第9章 拠り所

 朝の早い時間、私が寝ていると男が尋ねてきて、戸を叩いた。私が出ると

「おはようアンナ。起こしちゃった?早く来るっていうべきだったね。業務の詳細を伝える必要があったからね。」

 と業務の説明に入った。私の業務は昨日伝えられた以上のことはなく、至って簡単なものだった。書類をそれぞれの名目にあったファイルにいれ、整理するといったものだ。書類も直近で使うものではなく、私に委託できるらしいのだ。説明を受けて

「分かった。今日の夜に届けに行ったらいいのね。」

 と男が持ってきたカバンを受け取った。彼はそうだ。と言ってわからないことを確認し、ないと答えると仕事へ向かった。

 男が持ってきたカバンはずっしりと重く、中にはそれなりの量の書類があったが、2,3時間で終わってしまって、あとは暇を持て余してしまった。途中休憩を挟んでいたが、朝に取り掛かったこともあり、昼すぎには完全に整理は終わっていた。夜になって書類を届けに行くと

「ご苦労さん。はいこれお駄賃ね。」

 と言って男は封筒を渡してくれた。その時は確認しなかったが、その日のホテル代と、生活できるお金が入っていた。

「ありがとう。もう少しハードな仕事でも大丈夫よ。」

 私はありがとうと言えたが、まだすっきりとはしていなかった。自分の意見も言えたがどこか社交辞令なところもあった。男は

「といっても運送が本業だからね。そんなにやることもないんだ。」

 と笑って返してくれた。後は特に雑談もせず、明日は切手を貼る作業だ。と連絡して私をホテルに帰した。

 それからはそれらの作業が私の日課になった。手紙に切手を貼るのも、貼ったものを近くのポストに投函するといったこれまた簡単なものであった。休日は判子を押すのを手伝ってくれと頼まれたが、家には無理にあげようとせず、わざわざこっちに訪問してきてくれた。こんな生活を送るなかで、私の中に少しの信頼と疑問が湧いて出ていた。信頼は言うまでもないが、疑問は男の金銭面だった。毎日のように私のホテル代と食料費等々を払っていて本当に大丈夫なのかということだ。

 最近はほんの少しばかり雑談もするようになり、男が金持ちというわけでもないことが分かったのだ。私がこの街に来たときに大金をくれたのもやはり説明がつけられなかった。そんな疑問が立ち込めていたが、そのことを話題にすればこの男のことだ、駄賃が足りないと案じるに違いないと思い、ためらった。十分に生活はできているのだ。そんな心配をさせたくなくて私はしばらくそんな話題を出せずにいた。そんなことを思いながら、日々を過ごしていった。

 業務にも完全に慣れていたそんなある日、普段の訪問時間はもう少し遅かったが、その日は早朝に男が戸を叩いた。私は眠気眼をこすりながら戸を開けたが、焦った様子で

「アンナ。今そこの路地で君の名前を耳にしてね。どうやら、この辺でも君の捜索が行われているみたいだ。幸いなことにおおがかりじゃないが。」

 と私の身に危険が迫っていることを報告した。いつかこの街にも及ぶと思っていたが考えていたよりもずっと早かったので狼狽した。

「そんな。私どうすれば。」

 逃げたいという気持ちもあったが、勝手な話、また振り出しに戻るのは嫌だという思いも勝っており、どうするべきかわからなかったのだ。

「君が嫌なのは重々承知の上だ。でもうちで匿うよ。ここも聞き込みが入るだろうし、ここよりは安全だ。」

 嫌だとは言っていられなかった。未だに男に対しての疑念はあったが、前ほどではなかった。私は黙って頷き、従うことにした。荷物をまとめて、早々にチェックアウトを済ませた。街は男の言ったように大掛かりな捜索が行われているわけじゃなかったが、途中の路地で聞き込みをしているのが聞こえてきた。私たちはそれに前もって気づくことが出来たので迂回して、回避することができた。数人での捜索が行われているのは確かだった。何度か迂回したが、男の家には十数分で着いた。私はもし見つかったら、と気が気でない状態だったので何時間にも感じられたが、なんとか見つかることなく事なきを得たのだ。

 家に上がり、居心地の悪さと不安を抱えて立ちつくしていると

「座って。」

 と男に促された。私は落ち着かないまま背の低いテーブルの置かれた居間の地面に座った。男も続けて座り

「きっと大丈夫さ。すぐに居なくなる。ここに来てもちゃんと追い払うよ。」

 と励ましてくれた。私が膝を抱えてうつむいているのを見た男は、キッチンに行って温かい飲み物を淹れ、自分と私の前にそれを出した。出されたのは紅茶だった。この時の不安はこの男にどうこうされるということよりも、見つかってリサイクルにかけられることに対するものが圧倒的に大きかった。それでもこの男からの不安も消えずにいた。

「暫く籠城することになるけど大丈夫?」

 私のもう一つの不安要因であることについて、男から触れてきた。

「大丈夫かはわからない。でも、何もしないって約束してほしい。」

 歯に衣着せず、男に対する疑念を口にしてしまった。そんな口約束は何の意味も持たないことはわかっているが兎に角安心したかった。男は私のそんな蔑みを咎めることもなく優しい口調で

「なにもしない。約束する。もしどうしても心配ならナイフでも貸そうか。いや、これは冗談じゃなく。」

 と言って戸棚からナイフを取り出しテーブルに置いた。置かれたのはポケットナイフだが、激しく抵抗すれば致命傷を与える可能性のあるものだ。男が冗談でない言ったのも確かなようで、この発言でこの男は自分に危害を加える気がないことが信用できた。どうやらこの男には私に対する警戒心はないようであった。同時に今までの猜疑心も和らぎ、しばらくここに居ようという気になれた。私は少し安心し、またリサイクルにかけられるといった不安感から目を逸らしたいのもあって、今まで気になっていたことを聞くことにした。

「あの、今まで気になってたことがあって。」

 私は紅茶を静かに啜った後、男に聞いた。

「なんだい。」

 男は座り直し、自分の紅茶を持ちあげながら言った。

「まずは、お金のこと。あなた別に裕福って訳じゃないよね。毎日のように他人のホテル代とか食事代とかを払える余裕はあるの?私がここに来たときも大金をくれたし。」

 今度は彼からではなく私から話を始められた。そして日々、気になっていたことを聞く時が来た。

「余裕か。あるわけじゃないね。否、ここだけの話ちょっとカツカツかもね。でも心配しないで。こうしてちゃんと生活できているから。」

 そう言って男は少し陽気になって見せていた。なぜそこまでして…と今までなら心で考えたままだったが、今は聞く気になれた。

「そんな…ねぇ、だったらどうしてここまでしてくれるの?見ず知らずの、犯罪者かもしれないんだよ?事情も深く聞かず、なんで大金や仕事を与えてくれるの?」

 やっと聞けた。これの答えで猜疑心がすっかり消え失せることはないだろうが、かなり重要な判断材料になるだろう。

「もちろん、最初君がなにも言わないから、何か罪を犯して逃げてきたのかもって考えはあったよ。でも、違うって思った。どこか孤独感と恐怖心が見えたから。恐怖心も何かに追われているということよりも、今すぐ俺の前から立ち去りたいっていうのが伝わったから。まあ、半分は勘みたいなものだよ。」

 そんなに見え見えだったのだろうか。男は真面目にそれらしい理由を答えてくれたが、まだ十分ではなかった。

「それでも私にここまでする理由にはならないよね?」

 と本当に私の聞きたいことに答えるように促した。

「うん。今話したこともあるけど正直に言うよ。今の君に、と言うより信頼が出来てから言うべきじゃないかと思ったけどね。最初はなんてことない、倒れている人を助けるのは当然だ。その後に君に大金を渡したのはその、君は凄く綺麗だった。だから、助けたい。そう思ったんだよ。これだけは断っておくけど、手を出そうなんて気は全くなかったよ。仕事を与えたのも、力になりたかったから。君を繋ぎとめておく口実なんてことはまるでない。君が嫌だというなら深く関わるつもりもなかった。俺もちょっと孤独でさ。」

 思っていたことを正直に、この男は、いや彼は告白した。噓偽りなさそうな話で、疚しく思われるような、下心のようなことまで晒された言葉には信憑性があり、私をひどく扱う気はないという感情を信じることができた。前の家ではこんなにも真剣に私の身を案じながら話されたことはなく、今回が初めてだったこともあり、一層この男を信頼したいという気にさせられた。彼は私に気がありそうな発言をしていたが、それが全てではないと知り、不思議と汚らわしさは感じられず、落ち着いて話を聞くことができた。彼は恥ずかしそうに何度も紅茶が入ったカップを置いたり、持ち上げたりしていた。それでも動機はあまりにも単純で、彼がここまで私に尽くしてくれるのかは説明し切れないが、私をここに留まらせる勇気を与えるには十分だった。

「暫く、ここにいることに決めた。」

 と私は初めて彼の前で笑った。

「ありがとう。何でもないところだけど。」

 と彼は軽い冗談で返してくれた。また、暫くして彼がまた少し真面目な様子で

「アンナ。君のことも聞いてもいいかな。」

 と改めて言った。

「後で。ご飯食べたい。」

 魚心あれば水心だ。今までのことも話してしまえ。そう思った。時刻はもう昼頃で、朝から何も食べていなかったので、そう言って後で話すことにした。この時、私が見つかるという不安とは別の不安が心の中に起こっていたが形にはなっていなかった。

 彼は了承するとキッチンに行き、調理を開始した。出された昼食はコンソメスープとブロッコリーのサラダ、それと白魚のムニエルだった。それを先ほどの紅茶と、パンと共に食べた。スープとサラダは二人分あったが、魚は一人分しかなかった。彼は朝食べたし、お腹も空いていない。と言って私にくれたが、パンを二つ食べていた。料理の味は平凡に近かったが、所々に細かなこだわりが見受けられ、美味しく頂くことが出来た。私たちが食べ終えて、彼が皿を洗ってひと段落すると自然と会話する流れになった。

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