第二章 2


 S国との関係が悪化しつつあると上司から伝えられた日は仲間内に緊張が走った。もし、川の治水権を得られなければ、我が国の基幹産業である農業に深刻なダメージが与えられる。もしそうなれば、僕たちは武力を行使する他はない。戦争になれば僕のような騎士どもは、死と手をつないで仕事をしなければならなくなる。家族を持っている騎士は表情が険しくなり、僕も同様に緊張した。やっと金の心配もなくなり、一人の奴隷を雇えるようになったのに、僕が死んでしまえば、じいさんと妹はどうなるのだろう?

 我が国が開戦するかどうかは、結局のところ国家の最高権力者である王と、国民の頭脳たる『国民の友』の意思決定で決まる。その日もいつものように元老院の遣いから渡された王のスケジュールを見ると、国民の友との会談が予定されていた。国民の友はどんな人物なんだろう。昔にユリが話していたな……たしか女性でレアという名だった。そうだ、僕の母の名前と同じだとその時に思ったっけ。

 僕は生まれて3年ほどは母に育てられていたのだが、その頃の記憶は時が経つに連れて、朧げになっていた。ましてや肖像なんてあるわけがないから、殆どが想像になっている。だいたいこんな顔で、これぐらいの背格好で、性格は……僕たちを捨てたのだから、冷淡な性格なのだろう。


 僕は彼女が自分の母親か気になった。確かめる方法は簡単だ。機密書庫に入って経歴書を見ればいい。

 すぐさま機密書庫に向かい、周りに人が居ないことを確認してから扉を開ける。といっても、僕がひとりで入ろうと咎める人はいないから後ろめたい気持ちを抱く必要はないけど、他人の過去に探りを入れるのだから背徳感を感じざるをえない。

 膨大な数の書類が雑多に積まれているところから、関係者名簿を見つけ出し、経歴書を手繰った。Lの欄を開くと、すぐに見つかった。

—レア。〇〇村出身。父は鍛冶屋で母は農奴。王立第一学校、呪術師課程放校処分—

 放校処分のところで、視線が釘付けになった。昔に聞いたユリの噂話を思い出す。その噂話の主人公も放校処分を下されたはずだ。続きを確かめるためにさらに読み進める。

—放校処分後、〇〇村にてヤコブと結婚。子どもを二人、アリクとステラをもうける—

 僕は唾をのんだ。その文章を指でなぞり、もう一度確かめる。

 —ヤコブと結婚。子ども二人アリクとステラをもうける—

 僕たち兄弟の名前が載っている。……この人は本当に僕の母だ。心の中で感情が竜巻のように渦巻き、言葉はその中に飲み込まれた。

 僕は頭を振って、経歴書を元に戻し、事務所を出た。自分の母なる人物が、こんなに近くにいるなんて思っていなかったし、積極的に探そうとも思ってはいなかったから、かえって焦ってしまい、心臓がドンドンと体を叩く。自分の母親は国家の中枢を担う人物ののだ。普通の子どもなら自慢したくなったり、誇りに思ったりするものなのだろうか?

〈国民の友として、国のために働いてるのだから、誇らしいにきまっている〉

そんな言葉が鏡に映した自尊心に書いてあった。しかし、その鏡の裏を見ると、別の言葉が書かれてあった。

〈どうして僕を捨てたんだ?〉


§


 王と共に応接室でレアを待っていた。会談まで少し時間があったから、僕は給仕に茶を持ってくるように命じた。茶が来るまでの間を埋めるための何気なさを装いながら、現在の母に関して探りを入れるために王に話しかける。

「殿下、レアという人はどんな人なんですか?」

「ふむ……一言で言うとすれば、冷静な人物だね。そしていつも最善策をを提案できる人だよ。良い言い方をすればね」

「良い言い方をすれば」

 僕は王の言葉を確かめるように繰り返す。

「悪い言い方をすれば、時々感情が無いように見える。いつも優しげな表情を浮かべているけど、それは描かれた絵のような、リアルなものではない気がするんだ」

「王は彼女が放校処分になったことをご存知で?」

「そのことを誰から聞いたんだい?」

 王の質問に僕は眉を上げて微笑むと、王も親しみのこもった意地の悪い表情になる。

「まあいい。詳しい話は君に話していいものかわからないけど……」

「その話を他人に話したりはしません。剣に誓います。それに私と王の仲ではこざいませんか」と甘く囁いて、王の手の甲に自分の手を重ねた。彼は手のひらを返し、僕の指に指を絡める。

「君は禁じられた聖杯という物語を知っているかい?」

 彼の言葉に目を少しだけ見開いてしまった。もちろん知っているとも。誰かさんから聴いた話なんだ。忘れられる訳がない。

「ええ。知っています」

「レアはその禁じられた聖杯の中身を奪ったから放校処分になったんだ」

「その、王家に伝わるものを奪った人物がどうして国民の友の地位に就かれたのですか?」

「彼女は知恵の聖杯を飲み干して、呪われはしたが、とてつもない叡智を手に入れたんだ。追放するよりも、国家の為に役立ててくれる方が建設的だからね」

 王が話し終えたタイミングで、ノックの音が部屋に響いた。


 結局のところ、王とレアとの会談は一時間ほどで終了した。王が話した通り、どこか人形のようで、作られた表情を貼り付けたような、そんな印象だった。とても自分の母親だとは思えなかった。

 王との会談の内容は治水権の話であった。彼女は隣国との外交が難航しているため、開戦の準備をするべきだと進言していた。準備をして開戦しないのなら、それに越したことはないが、準備もせずにいきなり隣国が攻めてこられると勝利するのは難しくなる、と語る彼女の表情は凛々しいものだが、どこか冷たい影があった。血が通っていないとはこの事なのだろう。


「閣下、そこの騎士を少し借りても良いですか?」とレアは言った。会談も終わり、彼女はそのまま部屋を去るような雰囲気の中で僕を指したので、心臓が飛び跳ねたが、表情は努めて冷静にしていた。王も少しだけ目を丸くしたが、「かまわないよ」と言った。


 僕は彼女に導かれて、一室に通された。そこは彼女の書斎だった。窓はなく、灯りはキャンドルだけで、壁一面にある書架には、一生かけて全てを読み切れるかどうか怪しいぐらいの本で埋めつくされていた。机の上には機密書類で溢れかえっている。どこか儀式めいた雰囲気の中、彼女は椅子を指さした。座れということだろう。

「あなたはアリクという名前でしたね」

 僕は部屋の雰囲気に呑まれていたので、彼女の言葉をよく聞かずにに頷いた。僕の返事を見ても彼女の表情は全く変わらないように見えるが、少しだけ口角が上がったような気がした。

「私はかつて自分の息子にその名をつけました。そしてもう一人、後に産まれた女の子にはステラと名付けました。その子は重い障がいを持っていたけど」

 彼女の言葉を聞いて、思わず目を強く閉じてしまう。障がいという言葉を聞いて、彼女は、妹が障がいを抱えていたから、僕たちを捨てた可能性に思い当たり、胸が張り裂けそうになる。気持ちが昂り、尋ねたいことが多すぎて、何を話せばいいかわからず、涙が出そうになる。帰る場所で待っているべき母がいなかった、孤独な少年時代がフラッシュバックする。泣いているのを母親にあやされている乳飲み子。母親と手を繋いで歩く村の子どもたち。一人で見た夕焼け……時に突き放され、時に愛を持って優しく迎えてくれる人が僕にだけ居なかったあの孤独の感情を母に伝えたいが、口が上手く動かない。

 母は僕の様子を見ても何も言わずに、紐でまとめた紙を僕に渡した。受け取った時に手が触れたが、冷たかった。

「あなたにそれを渡したかったの。それだけ」

 彼女は自分の机に向かい、書類に目を通し始めた。その母の姿にぞっとした。もっと話すべきことがあるはずだ。なのに、どうしてそんなにそっけないんだ?

「それだけ……ですか」と僕は言った。

「僕は20年もの間、心に何かが欠けているような気がしていました。それは多分、あなたが欠けていたんです。その欠けていたものを何で埋め合わせをすればいいかわからなかったんです」

 口が勝手に動き出す。僕の20年ものあいだ、無意識の底に溜まったものが吐き出される。

「あなたが居ないせいで、つらい思いをしたし、何より寂しかったんだ。そんな僕にかけるべき言葉があるでしょう? どうして僕を……僕たちを捨てたのに、そんな態度でいるんですか?」

「その理由は、そこに書いてあります」

 母は僕の顔を見ることもなく、僕の持っている紙の束を指さした。

「……そうですか」

 おそらく、母に何を言っても僕の気持ちは伝わらないだろう。当然だ。自分の子どもたちを捨てたりするような人が、他人の感情の機微を読み取れるわけがない。

 非情な態度をとる母に背を向けて、部屋を出た。涙が止まらなかった。


§


 職務を終え、自室に戻り、ベッドに寝転んだ。何も食べたくない気分だ。かろうじてランプに火を灯し、仄明るい部屋の天井を眺める。

 あの母の再会の後、僕は何も考えることができなかった。探し続けた母を見つけた喜びはあったけど、あんな態度を取られて怒りさえ湧いてくる。自分は本当にあの人の息子なのか疑わしくなるぐらいだ。ベッドの傍にあるサイドチェストの上に母から渡された紙の束が無造作に放り出されていた。それを手に取り、表紙を見ると、日記と書かれていた。日記を渡すなんて一体どういうことだ? わからないけど、読めということなのだろう。

 少し強張った手つきで表紙をめくる—



—放校処分になったあと、村に帰る。もちろん父さんにも母さんにも怒られた。二度と帰ってくるなと家を追い出された。頼るあてもないので、ヤコブの村へ歩いて向かう。村につくと、ヤコブが私のことを見つけてくれた。ヤコブも家を追い出されたらしい。だけど、落ち込んでいるわけでもなさそうだ。村の少し離れたところに誰も住んでいない空き家があるから、そこに一緒に住もうって言われた。もちろん断る理由もない。


—ヤコブは家の近くに畑を作った。ここで農家として生計を立てるつもりらしい。落ち葉や家畜の糞が土に混ざった匂いと、まだ春の前で葉をつけていない木々に囲まれて物悲しい。だけど、ここに新たな希望を植えて育てれば、未来には豊かな味のする果実が必ず味を結ぶはず。しかし、当面のお金は無いから、ヤコブが村に出て、小遣い稼ぎをするらしい。彼が村に出ている間は私が畑の面倒を見ることになった。畑作はやったことがないけど、学校で農学についての本を読んだから、なんとなくは知っている。だけど、天気のことは誰にもわからないから、そこだけが心配だ。


—最初は畑仕事もヤコブとの暮らしも新鮮だったけど、日々の暮らしに慣れてきたせいで、昔の自分について思いを馳せることが多くなる。庭先で春が近づくのを待ちながらボーっと空を眺めてこんなことがあったなって思い出に浸る。その時に気づいたけど、断片的に自分の記憶が髪の毛のように抜け落ちていた。一番酷かったのは弟の名前をど忘れした時だ。まさか家族の名前を一時的にせよ忘れるなんてありえないと思った。結局何かの拍子で思い出したのだけど、自分が怖くなった。もしかしたら、聖杯の呪いはこのことかもしれない。私は、自分の記憶を代償に、知恵を手に入れたのかもしれない。そのことを仕事から帰ってきたペドロに話すと、ペドロも最近物忘れが酷くなってきてきる気がするって言った。


—子どもを授かった。畑に出て苗を植える作業をしているうちに、どうも体の様子がおかしいから、記憶の中から医学書の文章を捻り出すと、ちょうど妊娠の初期症状だった。妊娠したことをペドロに伝えると、彼は喜んでくれた。私も嬉しいのだが、不安もある。だけど、私の中にいるもう一つのいのちのために、できるかぎりのことはしてやりたいと思った。

 そういえば、最近になって自分の幼少期の思い出が全く失われていることに気づいた。これは聖杯の呪い以外ありえない。呪いを解くためには解呪の呪文しかないので、床に炭で呪術陣を描いて、呪文を唱えるけど、呪文が解けた感覚もない。他に手立てを考えるけど、これ以上の方法は思いつかないから、どうしようもないと途方にくれる。

 私はこのまま自分の記憶を忘れ続けるのだろう。進行は遅いとはいえ、いつかは自分のことすら忘れてしまいそうだ。だけど、この日記を書き残すことで、私自身がごくありふれた、嬉しかった思い出と悲しかった思い出をあたりまえに持っている普通……、よりはちょっと出来の悪い女の子だったことを思い出せるように、そして、いつか私自身が全て失われても、この子どもにこの日記を渡す事で、確かにそこに愛はあったことを証明したい。この子どもが望まれて産まれることをここに残さなくてはいけない。


—ヤコブもまた聖杯のせいで記憶を失い続けていると話していた。以前のような活力溢れる、ハキハキとした印象が無くなって、今は深刻な顔で物思いに耽るところを見ることが多い。だけど、私の呪いの性質とは少し違って、彼の場合は少しずつ言葉を忘れている。言葉に詰まったり、言葉を無くしたりしているらしい。だけど、前にも書いたけど、呪いを解く手立てがないので、どうにもすることができない。だから、毎日神様に祈っている。せめて、彼だけでも呪いが解けますようにと。そんな暗い話もあるけど、良い話もある。

 ついに子どもの名前を決めた。

『アリク』

 ここより遥か東にある国の言葉で『歩く』という意味。この子が産まれた時は一人で歩けないけど、いつか、ひとりで歩ける日がくるように。私は歩くことはとても重要だと思っていて、現代でこそ馬が主要な移動手段として使われているけど、人の根源的な移動手段は歩くことだから。それは沢山の人と歩くときもあるし、ひとりの時もある。嬉しいときもあれば、辛いときも歩かなくてはいけない時も来る。だけと、立ち止まらないように、いつでも、前を向いて歩いて行けるような、そんな人になって欲しい。そんな願いを込めた。


—ヤコブと喧嘩した。理由はつまらないことだ。私は食欲がなくて何も食べなくないといったのに、ヤコブが無理に食事を勧めて来たからだ。最近はイライラし続けて、つまらないことですら怒りで目の前が真っ赤になる。思わす、家を飛び出そうとするけど、大きなお腹のせいで思うように動けず、それでまたイライラするのだ。だからやっとの思いで庭先に出ると、秋風の冷たさのせいか、一粒めの涙がこぼれ落ちる。また次の涙がこぼれ落ちるからさらに哀しみが込み上げてくる。するとヤコブが後ろから抱きしめてくれた。ごめんよ、僕が悪かったなんて言いながら……。頭を撫でてくれるヤコブの手は前よりもゴツゴツして、傷が沢山ついていた。その手を掴むと、ヤコブも一生懸命に働いているのに、私も俯いてばかりでいられない。

 ヤコブに謝って温かい部屋の中に戻り、彼に大きくなったお腹を見せると、ヤコブは優しく微笑んだ。アリクはどんな子どもになるのかな? きっと僕に似てハンサムになるなんて言うから思わず笑っちゃった。


—最近お腹が張ったりすることが多かったから、そろそろかと思っていると、破水したので、ヤコブに頼んで、村から産婆さんを呼んでもらう。やがて陣痛が始まった。最初はそこまで痛くなかったけど、10分も経つと、激しい痛みに襲われる。そしてまた元に戻る。また痛みがやってくると言った具合に波が寄せてはかえってゆく。産婆さんが来た時には、痛みの間隔が短くなり激しくなって、悲鳴をあげていた。腰は砕けそうになるし、手足に変な力の入れ方をして痛みを堪えようとするから、もう自分の体が自分のものなのかわからなくなる。産婆さんがいきんでみろと言うので、いきんでみると痛みは少しマシになる。だけど、なかなか赤ちゃんが出てこない。しばらくいきみ続けた後、産婆さんが私のお腹を押すと、あっさりとアルクが出てきて、泣き声を上げた。アリク誕生の瞬間だ。疲れて、息も絶え絶えだけど、嬉しさが一杯で、よくやったと自分で褒めてやりたい。だけどその前に、

『産まれて来てくれてありがとう。アリク』


—アリクが私の乳首を吸っている顔がなんとも愛おしい。だけど、呪いのせいで、雪が地面に落ちるのと同じくらいのスピードでアリクへの愛情が失われているような気がする。それに、日記を読み返しても、若干ではあるが、自分の思っていたことがまるで他人の話のように思える。感受性と経験が自分の手から離れていくあの感覚に似ている。だからこそ、日記を書いていてよかったと思えた。しかし、未来の事を考えると、震えるほどの恐怖に襲われる。いつか、このアリクのことも忘れてしまいそうな気がして……。だから、今この瞬間をここに刻みつけたい—


 日記はそれから、徐々に感情とみずみずしさが失われ、報告書のような内容になっていった。ステラを孕ったあたりで、日記は途切れた。

 僕はそこまで読んで、顔を上げ、大きく息を吸って吐き出した。日記に現れていた母の心に触れて涙がこぼれ落ちる。

 僕は孤独な子どもではあったけど、母はたしかに居たし、そこには母の目と心が在った。母は僕に愛情を与えてくれていたのに、僕の歩んできた人生は……とても、母に胸を張って言えないことばかりじゃないか? じいさんと妹のために最善の選択肢を選び続けたつもりなのに、それが何故か間違えている気がしてならないのだ。……いや、間違いに気づいていないふりをしているだけだ。それを心の隅にある暗い部分に押しやって溜め込んでいるうちに、腐敗し悪臭を放ち、匂いに釣られた魔物や虫が集まって、やがて心の明るい部分まで食いちぎる。喰らいつかれた心は悲鳴をあげ、傷口から素直さや、高尚な目的や、高かった志を血のように流し始める……。

 俺は牧師さんのあの言葉を信じて今までここまでやってきた。現に今は立派な騎士として王に仕えているのに、だけど、あの言葉は所詮は綺麗事だった。綺麗事を信じていたあの頃の自分が嘆いている。綺麗事をそのまま行動に移せずに、現実に汚されてしまった今の自分を恥じた。精神的潔癖症のせいだ。あの頃と大きく変わってしまった自分が嫌いだ。理想の自分とは大きくかけ離れてしまった自分。結果として地位を手に入れたのに、あまりにも多くの理想の自分を犠牲にしてきた。精神的潔癖症であるがゆえに、自分の心は現実に蝕まれているように感じるのだ。


 ランプの陰に黒く染められた手で日記をサイドチェストに置いて、枕に顔を埋めると、過去に捨てようとした暗い記憶が蘇る。ユリを殺したこと、彼の父に事故死と偽証したこと、妹が聖職者に犯されているのを見たこと、王と関係を持ったこと……。今夜はうまく眠れなさそうだ。

 僕は蒸留酒の力を借りて眠るために、棚からコップを取り出そうと掴むと、震える手を滑らせてしまい、割ってしまった。それはあの日、ユリの荷物から拝借したものだった。仕方なく、別のコップを取り出し、酒を2杯立て続けに飲んで、眠りに逃げた。

 しかし、暗い過去は逃してくれなかった。ユリが夢枕に立って、仰向けに寝転んでいる僕に微笑みかける。やがて彼女は全裸になり、僕に覆いかぶさる。僕は硬く勃起していて、ユリがそれを手につかみ強く握りしめ、自分の性器へと、本質的なものを本来あるべき場所に還すように導いた。次の瞬間、彼女の顔が妹になっていた。妹は醜い笑い声をあげながら、僕の首をものすごい力で締める。たまらず僕は抵抗しようと妹の腕を掴みにかかるが、力がうまく入らず、手がなかなか持ち上がらない。妹はやがて口を大きくあけると、体の中にある脳や心臓、胃や腸など沢山の臓器が僕の顔に吐き出した。それは体液で滑っていて、生温かくて気持ち悪く、僕は悲鳴を上げながら目を覚ます。大量の汗をかきながら、落ちて来た臓器を手で払い、妹の姿を探すが、そこには何もない。僕は深呼吸をして落ち着きを取り戻し、夢でよかったとおもいながら、窓の外を見ると、まだ深夜の三日月が高く登っていた。暗い夜の空をさまざまな形をした雲が流れている……。

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