫られるが歩むことしか道はない。この場所は、ひっそりと世界を気にせず暮らしていくのには理想的で、本来なら天国だったが、弱った人間にとっては地獄だった。世界を恨んでも仕方ないのは分かっているが、ここに逃げざるを得なかった運命を呪った。本当に心の底からここに来ることを望んでいたわけではないのだから。
この地を何日も掛けて移動した。進捗は変わらない。それでも進む。途中、道も無くなり遺跡も見えなくなったがしばらく進むとまたあった。変わらないと言っても、少しずつの変化はあり、同じ景色は一つもなかった。中には神秘的な蛍の群生地や、夢の国のお花畑のような場所もあり、心を癒してくれた。ただここで平和に暮らすのなら飽きるようなものは無かったはずだ。そんな少しずつの変化や感動があってくれたおかげで、心が破綻せずにいられた。肝心の彼は数日に一回ほど、悪寒や息苦しさを訴えるのを繰り返し、それが出る度に容態は悪化しているようだった。寝ればそれが嘘の様に引くというのも常で、そこは安心できたが、一方で爆弾を抱え続けているかのような恐怖心もあった。その症状が出るまでは、この自然と遺跡群を楽しむように彼も歩行を続けていたので、それは私にとって大きな心の支えになって居た。何度も繰り返すそれに心辺りがあるのかと聞いたが、彼にもないらしく、手がかりも掴めずにいた。もし彼に何もなく、回復に向かっていくのなら、此処に住もう。彼が悪くなることと、この場所を天秤に掛けるのは良くない。それさえなければお互いに幸せにここで暮らせるのだから。終わりなき道などない。森での生活が相当長く感じられた私たちはまだ希望を捨てるような段階ではなかった。
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