第8章 頼みの綱

 昨日は散々寝ていたのに起きたのは昼前といった時間だった。乱れていた思考も朝目覚めると多少は平坦に近づいた。それでも考えれば考えるだけ右も左もわからず、自分がやるべきことも定まらず、混乱している状態にあることは否めなかった。まず、生活のことを考えると、働くことを視野に入れなくてはならない。でも身分を証明するものもない。いや、あったとしてもそれは悪手かもしれなかった。きっと今頃は私がいなくなったことに気づいたブラウン家が、捜索届を出しに行っているだろうから。離れているとはいえ、今自分を認知する人間は少ないほうが良かった。

 私はもっと考える時間が必要だと判断し、このホテルにしばらく泊まることを考え、受付で手続きを済ませた。後は、食料と衣服が必要だった。食料はホテルにキッチンが備え付けられているわけではなく、ここでの食事は簡易的なものになりそうだった。衣服も着替えは当然持っておらず、昨日からずっと同じ格好で何着かを買う必要に迫られた。これらの理由で、私は買い物に行くことにした。ホテルの受付で商店街の位置を聞き、そこに向かった。昨日のあの男のことは頭にあったがもう少し考える時間が欲しかった。

 商店街にはかなりの短時間で到着出来た。お世辞にも発展しているとは言えず、この街も都市と呼ぶには物足りなかった。とは言っても商店街は必要最低限の物は不自由なく揃えるくらいの規模はあった。

 私は最初に服を買いに行った。昨日から着替えておらず、雨に晒されていたことで、どこかベトついて気持ち悪かったからだ。とりあえず下着と一日二日の服を買って店を出た。次に行ったのはスーパーマーケットだ。これも必要最低限といった感じに簡易的な食糧と水、あとは日用品を買って出た。

 帰りにコインランドリーに行き、昨日来ていた服を洗濯してから帰ることにした。やはり、買い物でお金を使うたびに何かと考えさせられた。男が濡れた衣服を脱がさなかったのは何もしない意思の表れだったのかといったことも考察していた。結果的に買い物の大半は昨日のことについて考える羽目になった。後はなんといってもこれからの生活をどうしていくべきかという結論が出ていないことが問題だった。昨日貰ったお金は寄付にしては大金だったが、あまりゆっくりと思考を巡らせて足踏みしているほどの余裕はなかった。今日のように最低限の物しか買わない生活を続けたとしても、食事やホテル代だけでも馬鹿にならないのだ。パニックという程でもなかったが多方から足を引っ張られているという感覚に、焦燥感や恐怖感を覚えた。思考が何度も言ったり来たりを繰り返し、不甲斐なくどうすべきかという結論も出せないでいると、あっという間に洗濯は終わっていた。

 ホテルに帰る途中も帰った後も考えてしまった。途中から私の考えは思考ではなく悩みに変わっていた。自分で答えが出せないことは気づいてきていた。仕事を探すにもどうやって探すか、探せたとて私の捜索がここまで及んできたときはどうするのか。それなら暫くは働かない方が。でもそんな時間は。といった風に、様々な矛盾点が跋扈し結論など出るわけもなかった。やはり、右も左も分らぬのだ。どうするべきか、どうしたいかという疑問。完全に思考が行き場を無くしてしまった。

 結果的に私は昨日の男を頼るという事に落ち着いた。決して信用したわけではない。頼れる者がいるという安堵の思いもなかった。やむを得ずそうするのだ。いくら普段優しくしていても、自分が危険になったら平気で踏み台にしようとするのが人の性だ。そのことを私は痛いほど知っているのだ。警戒すべきだ。慎重に冷静になり、心を預けてはならない。最終的に何をされるか分かったものでもない。私はこれらの事を深く意識することを自分に約束し、あの男の元を訪ねることを決めた。しかし、心の準備が必要だったので、明日に尋ねることにし、その日は何の変哲もなく過ごし、昼夜は今日買った簡易的な食事をとってシャワーを浴び、早めに寝た。

 朝は顔を洗ったり、朝食を済ませたりして身支度し、ここを出る準備を済ませた。今日は心の準備も込めて、昼すぎぐらいに訪問することを考えていた。軽やかな気持ちというわけではないが、色々質問してその後に自分がどうするべきかを決めることにしたので、昨日ようなの堂々巡りには陥ってなかった。ありがたいことにこのホテルの部屋にはテレビが備え付けられており、それで暇を潰すこともできた。ニュースを見たが、まだ私の行方不明の話は上がっていなかった。ニュースになるようなことではないのかもしれないが、もしなっていたらまた考えることが増えてしまうので知ることは大切だ。最も、ニュースにならなくともこの辺りに捜索が及ぶことは十分に考慮しなければならない事柄だ。   

 その後は昼までバラエティー番組番組を見たり、ホテルのロビーで新聞を借りて見たりとまた何でもないことで時間を潰し、昼になると昼食を取って最後の身支度をしてこのホテルを出た。

 当然、足取りは軽くなく妙に緊張していた。ホテルを出て数分で例の家に着いてしまった。

 戸を叩くと間もなくして、あの男が出てきた。私を見て少し驚いた様子だったが

「こんにちは。どうしたの?」

 と聞いてきた。嬉々として言っているわけでもなく、その声からは疚しさは感じられなかった。少なくとも今の内は。

「聞きたいことがあって…」

 親密になる気はない。その思いは同じだった。だから私は最低限のことだけ伝えることにした。

「そっか。立ち話も何だし、座って話そう。入るかい?」

 警戒しなくては。そういう思いもあったので私は露骨に嫌という顔をしてしまっていた。この男を信用しておらず一種の敵対心に似たものはあったが、別に不快な思いをさせてやろうなどという気があった訳ではない。しかし、その男は特に落胆した様子も見せず、当然かといった感じで

「じゃあ、カフェにでも行こう。それでいい?」

 と聞き直してきた。私がうなずくと、少し待ってくれ。といって部屋に戻り、しばらくして戻って来た。きっと財布を取りに行っていたのだろう。

 この男が向かったのは私が昨日買い物に行った商店街付近のカフェだった。途中は特に会話もせず、並びもせずに私は男の後ろをついていくだけだった。男も、私のあまり話したくないという雰囲気を感じ取り、無理に機嫌取りを行うようなことはなかった。商店街付近は数分で着いたため、沈黙は長かったが息が詰まるようなことでもなかった。

 カフェは木造の年季が入ったような建物で、内装はカウンター席と座席の両方がある店だった。昼頃だったが客足はぼちぼちで、騒がしくなく、話しやすい環境と言えた。男は二人席を選び、私たちは向かい合う形で座った。男は飲みたいものはあるか。と聞いてきたが、私が首を横に振ったのでコーヒーを二つ頼んだ。コーヒーが届くまでも沈黙が続き、男は私が話すのを待っているといった様子で急かすこともなかったが、さすがに気まずかった。今までほとんど黙っていたのもあり、自分から話したいと言ったのに、なんと言い出せば良いかもわからなかった。また、今更になって何を聞くのかを整理できなかった。コーヒーが届いて、沈黙が更に続いた後、声を出したのは男の方だった。痺れを切らしたのか、ひと段落ついたと思ったのかはわからない。

「聞きたい事って何かな?」

 今まさしく、それを考えていたのだ。私はしばらく考えたが言葉は纏まらなかった。

「えっと、仕事の事とか。」

 相手の目も見ず、私はそう短く綴った。情報が少なすぎるのは分かっていた。それは詮索されずに必要な情報だけが欲しいという私の我儘もあった。色々質問する気だったが、いざ男を目の前にすると上手く話すことが出来ない。男も話を噛み砕けてなかったが

「仕事を見つけたいんだね。」

 と情報を絞るように確認してきた。そうまずはそれだ。どうやって見つけるかという問題もある。でも私が逃げ出してきて、今身分を明かすことにリスクがあるということや、無一文なので職には就く必要があるといった複雑な情報が圧倒的に欠落していた。男も一昨日に逃げ出してきたと推測していたが、私の口からは何も伝わっていないのだ。それが無くては私が本当に欲しい情報は得られないのは確かだった。私が伝えるべきかをヤキモキしていると

「それで、君が模索しているのはただ単に職にありつきたいって訳じゃないってことで間違いないか?」

 と男は続けて推測をした。この男は読解力あるようなので話が早い。でも黙っていても埒が明かないと思ったので、ある程度は話すことにした。この男に自分の命運を託すつもりはなかったので私は言葉を慎重に選びながら、重かった口を開き、説明した。

「私、一昨日にあなたが言った通り、ハモストから逃げてきて。今は捜索が開始していると思うし、当分身分は明かせないの。でも何も持たずに来たから生活もろくにできなくて。」

 私は自分で話そうと思っていた以上に伝えていた。一度話すと決めれば案外口は軽くなるもので、言葉は出てくる。それでも、逃げてきた理由やなぜ捜索されているといった情報は隠したままなのでどう誤解されてもおかしくはなかった。

「話してくれてありがとう。それなら暫くうちに来てもいいって言いたいところだけど、それも怖いって感じだね。困ったなあ。」

 私が露骨なのもあるが、この男は相手の気持ちを汲み取るのが得意らしい。私はこの提案を予想していたが、半ば強引にその提案を飲まされるという最悪を想定していたので頼る相手は間違えてはいないと心のどこかで微かに思えた。

「身分を明かさずに働けるような場所はないかもね。で、折衷案なんだけど。俺が君に駄賃をあげることは可能だよ。」

 男は考えた後、閃いた様子で提案した。私の語りは少なかったが、どういうわけか私が犯罪によって追われているような身ではないことは理解している口ぶりだった。私は男の案を聞いたときブラウン家での出来事を思い出してしまい、勝手に変なことをさせられると思い込んだ。

「嫌。何をさせる気かはわからないけど。」

 私は言葉をかぶせるようにそう言った。そんな気なら話すべきじゃなかったと。でもそんな考えすら見据えていたのか、怒ろうともせず、深く詮索しようともせず

「分かってる。君が嫌なら無理にとは言わない。でも、簡単な仕事だよ。書類整理とか纏まった物の投函とか…」

 と男は答えた。その答えは純粋で、私を陥れようとするようなものでもなく、ただ手を伸ばしてくれている。そんな気がした。疑うあまりこの男を敵として認識していた自分だったがこの時初めて、信じてみたいと思った。もちろん信じ切ったわけでもなく、話が通じる相手ができたと思った程度なのだが。しかし、そんな素っ気なく刺々しい私の態度を見ても、こんな風に真摯に話を聞くこの男は何者なのだろうか。そんな私にとっての都合の良さがあったので余計に警戒してしまっていたのだろう。

「本当にそれだけ?」

 私は確認のためにそう聞いた。

「それだけだ。俺の家に来なくとも君が生活しているところでしてくれて構わない。駄賃も今のホテルで生活できるくらいの物は保証するよ。贅沢はさせられないけどね。」

 男は真面目な様子で笑って見せた。

「分かった。それならやってみる。」

 せめてありがとう。と言いたかった。それになぜここまでしてくれ、私の我儘な都合まで理解してくれるのかという事を問いたかった。でもそれが出来なかった。その時の私には目の前にある利潤を黙って選択することしかできなかったのだ。

 私が了承すると、男は仕事の説明に入った。複雑なものは何もなく、朝に渡された書類を整理したものを夜に渡したり、手紙などに切符を貼り、それを投函したりするというのが主な業務だった。男の仕事は運送業だそうだ。日々何かを運んでどこかに届けるのが仕事だが、こういった書類関係の仕事もあるらしい。私に任されたのは仕事に大きく影響が与えられるものではなく、重要な書類などは男が管理し、印鑑も自分で押しているそうだ。手紙も届ける商品に関係したものではないらしかった。よって私の責任も重大なものではなく、男が駄賃を私に支払う口実のような節が大きかった。

 私も朝と夜に男と会うことは了承し、今紹介されたホテルに住んでいることと、部屋番号を伝えた。男は一通り説明し終えると

「他に聞きたいことは?」

 と丁寧に聞いてきた。とりあえずの問題は解決できたので

「ない。」

 と答えた。また、ありがとうと言えなかった。すると男は

「よかった。じゃあ明日からよろしくね。」

 とだけ言い、店の伝票を持って席を立とうとした。私はせめてもの礼儀だと思い

「あの、私アンナ。」

 とぎこちなく自己紹介した。その男は微笑みながら席を立ち

「よろしく。アンナ。」

 と手を振り、会計をして店を出ていった。

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