第一章 3

 学校を卒業してからは、寮を追い出されるので、一度、村に帰省しなければならなかった。

 村を出たときと同じ量の自分の荷物とユリの分の荷物を荷物に詰め込んでいると、ユリが使っていた食器が目についた。それは日常においてありふれたものだが、彼女が使っていたもので、特別なものであるような気がした。僕はそこからコップを取り出して、眺めた。日差しを背に向けて、影の内側に入った手の中に、綺麗に磨かれた透明のコップが、歪んだ自分を映していた。それを自分の鞄の中に丁寧に仕舞った。

 振動で荷物が落ちないように紐で括りつけ、荷車を引くと、1人欠けているので、その分軽くなっていた。村に着く頃には日が暮れているだろうが、時間を気にしなくてもいいという余裕だけが、砂漠の中のオアシスのように眩しい……。

 あの日以来、僕はどうしてユリを殺してしまったのか、そのことだけが心を支配していた。あの瞬間は、彼女の死が、僕の将来のために必要な犠牲だったと正当化していたのに、今は、彼女を殺めてしまった自責の念が、絶え間なく溢れ続けている。そのせいで眠れぬ夜が続いたが、川のように流れてゆく時間が、罪悪感の角張った部分を丸くしてしまい、手にとっても痛くないぐらいになっている。


 3年ぶりに見た村の景色はあまり変化が無かった。時間の変化を拒むものは確かにあるが、その細部は曖昧に変化し続けている……。

 村に帰った僕には為さなければならない使命があった。それはユリの遺物を彼女の家族に引き渡すことだ。彼らは、ユリは訓練中の事故で死亡したと学校から手紙で伝えられていた。

—いいかい、君の友人は事故にあったんだ。山間訓練中に不幸にも、足を滑らせて、崖の下へ落ちてしまったんだ—

 僕は王の側近から口酸っぱく言われた言葉を思い出す。躊躇う感情をどうにか押し殺して、彼女の家の扉を叩くと、ユリの父が出てきた。彼は荷物を見て立ち尽くしていた。

「アリク君、荷物を運んでくれてありがとう」

 彼は、下手な役者が台詞を読み上げたような、抑揚のない声で話す。ユリの遺物を見て、彼女が心の中で蘇り、かえって悲しみを産んでしまった。僕は、彼が悲しんでいる様子を見て、苛立つ。彼女の死の原因は全てにおいて僕なのに、殺した本人が一番悲しいに決まっているのに、彼はどうして悲しんでいるんだろう? 目の前でユリの死を見届けた僕の方が深い悲しみに暮れていると断言してもいい。人を殺したことのない人間が、どうして人の死を悲しむことができるのだろうか? それは、彼は悲しみの演技をしている以外にほかならない。それで、みんなから同情を惹こうとしているのだ。それなら彼を哀れだと思わざるを得ない。全てが滑稽で虚しくなる。

「ユリは事故で亡くなったと伝えられたけど……君はその場にいたんだろう?」

 僕は苛立ちをおくびにも出さないように慎重に頷く。ユリの父が悲痛な演技をするから、僕も深刻な顔を演じる。そして、喉元から言葉が出そうになるのを必死に抑えていた。

—僕が殺しました。自分の家族と人生のためにユリを殺しました—。今、その言葉を口にすることができたのなら、僕はなにか大きな力に裁かれて、罪を償うことになるだろう。そんな自分の姿を想像すると、自己憐憫で心が溢れかえる。罪を告白すれば、同情してくれる誰かが現れるかもしれない。—愛する人を殺してしまった愚か者こそ、救われるべき人間なんだ—と主張しながら僕のことを抱きしめてくれる人が、世界のどこかにいるはずだ。

—自分はこの世で一番哀れで愚かで、可哀想な奴なんだ!—そんな言葉が溢れそうになり、必死に口の中に留めようとして、顎がもごもご震える。その振動が胸に伝わって、涙が出そうになった。

「ユリは何が最期に言っていたかい? それとも、そんな間もなく死んでしまったのかい?」

 彼は涙を流しているせいで言葉尻がうわずり、演技は悲しみのピークを迎える。それにつられて僕の演技にも熱が伴う。熱が入るあまり、演技と自我の境界を見失う。最期の言葉? ユリの最期はどんな台詞だった?

—私の死を私の好きな人に託すことができてよかった—

 台本にはそう書かれている。それは今も彼女の仕草と息遣いが聞こえるほどに、脳内で繰り返された言葉だ。だけど、これをこのまま彼に伝えてしまっては舞台は台無しになってしまう。彼の演技を損なってはならない!

「あのっ、あの……あなたの名前と、母の名を繰り返していました」

 僕の台詞を聞いた彼は刹那、勝ち誇ったような目の輝きを見せた。

「そうか……そうか、怖かったんだろうな……怖かったんだろうな」

 そう言いながら、苦しそうな表情をして俯いて黙ってしまった。最期の言葉をナイフで胸に刻みつけるかのように。


§


 家への帰り道は自分の背負った罪の重さについて考えていた。やがてくる裁きを受ける瞬間の自分を想像すると表情がほころぶ。こんなに悲劇的な人間は僕以外にいるだろうか? これほどまでに大きな罪を背負った人間はいるだろうか? 押し寄せるカタルシスが心地よい。これほど爽快な気分は人生で初めてだ。

 家に戻ると、じいさんと牧師さんが出迎えてくれた。牧師さんは僕に会うなり、優しく抱きしめた。

「ユリの死は辛かっただろう」

 その言葉は不意打ちで、優しいトーンだったから、胸を深く抉られる。誰もそんな言葉をかけてくれなかったから、余計に耳にへばりついた。この瞬間、僕は自分の罪の重さを客観的に自覚することができた。自分の手を見ると、悪魔のように黒く染まっていることに気づく。さっきの帰り道では暗すぎてわからなかったのだ。この手はこれから元の色に戻ることはあるのか? それは償うことで元に戻るのか? ……わからない。

 僕は牧師さんを抱き返した。涙があふれて止まらなかった。


 その晩は牧師さんとじいさんといろんな話をした。学校であったいろんな出来事を話した。もちろん、ユリを殺したことは話せなかったけど。牧師さんとじいさんは村であったことを僕に話してくれた。どこどこの若人が結婚したとか、天候が良くなく、農作物の不作が続き、皆が飢えていることや、学校で秀才が現れて、第一学校を目指して勉強していることなど、村にいるときはどうでもいいと思える話も、しばらく離れていたせいで興味深い。今は王都に進路が決まっているが、いつかは村で過ごしてもいいなと思えた。妹にも会いたかったが、今は納屋で寝ているから明日の朝に会うことにした。その日は夜も遅かったので、牧師さんは家に泊まっていくことになった。


 夜も深く、遠くから魔物の遠吠えも途切れ途切れに聞こえる頃、猫のさかりのついた鳴き声のような声で目覚めた。意識がはっきりしてくると、それは妹の声ということに気づいた。悪夢にうなされているのか心配になって、隣の部屋で寝ているじいさんを起こさないように、忍足で家を出た。あたりを見回すと、隣の納屋の窓から僅かな灯りが漏れていて、妹の呻き声がはっきりと聞こえる。納屋に忍び寄り、窓を覗くと、牧師さんが妹を犯していた。その光景に衝撃を受け、足がすくんだ。目を離そうとしても離せない。あの妹が女らしい体つきをしている。僕が三年も離れていた間に、妹は成長していたことに強いショックを受けた。そして、今、彼女は聖職者に犯されている。不意に服を引っ張られて、驚き、振り返るとじいさんがいた。じいさんは無言で首を横に振った。

 たぶん、じいさんが服を引っ張ってくれなかったら、僕はその場でずっと凍りついたままだっただろう。じいさんがいなければ、僕はこの光景の一部分に囚われたままだった。なかなか歩き出せずにいる僕をじいさんが引っ張って行った。その時、自分が勃起していることに気づいた。

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