第27章 心の底
ムーンホルトに出発したのは話し合いのあった次の日だった。準備をする時間は十分にあり、装備や食料も万全の状態で向かうことが出来た。ここも戦争が近く、ゆっくりしていられないのもあったが、次の一歩を早く踏み出したかったからだ。ロイネスクドで世話になった人々に感謝を述べてここを旅立った。クウェンにも失礼をしたことを謝り、少しは前向きになれたことを伝えた。クウェンに気にした様子はなく、気を付けろよ。と手を握って見送ってもらえた。
旅立つ前に地図を貰い、それは私たちの以前のものよりも製図が進んでいた。相変わらずこの地に名前はないらしく、その場所にいるということしか分からなかった。また、ムーンホルトまでは森が続くので、あまり地図も宛てにできないとのことだった。私たちは数十分掛けてムーンホルトへと向かう森へたどり着いた。
森の中はロイネスクドに着くまでに通って来た森と対して変わらず、依然として退屈な景色が広がっていた。仇道の様なものはなく、代わりといっては何だが綺麗な小川が長々と続いていた。私たちはそれに沿って進んでいくことにした。川とコンパスを頼りに進むべき方角へ向かっていく。ムーンホルトはこの名もない地を超えた先にあるらしく、そこまではこの森が続いていることは確かだったので、覚悟が必要だった。
川はずっと一本で続いていたが途中で分岐があった。真っ直ぐ進めば方角は正しいのだが、右に曲がった先に木々の隙間から滝の様なものがあったので、それを拝んでいくことにした。川も流れを辿れば元の分岐点に戻れるし、道に迷うきっかけになることはなかったからだ。
木々を抜けていった先にあったのは想像よりも何倍も大きな滝で、見上げるほどの高さからそれが降り注ぎ、湖を作っていた。湖からは何本もの小川が出来て、この森の各所に伸びて行っていることが分かった。滝周辺は砂利の足場が広がり、低木が何本か生えていた。水場というのはどうも落ち着くもので、そこに腰を下ろし休憩することに決定した。
滝の打ち付ける音と小川のせせらぎが心地良かった。それ以外に映えるものはなく、木々が並んでいるだけの景色だったが、森の一郭にある秘密基地みたいでわくわくできた。湖で手を洗いながら彼は言った。
「ムーンホルトまではどのくらい掛かるのかな?」
街でもこの方角にあり、かなり遠いという情報は取得出来ていたが、正確なものは無かった。クウェンも他に人架にとって安全な場所は少ないという事で此処をお勧めしたらしい。戦争を嫌い出ていく者もいるが、基本的には戦争が決まるまでは他の比較的安全な人架の基地に案内していたらしい。しかし、ごく最近はそこも戦わざるを得ない状況で、逃げる先には向かないという事だった。人類にとって宝物庫である人架の国は、いずれにしても戦わなければならないのだ。それを知る者は数少ないため、ムーンホルトに向かう人架も少ないらしい。
「ここら辺の製図は行われているのは確かだから、遠いのも確実だね。生存訓練もしてくれたし2,3日で着くような場所ではないかもね。」
彼の問いにそう答えた。目的が定まっている分、前ほどのやるせなさはなかった。狩りの仕方も教わったし、時間さえ掛ければ生きてそこにたどり着くことは難しい問題にも思わなかった。
「着いてもこのような自然だとしたら住むことも検討する?」
彼は将来的に考えなくてはならないことを聞いてくれた。ムーンホルトは今の私たちにとって終着点だが、ここと相違ないということも大いにあるのだ。
「私は構わないよ。もう、街には行けなさそうだし。」
私はそう返した。きっと自然の中で生きていくことになっても、幸せは何処かにあるだろう。もしも、この世に今の情勢と全く関係なく暮らしていける場所があるならそれが理想だが。かつての私がウェープランに出会った時に感じたものだ。ムーンホルトに暮らしてる人が居るなら、もしかしたらそういう場所なのかもしれない。彼もそうだね。と森の空気を吸い込み、肯定してくれた。
森での暮らしも一週間ほど経ったのだろうか。まだ目安もわからない五里霧中の状態だったが順調に進めてはいた。前に見た滝の様な、自然だけにある美にも幾つか出会うことができ、退屈も少なかった。ラジオは途中からどの局も放送を辞め、もう殆どの国も戦争を行う流れが確立された状態になっていることまでは分かった。私たちに関しては、コンパスに狂いはなかったし、生態系もしっかりと形成されているおかげで食料にも困らずに進んでいけた。持ってきた食料も消費しながら野草や木の実を食べ、シカを狩るなど、習ったサバイバル技術を総動員して生存していくことが出来ていた。ここでの暮らしも悪くはなかったし、取り立てる程不幸ではなかった。その日、いつもの様に焚火を囲んでいると、彼は急に変なことを言い出した。
「アンナ。君には言っておきたいことがある。決してこれからの事を言いたいわけじゃないんだけど。」
特に身構えていなかったため少し驚いてしまった。ここ数日、特に彼も森での暮らしが嫌そうではなかったし、何を言うのか見当がつかなかったためである。
「何?急に、どうしたの。」
心配になって私は率直に聞いた。しかし、彼も思い詰めている様子でもなく落ち着いていた。
「まあ、ずっと思ってて、言えなかったことさ。不安にさせるような話なのは分かってる。でも聞いてほしいんだ。俺の人生観の話。俺はね、幸福の先に必ず幸福があるとは思わないんだ。どんなに苦しんで、絶望して藻掻いても、必ず報われるものではないと知っている。苦しみの果てにあるのは苦しみかも知れない。幸福になれずに苦痛の最中で死んでいくかもしれない。それでも可能な限り、前に進まなくちゃいけないというのが俺の考えさ。人生の終わりにさ、今まで足搔いて足掻いて足掻き切った軌跡があることで、それによって自分が報われるのは無理な話だったと、自分自身に証明できる気がするんだ。途中で諦めて何も手にできなかったら、諦めたことが手にできなかったことの理由になる。でも、そんな風に最後まで歩くことが出来たら、何も手にできなくても、自分が全力を出しても無駄だったって事は言い切れる。やり方が悪かったとか、努力が足りなかったとか、結果論は後からなんとでも言えるけど、自分なりの全力を出した事実は変わらないでしょ?今までずっと諦めずに歩んでこれたのはこういう考えからで、もう俺は報われるから頑張っているというより、もしも最終的に報われなかったとして、そのことを自分が諦めたことに結論付けられてしまうのが嫌だからそうしているんだ。だからそんな証明のためにも、もう全てが嫌になって何もできなくなるまでは、どんなに小さくてもいいから一歩ずつ歩もうと思うんだ。」
彼が元よりネガティブな性格なのは知っていたが、常日頃からこんなことを思っていたなんて知らなかった。彼の言う通り、それは報われる話ではなく、人生の終わりをかなり悲観的に捉えていた。苦しみだらけの人生で、結果的に報われることもなく死んでいくなんて、考えただけでも恐ろしいではないか。彼は平然としていて特に悩んでいるというような様子には見えなかったが、今の言葉は心の叫びというやつではないのだろうか。
「ホントにどうしちゃったのよ。急に。」
彼の暗い発言に私はそう聞くことしかできなかった。彼が言葉に付随して悲しみに暮れた様子なら、慰めることもできたが、今の彼の感情を読み解けなかった。
「悪いね。辛気臭い話になっちゃって。ただ言っておきたかっただけだよ、人生のパートナーだから。」
そう彼は笑った。誤魔化しているようにも見えるが考え過ぎだろうか。もう少し掘り下げた方が良いとは思った。
「別にいいのよ。その考えっていつからあったの?」
ときっかけを聞いてみることにした。そうすれば隠し事があったとしてもヒントは導き出せると思ったからだ。
「もう、ずっと前からかな。俺ね、子供の頃に家族を亡くしてるんだ。何てことないどこにでもある不幸だよ。事故だった。当初の記憶はないけど、自立するしかなかったのは覚えてる。貰い手が居なかったのかな?学校もやめて、働くことにした。でも人架によって就職の倍率は腰を抜かすくらい高かったし、何も持たない俺を雇ってくれる所なんてなかった。そんな日々で思ったんだ。俺は苦しみ、のたうち回りながら死んでいく人生なんだって。それでもそこで首を括ることは出来なかった。やっぱり怖いし。そうして腐って死んでいくのも怖くなって、無理に頑張らなくてもいいから、せめて前に進もうと思ったんだ。さっき言った様に自分で全力を出して報われることが出来なかったら、俺は頑張ったのに結局何もなかった。って自分に証明できるでしょ?そこからかな。別に特段不幸ってわけじゃないよ。一種のおまじないのようなもんさ。」
彼の過去は知らなかった。そしてもっと聞きたかった。家族の話もほとんどしたことがなかったし、そんな生きづらさを抱えているのも想像に及ばなかった。彼は不幸ではないと言ったが、今幸福な人がさっきの様な考えに捕らわれるものなのか。
「今のソルヴにとっての幸せは何?」
ずっと前に考えていたことが自然と言葉として出てしまった。本当にそれを聞くのは怖かったし、彼は私になんと言うかは予想できたからだ。
「俺は、アンナといたい。それだけかな。」
彼は私の予想通り、こう返した。それが真意かどうかはわからない。気を遣ってそう言ったとも取れるのだ。簡単に予想がつく答えだし、愛し合って駆け落ちしているような仲なら尚更違うことだとは言いづらい。面と向かって言う事でもないからだ。それが分かってたから聞きたくはなかった。そしてそれが本当に心の底から望んでいるものなのかは問いただしても仕方ないことなのだ。
「私も一つ、思っていたことを言ってもいい?」
彼に探りを入れるつもりではないが、自分の中で凝り固まった、きっと口にすべきでないことを打ち明けることにした。彼にもし、何か他にあるならば彼も打ち明けてしまうかもしれないという考えも勿論あったが。
「もちろん。何でも聞くよ。」
彼はいつもの調子で言ってくれた、やはり疑うなんて馬鹿馬鹿しいのかもしれない。
「本当に言いづらいんだけど。私にとっての幸せもソルヴなの。そこまではいいの。でも私はあなたに依存し過ぎてしまっている節がある。つまり、今はあなた以外の幸せを見出せないの。この旅の終わりの平穏な日々も確かに幸せかもしれないけど、なんだか漠然としてて掴めない。私の人生の大半はあなたと過ごす日々だった。あなたは私に多くをくれたし、私を幸せにしてくれた。そんなかけがえのないあなたが、いつしか私の全ての様に感じるようになったの。最近思うのよ、出会った頃と比べたらあなた老けたなって。私は老いないのにあなただけが年を取っていく。私が取り残されて、あなたが潰えていく。そんな現実がどんどん近づいてきてるようで。もし、あなたを失ったら、私は死を望んでしまうと思うの。私は人じゃないから分からないよ?でも人は老いていくでしょ?その過程で先方の死を追う感覚があることで、私も終わりに近づいていっているから、死を受け入れられるって気がするの。でも私にそれはない。いつ死ぬかもわからない中で、あなたが死んだ苦しみに耐えながら生きていくのはできない気がするの。だからこそ、あなたに依存し、愛が重くなりすぎちゃいそうで怖い。こんな世の中だし。まだ、そんなこと言う時期じゃないけど不安としてあるんだ。」
私は前に考えていたことをそのまま赤裸々に打ち合けた。最初は、彼の考えを引き出すのも目的に入っていたが、もしも彼に他に幸せがあるという考えがあったとしても、一層否定できない状況を作ってしまった。不安が勝ってしまったのだ。
「俺の幸せは本当にアンナだよ。君に出会わなかったらそれこそ首を括ってたよ。俺も君に沢山幸せを貰った。依存で言うならそこまで変わらないのかも。出会うまでは他のモノを望んでた。でもそれが本質じゃないって気が付いた。今ではもうどうでも良くなった。だから大丈夫。依存してもいいよ。添い遂げる覚悟もあるし、克服するようなことじゃない。それこそこんな世だ。縋るのも仕方ないさ。でも俺の死にはあまり言及できないな。それは事実だし。まあ、アンナの言う通りまだ先の話なんだし、進んでいけば何かが見えてくるんじゃない?他の幸せとかさ。」
と私の考えを見透かしたように念を押してそう言ってくれた。私の心の叫びを汲み取り、救い上げてくれる。いつもの彼だ。それにしても、私には、苦しみの先にあるのは苦しみかもしれないが、それでも進むという大層なことは出来なかった。それは無理かもしれないが、自分自身が歩むことで活路を開けるかもしれないということは伝わり、勇気をくれた。彼が幸せに最期を迎えられる様に私も頑張ろうという気にさせてくれた。
「昔望んでたモノって何なの?」
と私は彼がさっき言った、出会う前に欲していたものを聞いてみることにした。私と出会う前に彼は他に何を望んで生きていたのだろうか。
「この際だからはっきり言うけど、人の愛さ。人架との恋なんてニセモノだって思ってた。もちろん、人架は否定派じゃなかったし、差別的な行いをしたことは一度もないよ。今思えばそれは差別的な考えかもしれないけど。当時は作りものだし、それに心を奪われるのってなんか踊らされてるみたいだって思ってたんだ。怒らないでね。君を愛すと心で誓ったとき、その反面俺は自分の中で悪態をついた。誰からも愛されないからって全く別の何かにそれを向けるのかって。でも前にも言ったけど、アンナを見ているとそんな風には思えなかった。暖かいし、心も通じるし、何もかも同じだったから。だから今は心の底から愛してて、そんな思いは一切ないから安心して。」
彼も赤裸々に本来言うべきで無いようなことを語ってくれた。これらの思いがあったからこそ、ブライトの言葉が深々と刺さり、あんな風に泣き出してしまったのだろう。もしも私が、人との相違点を大きくして存在していたら、この愛は成立しなかったのかもしれないと思うと皮肉な話だ。私たちはお互いの満足のいく形で話し合うことができ、心の内を知ることが出来た。私の不安も軽くなり、前に進むことを気軽に思えた。
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