第17章 慣れ

 それからの二日間は流れるようであった。初日さながら船内での仕事が割り振られたり、役職ごとの仕事を学んだりとこの船に関する知識をふんだんに盛り込んだ訓練だった。私はどれにも興味を持てたし、割り振られた仕事もやりがいを感じた。娯楽の時間も、他の船員たちとの親睦を深められたし、カード以外の楽しみを見つけることもできた。その中で私は航海に行くことを決意した。夜にハオイルと話し合ったとき、彼女も訓練を終えたら航海に行くと断言していたのもその要因として大きい。ドウルや愉快な船員たちと仕事をしたい。仲良くなりたいという気持ちも非常に強くなった。しかし、この三日間、ソルヴの体調が良くなることはなく、途中海が少し荒れたりもして四六時中顔が青ざめていた。そんなになってまで彼は残り続ける選択をした。船内では運悪く、彼と十分に話し合うことができず、それが心残りだった。帰ったら彼と話し合い、耐え抜いたことを褒めたたえようと心に誓った。

 訓練の終了は、四日目の朝だった。三日目の夜にいつのように街へ停泊し、そのまま夜を船内で超す流れだった。朝礼は甲板の上で行われた。前日までは朝には街に居らず、この街並みを見るのも三日ぶりなので、ようやく帰って来たという感覚があった。そしてまた恒例のドウルの演説が始まった。

「訓練生の諸君。おはよう。そしておめでとう。本日を持ってこの訓練のプログラムは終了する。本当にお疲れ様。船から降りたら、外に居る職員に認定書とエンガルドのワッペンを貰ってくれ。それを持ってこの船団への入団を許可する。拍手!」

 と場を取り締まって言うと、船上の職員と桟橋に居たすべての職員が一斉に拍手を行った。同時に桟橋から木の橋が、私たちの乗っていた帆船に掛けられた。ドウルが訓練生を一列にし、桟橋に降りるように指示して、ドウルも訓練生の隊列の後ろから付いていった。鳴り止まぬ拍手の中で私たちは船から降りて、順番に認定書とワッペンを受け取った。船出の時と同じような興奮がまた私の中に沸き起こった。訓練の過程が終わり、また船での旅が始まる。そんな感慨深さが惚れ惚れしい。そうしてそのまま、いつも講義を受けていた広間まで歩いた。拍手も鳴りやみ、粋な授与式も終わりを告げた。船に残っていた船員たちも船から荷物などを下ろしたりして片付けに取り掛かっていた。そしてドウルは総括に入った。

「改めておめでとう。これで君たちはこのエンガルドの立派な隊員だ。その認定書を総合組合に持っていけば、船団への加盟が完了し、仕事が受けられるようにもなる。講義でも話したことだが、出航頻度はあまり高くはない。本職とするには時間がかかるし、最初は稼げるものでもない。あくまで副業として考えた方が良いというのは言っておく。しかし、ここでの仕事も両立できるように君たちが本業とする職場にはそれなりの手配はするのでそこは安心してくれ。直近の航海は一週間後だ。参加するなら前日の正午までには手続きを済ませるように。以上だ。今日はゆっくり休んでくれ。お疲れ様。」

 と詳細も交えて訓練を終了させた。その後はドウルも船に戻っていき、船員たちと作業を共にした。私たちは打ち上げでも行きたい気分だったが、手続きを早く済ませてしまいたい者や、家に帰ってシャワーを浴びたい者などもいたのでその選択をしなかった。ハオイルも最初、どこかに行こうと誘おうとしてくれていたが、気分の悪い彼を見てそれを控えた。その様子に彼が気づいて虚ろな目をしながらも気遣った。

「ハオイル。別に俺のことは気にしなくていいんだ。せっかく訓練を終えたんだ。二人で好きなところに行っていいんだよ。」

 と私にも顔を向け、自分が大丈夫という事を伝えた。しかし、流石にほってはおけない。それはハオイルも同じだった。

「ありがとう。でもいいのよ。またソルヴさんも一緒にお出かけしましょう?」

 と彼の顔を覗き込むように笑顔で言った。それには彼も参ったみたいで善意をありがたく受け取ることにし

「ああ、そうしよう。ありがとう。」

 とハオイルに短く返すと

「ええ、約束ね。」

 とハオイルも短く返した。どうやらただの社交辞令の口約束ではないらしく、ハオイルへの親しみやすさが伺えた。私もハオイルに礼を言ってとりあえずは宿に帰ることにした。ハオイルは手を大きく振って私たちを見送ってくれた。途中彼は私に対してもありがとう。と言ったがやはりしんどいのかそれ以上は何も言わなかった。

 宿に戻ると受付にオーナーが居たが、彼の様子を見て察したのかそっとしておいてくれた。部屋に入ると私は彼に黙って手を掴まれた。彼はそのままベッドまで行くと私の手を引いて一緒に横になった。そのままゆっくりと私を抱きしめ、深く息を吐いたがそれ以上は何もしなかった。余程フラストレーションが溜まっていたのだろう。急にこんなことをされて驚いたが嫌な気持ちは一切なく、むしろ喜びを感じていた。彼が半ば強引にこのようなことをするのは滅多になく、本当に弱った時くらいだ。そのような弱みを見せてくれることが嬉しい。いつもは頼りがいがあり、抱擁感がある彼がこのように私に頼ってくれるというのが。そして、半ば強引と言ったが、引く手は優しく倒れる時もゆっくりで、決して自分の欲に流されているだけじゃないのも伝わってきた。だから私も黙って彼の人畜無害な誘引に従った。そうしてしばらくすると彼も落ち着いたらしく

「急にごめんね、アンナ。」

 と私の髪を梳いて、私から手を放して言った。

「謝ることなんてないのよ。こうしてくれるのは実はうれしいのよ?」

 私は本心を晒し、彼の胸に顔をうずめるようにして意思を表した。

「そう?もし嫌だったら言ってね。」

 と言うと、うとうととし始めた。船の中では眠れていなかったのだろうか。

「うん。でもそんなに気にしなくていいよ。滅多にしないの知ってるし。」

 と少し甘えた声で彼に言って顔を離した。彼が頷き眠りについたのを確認した後、私はベッドからゆっくりと起き上がり、買い物に行くことにした。今日の昼食は私が作ろう。

 私が昼食を作っていると彼が起きてきた。顔色はもとに戻っており、久しぶりに元気な姿が見られてホッとした。ちょうど料理も終わる良い頃合いだった。一人でもできる比較的簡単な調理で済ませるために、下処理が必要な魚や肉は買わずに、素早くできる素材だけを使うことにした。根菜の煮物と豆腐のハンバーグを作り、パン屋で買ったほうれん草とチーズの惣菜パンをテーブルに並べそれを昼食とした。優しく食べやすいメニューにしたので彼も喜んで食べてくれた。食事を取りながら、また今後のことについて語らうことにした

「私、今回の訓練でやっぱり航海の旅に行きたくなっちゃった。前に言ってた長期の滞在も考えてて…ソルヴはどう?」

 と私は話を持ち掛け意見を聞いた。彼にとってはこの三日間は非常につらいもので、この街に残る理由はなくなってしまったかもしれない。

「俺は悪いけど航海はもういいかなって思ってる。向いてないと思うし。でもこの街に住むっていうのは悪くないね。」

 と彼は長期滞在を肯定してくれたが、海には出たくないらしい。彼と一緒に行くのが一つの夢だったが、あんな様子を見せられては無理強いもできない。

「気を使わなくてもいいのよ?わざわざここに居る理由をソルヴが感じれないなら私だけの都合に付き合わせることにもなるし。」

 海に出たいという気持ちがあったが、彼が私に気を使っているのではという溜飲を下げたかった。この三日間無理をしていたのが私のためなのではないかという推測があったからだ。

「俺はアンナと同じでこの街は好きだよ。ここにいる理由は他にいくらだってある。まあ、住むかどうかは次の航海で決めればいいんじゃないか?宿代は払ったままだし。俺はアンナが船に乗るからここに残るわけじゃないってことさ。」

 良かった。彼も本心で言ってそうだ。これで心置きなく航海に行ける。後は

「私が出ている間、ソルヴはどうするの?」

 当初の船に乗るという目的を失った彼は、私の居ない十日間をどう過ごすのかという事が気になった。

「まあ、短期で出来るアルバイトでもするよ。言葉がなるべくいらないね。ああ、一人で大丈夫だよ。多少のコミュニケーションは取れるし、自分がほとんど話せないことくらいは伝えられるから。」

 かくして今後の予定は決まった。彼は次の航海で。と言っていたがもう私の腹は決まっていた。こんなにいい街はそうそう見つからない。ここで余生を過ごすことになっても私は納得できるのではないかと思えるほどにこの街を気に入っていた。そんな想像もしながら、私は食べ終えた皿を片付けた。

 その後は宿の宿泊日数を調節し、エンガルドへの加盟手続き及び船の仕事を受諾し、航海の日を迎えた。その間、彼は靴屋で裏方のアルバイトを見つけることができ、しばらくはそこで働くそうだ。

 例の船場に行くと既に職員は何名か居て船の荷づくりを行っていた。今回の航海の目的は貿易らしく、隣国とのそれを行うために積み荷もかなりのものとなっていた。

「いってらっしゃい。気を付けて。帰ってきたらいろいろ聞かせてね。」

と彼は私の着替えや日用品が入ったボストンバッグを私に手渡しながら言った。

「うん。行ってきます。思い出話いっぱい聞かせるね。」

 と私も彼に言い、手を軽く握った。この前ハオイルと衣装を買いに行き、一日分の服をそこで手に入れた。それは前にハオイルが着ていた海賊の衣装とほとんど同じで、初日はそれを着込んでいた。やはり少し恥ずかしかったがここに来てその気持ちは薄らいだ。

 そしてその場で彼に見送られて、いつものように桟橋に立つドウルの元に向かった。例によって声を掛けてもらい荷造りに参加した。そうしているとハオイルも到着し、私の服装に気づいてはしゃいでいた。同じ青いバンダナで揃えていたので目立ち、直ぐに気づいたようだ。作業を行っていると、この前訓練を受けていた残りの三人もいつの間にか加わり作業を行っていた。

 全ての荷物が船に積まれ、船員が全て乗り込んで点検が終わると前のようにドウルの合図と共に船は港を離れた。前と違う点は見送る者の数が若干多かったくらいだ。このように訓練の時とそう変わる点もなく、特筆すべき点もなかった。まだ私たちは見習いという扱いで、業務も一日の労働時間が長い以外は前と変わるような点はないのだ。しかし、一日の流れというのは少し違った。前回は訓練のための特別なカリキュラムの上、生活を行っていたが、ここでは他の船員たちと全く同じ船の規律に従う必要があった。長い娯楽の時間は夕食後にしかなかったし、シャワーも決められた時間の中で浴びる必要があった。規律に従う必要はあったが、ストレスを大きく感じることはなく、業務に関してもまだまだ学べる点は多く、退屈な一日ではなかった。しかし、一日目の晩御飯だけは特別で、この船の特色が強く出ていて魅力的だった。

 私たちが晩におなかを空かせて食堂に入ると、料理が大皿に乗って並べられている点はいつもと同じだったが、訓練の時とは違い、そこには肉料理や魚料理、パイやケーキなどのかなり豪勢で非常に食欲をそそる料理が隙間なく揃っていた。そんな光景に圧巻しながら席に着き、人数が揃うとドウルがこの美しいご馳走達ついて説明してくれた。

「さあ、楽しい楽しい食事の時間だ。見習いの諸君はこの絶景に驚いていることだろう。実は我々は出航した最初の夜は「プレ・フィースト」と言って、その名の通り宴を行うことにしている。出航の祝いと共に、これから先の質素な食事を取ることになる我々自身への計らいでね。それで、このように新鮮で日持ちしない料理も惜しみなく振る舞うってわけだ。だから思う存分楽しんでくれたまえ。それでは乾杯!」

 と何とも愉快な食事の時間が始まった。乾杯と共に歓声や口笛が起こり、食事の最中は一段と賑やかな雰囲気に包まれた。食事はどれも美味しく、レパートリーも豊富で全ての種類を食べきることは残念ながら出来なった。サイコロステーキやロブスターの蒸し焼きなどは、肉汁が溢れたり、柔らかく自然な甘みもあったりと思わず声が出る程で、新鮮で高級なものだとすぐに解った。その他、ケーキなども品種は少し変わっていたが、しっとりとして、使われているアーモンドクリームなどが絶妙に甘く、この船にパティシエがいるのではないかと疑った。このように雰囲気によるものもあるかもしれないが、普段の家庭的な美味しさとはまた違う、最近食べてきた中で一線を画すクオリティのものだった。私たちは談笑をしながらも夢中で食べ続け、しばらく動けない程に満腹になってしまった。他の船員たちも和気あいあいと笑い合い、愉快に鼻歌まで歌う者まで居り、誰も彼も好きなだけ食べて満腹になっている様子だった。ドウルも皆がそうなることは予想しているようで、食事の後の予定は緩く設定され、ゆったりとした夜を過ごせるようにされていた。

 私とハオイルは、今夜はボードゲーム類を行わずに部屋で談笑を楽しむことにした。くつろぎたいのと、食事中に何かと話が盛り上がったためである。この前と同じくDの部屋で、前よりも女性船員は二名ほど多いらしいが、この部屋に今いたのは自分たちとユナレだけだった。ハオイルのベッドに二人で腰掛け

「ハオイルは何が一番おいしかった?」

 と私は感傷に浸りながらもそれを共有しようとハオイルに聞いた。ハオイルは少し考えた後

「意外とケーキかな。最後に食べたのもあると思うけど。独特で美味しかったな。」

 と答えた。同感だ。どれも美味しかったが独特な風味をしているものは思い出に残る。

「分かる。アーモンドクリーム?なのかな、甘いけど上品でおいしかったよね。ユナレさんは何が好きですか?」

 と私は自然な流れで問いかけた。この前に比べユナレにはより好感が持てており、ハオイルが居てくれると不思議と声を掛けやすかった。ユナレは最初から会話に参加していたわけではなく、急に話しかけられたので戸惑っている様子だったが

「ロブスターかな。」

 と特に声色も変えずに淡々と答えた。何でもないことのように答えたが、ユナレも取り皿いっぱいに料理を盛っているのをちらりと見ていたので、失礼になるがそれが微笑ましかった。そしてこのロブスターもまた絶品だったのだ。ハオイルも

「わかります!個人的には仄かにレモンのような柑橘系のにおいが香って食べやすかったです。」

 と同調し、興奮した様子で反応した。話題に上がったのがどれも私が食したもので良かった。食べてないものだと当然、食べたくなってしまうからだ。それからは普段の料理の話に移転したり趣味の話に移転したりして時間が流れた。ユナレは相変わらず、聞いたことにしか答えず、話を広げるという事を知らないが、話していてなぜか楽しいと思える人相をしていた。一見感情のない人間のように思えるユナレだが、料理もし、ギターを趣味にしているなど意外な一面も垣間見えることができ、大げさな言い方だがそんな人間はいないという事を思い知らされた。

 シャワーの時間まで三人で過ごしていると前のシヌラスという女性ともう二人の女性船員が部屋に入ってきた。彼女らに挨拶をし終えると、シャワーに割り振られた時間にシャワー室に行き、体を流した。消灯時間まではシヌラスと先ほどの二人の女性船員が話していて、普段もその三人で話しているようだった。ユナレを含む私たちは、その日は各々好きなことをして過ごしていたが、自然とこれから私、ハオイル、ユナレの三人で話す形になる。シヌラス達とは普通に会話もするが、私が親密になっていったのはハオイルとユナレだった。シヌラス達にユナレを邪険にする感じも見当たらず、時たま声を掛けていたが、私たちが居なかった前はどのように過ごしていたのか気になった。ユナレは一人で過ごすことに何とも思わないかもしれないが、もしかしたら寂しさを覚えているのではという気持ちがあったからだ。まあ、そうであったとしてもなかったとしてもこれからもっと会話していきたい。

 私はソルヴがこの船での生活に興味があるという事を述べていたので、ここでは日記をつけることにしていた。消灯時間まで彼に今日のことをどう伝えるかを、高揚感を覚えながら考え、それを日記に記した。

 時間の流れというのは怖いもので漫然と日々を過ごしているともう5日が過ぎた。この10日間の航海は5日間で隣国まで行き、そこで貿易を行い、残りの5日で帰るというプランだった。稀に海が荒れて帆を止むを得ず畳まなければならず、進めない場合もあるので、それよりも伸びる場合もあるそうだ。この5日は海も荒れることもなく平穏に過ぎた。

 隣国の港に着いたのは5日目の朝だった。港では既に先方の貿易商が待機しており、桟橋には数多くの木箱や樽が積まれていた。この街も古創主義らしく、ドウルにそのことについて尋ねた。それによると、この海域は古創主義者たちがほとんどで、ウェープランがただ独立して存在しているわけではなく、古層主義者間の交流によって成り立っているらしく、歴史をもっと知りたいと思うような話を聞かせてもらった。

 何度も行っているそうで、ドウルを含む船員たちは慣れた手付きで船から商品を持ちだした。ドウルは交渉を行っていたが、言葉は同じで相互に需要も分っているということで、取引は詰まることなくスムーズに済んだ。その間、見習い達は貿易の様子を見学し、手の空いている船員たちに詳細を教えてもらった。そこではウェープランに特産品があることやここで取り入れたものは商店街などにも貢献しているということを学んだ。交渉が済み、積み荷の確認が行われるとすぐに錨が挙げられ船が港を離れた。十日間に収めるにはあまりゆっくりしていられないだろう。

 それからの五日も取り立てるようなものは少なかった。八日目に酷く海が荒れたが、転覆の危険性が出てくる程のものではなく、予定通りにウェープランの街に着くことができるそうだった。見習いが仕事を幾つかこなし、適性を調べるためにも甲板に上がる機会は多く、だだっ広い海はほとんど代わり映えが無かったので、慣れてきて退屈にも感じたが、船自体の生活は未だに充実感を覚え、今後の長期の航海も無理せずやっていけそうだった。それ故にこの街に住むという意思も歪むことは終ぞなかった。

 街の港に着いたのは予定通り、10日目の夕暮れ時だった。私はクリムと共に甲板に居て、一緒に航海図を見ながら普段の仕事と帆の張り方などを教えてもらっていたが、その最中にウェープランの街が見えてきた。他の船員たちは普段のことなので動じていなかったが私は感動的だった。総じて退屈だったわけではないが十日間というのはやはり長かったからだ。船での仕事にもある程度慣れ、常に指示されなくとも作業が行える仕事も増えた。まだまだ学ぶべきものは多く、配属も決まっていないが、私は既に大挙を成し遂げたような気分だった。クリムはその様子に気づき、説明をキリのいいところで〆ると船首に言って景色を見ることを許可してくれた。もう見慣れた光景とも言っていい港周りの海だが、夕焼けも美しく波の音は綺麗で、退屈に感じ始めていた景色が再び心に染みた。

 家に帰ると彼が晩御飯を作って待っていてくれた。運良く、アルバイトの日ではなかったようだ。今日のメニューはポテトサラダとチキンカツだった。船の中では質素な食事が多く、豪華だったのは一日目だけでそれ以降は質が良いとは言えないものだったので美味しい料理が食べられるだけで心が躍った。久しぶりに美味しいソルヴの料理を食べれると告げると彼も喜んでくれた。

 また食事中に私はもう心に決めたことを彼に話すことにした。

「やっぱり私、この街に住みたい。船での仕事もすごくやり甲斐があるし、居心地がいいの。」

 今の私にとってわざわざこの街から出て、他の所に行く理由はなかった。ハオイルとももっと仲良くなりたかったし、他の船員たちとも同様だった。

「いいんじゃないか。そうなると家を借りたり、長期で出来る仕事も見つけたり色々と手続きをしなきゃね。明日、賃貸を探しに行くか?」

 と彼も乗り気なようで、急に旅に出たときと同じようにあっさりとこの街に住むことが決まってしまった。次の航海までは1カ月もあるらしく、ドウルが言っていた様に本業とするのは難しそうなので私も住むとなれば新しい仕事を見つける必要があった。

 予定が決まり、夕食を片付けた後は日記と共に船でのことを彼に語り、彼からもここでのどのように過ごしていたかを聞けた。私と同様で、彼もこの街での暮らしに充実感を覚えているらしく、お互いにこの街に住みたいという思いは変わらなかった。

 それからというもの、街での暮らしも忙しいものになった。まず不動産屋に行き、家を借りた。商店街と船場までの距離がある場所で家賃も安かったが、この街がそこまで大きいわけでもなく、特に苦労する事柄でもなかった。彼は仕事に就けるように本格的に言語を勉強しだしたし、私も仕事を探すことにした。

その2週間後に仕事は見つかり、奇しくも造船所で働くことになった。工場勤務と似たようなものがあったし、機関士のユナレと一緒に仕事をしたい気持ちから船についての知識を増やしたいと思ったのが理由だ。仕事内容は造船と船のメンテナンスというもので、船場に停まっているような帆船だけでなく、小型ボートやヨットの開発、受注なども請け負っていた。

 就職する面で、様々なところに視察にも行っていたのだが、以前にハオイルが言っていた、見えない分どす黒いという発言の意味が少し垣間見えた。確かにこの街でデモや暴動はないが、人架お断りなどと書かれた店はいくつかあって、差別的な扱いをする人はこの街にもいた。どこに行ってもこの問題からは逃れられないのかもしれない。その程度なら良かったがどす黒いと表現するに該当する問題もいくつかあった。  

 それは人架というだけで謂れのない暴力や嫌がらせを受けてこの街を出ていく人架は一定数おり、その被害は少ないものの、その分陰湿で傷つき方は他の街より悲惨な状態になることが多いという現実だった。桃源郷のように感じていた街だが良いことだらけではなく、この街を抜け出さざるを得ない状況に追い込まれる可能性を秘めていることを知ってしまった。しかし、造船所及び総合組合ではそのような動向は見られず、快適に仕事を行えそうだった。

 以降、造船所で普段の仕事を行い、定期的に出る帆船に乗るという生活が続いた。帆船が出航する間隔はまちまちで、最大で2カ月も出航しなかった時もあった。私が乗っていたのはラ・ヴォヤードが主で、それ以外の船は漁業などの目的で港を出るものもあり、それには漁業権が必要などという理由で、その船が多く出る期間はラ・ヴォヤードが出る頻度が減るといった都合だった。

 その後、船では私の希望が通り、ユナレと一緒に働くようになった。ユナレは相変わらずの性格で、自分からは仕事のこと以外はほとんど話さないが、ドウルの言っていた様に面倒見のいいところがあり、私が仕事を覚えるまで何度も教えてくれた。海が大荒れして危うく転覆しそうになった時は、黙って傍に座り私が落ち着くまでそうしていてくれた。 それらの日常を通して、私の中でユナレへの信頼感は最初と比べ物にならない程大きくなった。ハオイルとももっと仲良くなり、人架という事を明かすまでに至った。最初彼女は驚いた様子だったが、それを知っても変わることなく普段通りに接してくれた。街に出かける時もいつも配慮してくれたし、そのことを誰かに言うようなこともなかった。次第にお互いの悩みを打ち明けられる程になり、私にとってハオイルは過去一番の友人になった。ドウルも一種の特別な存在だった。お互いに人架だという事を知っているというのは妙に安心感があり、絆のようなものを感じていた。そしてドウルは人付き合いも良く、たまに食事にも連れて行ってもらい、その時はソルヴも招いてくれたおかげでその二人も良好な関係を結べていた。この街の闇の部分を知ったとしても、ここに残る価値は十分にあり、今までになかった人々との強い絆を感じることができて、充実した日々を送っていくこととなった。

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