第一章 2

§


 試験当日は雨だった。集合場所に並んでいる受験者の表情には、緊張が滲み出ている。僕はこの試験の結果でこの先に待ち受ける運命が決まってしまうから、緊張するかと思っていたが、案外、落ち着いている。ただ、いつもより静寂が誇張されて聞こえてくる。今まで体験したことのない感覚だ。

 教師たちは受験者のチェックを終えると、試験の内容の説明を始めた。

「これから12名は4つのグループにわかれて、東西南北に用意したゴール地点を目指して、森の中を移動してもらう。それぞれのルートには試験を2つ用意してあるから、それらに立ち向かってくれ。そのための戦闘装備を用意している。騎士過程の生徒には剣を鎧を、呪術課程と聖職者課程には杖と衣を配布する」

 教師はそれぞれのグループを発表した。

「アリク、ペドロ、ユリのグループは北を目指すように」


——試験が始まる。


 森の中は先人が拓いた道がかろうじて残っていて、僕らは手渡された地図を手がかりに森へ入ってゆく。進んでいるのかどうか怪しくなるほど、代わり映えのない景色。方向感覚はなめらかに削ぎ落とされ、時間の流れがとてつもなく遅くなる。牢獄の中に閉じ込められたと言っても過言ではないだろう。だけど、地図を持っているから迷えない。僕らは地図の指示通りに進んでゆくしかない。迷うことは許されないのだ。辺りからは、木の枝が風に煽られてぶつかり合う音や、鳥の怪しい鳴き声が聞こえる。だからこそ、僕の鉄の鎧が雨に打たれ、一歩踏み出すたびにミシミシと鳴る音がこの場にそぐわないように感じる。

「これほど深いとなかなか骨がおれるよ」

 ペドロはいつものような口調で話すが、表情が強張っている。普段の彼はどんな状況下でも雰囲気に呑まれるような事はなく、いつもリラックスしているのだが、特別試験ということもあり、さすがに緊張しているのだろう。彼が剣を持っているときは力が漲っていて、隙が全くなく、どこを突いても軽くいなされ、反撃されそうな、その圧倒的な強さを纏っているのに、今の彼にはテストのプレッシャーのせいで、どこか覇気がない。一方のユリは全く冷静な様子で、足を一歩一歩踏み出している。その冷静さは、雨戸で閉ざされた窓のように、全ての心機を隠し、外界との交流を完全に断絶している。

 地図の指示通りに進んでいると、やがて、進路の向こう側から足音が聞こえてくる。それな人間のものではなく、僕らの間に一気に緊張が走る。腕が強ばり、助けを求めるように剣を強く握りしめる。足音が僕らに近づき、やがて姿を表すと狼の子どもだった。拍子抜けをした僕らは、微笑みあった。緊張が体から逃げてゆく。

「アリク、これを倒せば王都に登用されるのか?」

「それなら喜んで血祭りにあげるよ」

「かわいそうじゃない。まだこんなに小さいんだから」

 ユリが子ども狼の背中を撫でながら語りかけた。

「よしよし、お父さんとお母さんはどこに行ったの?」

 撫でられた狼は気持ちよさそうに目を閉じる。僕も背中を撫でようとすると、狼は突然、後ろを向いて背中を低くし、唸り声を上げた。その方角から、別の息遣いが聞こえ、それは巨人のため息のように重く響いていた。再び緊迫が蘇った僕らは目を細める。緊張と恐怖のせいで口の中が乾いていることに気づいた。行く先に想像もつかないものが待っているということは恐ろしい。しかし、時計の針が前にしか進まないように、たとえ本能が拒否していても、人は前に進むしかない。

 僕らは歩みを前に進める。だんだんと周りの木の数が少なくなり、風の流量が少しづつ多くなる。それに比例して、心臓の鼓動も少しづつスピードが速くなる。あの巨人のため息のような音も開けた場所へ近づくにつれ大きく聞こえ、やがて、曇り空なのに大きな暗闇のような影が僕らの足下を包み込む。

 そこにドラゴンがいた。

「これは……」

 ユリは目の前に聳える巨大な体を下から上へと見上げる。城壁のように硬い鱗に覆われ、2枚のあるはずの翼は左側だけ失われている。蛇のように細長い首には首輪がつけられており、前足には王家の紋章が刻まれていた。

「よくここまで来たねエリートさん達」

 ドラゴンの背中に女が乗っていた。龍使いだ。首から縦笛をぶら下げているのはドラゴンを操るために使うもので、鎧の上から垂らしていた。その上には整った顔がある。

「まずは自己紹介。私はイザベラ。龍使い」

 彼女の言葉は訛っていた。彼女はこの国の西部にある龍使いが多くいることで有名な小さな村の出身だということがわかった。

「毎年、北ルートでこいつと一緒に登用試験の出題者として受験者を待っているんだ」

「試験内容は何ですか?」

 ペドロは彼女に尋ねた。

「君たちにはこいつを殺してもらう」

 イザはそう言って、ドラゴンの背中を叩いた。

「ドラゴンの飼育って結構難しいんだ。特に戦争で使えるように育てるのには時間がかかる。この国ではだいたい20頭ぐらいしか飼えていない。それでも多い方なんだけどね」

 彼女はドラゴンの背中を優しく撫でて、

「こいつは生まれつき左の翼がないから、ドラゴンとしては失格なんだが、気性は荒く、血のついた肉が好物でかなり強いよ。こいつを倒して、ゴールへ向かった受験生は、私が北ルート担当になってからは見てない」

 そう言って、挑発的に首を横に振る。

「君たちがドラゴンを倒せないと判断した場合、私が失格を言い渡すから、そのつもりで」

「ドラゴンを倒せないと判断する基準は?」

 ペドロが訊ねる。

「基本的には受験者が手負になった時だね。もちろん軽い怪我なら続けてもらうけど、ドラゴンの炎で大火傷をおったり、爪の毒を喰らったりして重傷を負った場合はその受験者は失格だ。残った受験者でドラゴンを倒してもらう」

「なるほど。このドラゴンを倒せさえすればいいわけだ……」

 僕はドラゴンを観察した。竜種の判別はつかないが、共通点はある。どのドラゴンも炎を吐き、爪に毒を持ち、呪いをかけてくるものなのだ。目の前にいるドラゴンの大きさは5メートルは超えて、少なくとも、家畜として飼育されている小型種ではないことはわかる。こいつは僕の人生に大きく立ちはだかる壁だ。どんな手段を使ってでも、乗り越えなければならない。

「では、戦闘準備をしてください。私がラッパを1回吹けば、試験開始です。ドラゴンが君たちを襲うから、倒してください。ラッパを長く2回吹けば、試験終了です。準備はいい?」

 僕は鞘から剣を抜き出した。何がやってきても躱せるように、両膝を軽く曲げて、右足を半歩分下げた。ペドロと僕も同じように構えて、ユリは僕らより遥か後ろに下がって、杖を掲げ、呪いをかける準備をした。

 やがて、ラッパが鳴り響く。

 ドラゴンはのっそりと動き始めて、大きく息を吸うと、大きな炎を吐いて、僕たちを焼こうとした。僕は慌てて後ろへと下がった。ユリは呪文をぶつぶつ唱えて、杖を高くかざしている。それは相手の足を固定し動けなくさせる呪文で、ドラゴンの四肢にそれぞれ魔法陣が現れ、ドラゴンは動けなくなった。ペドロは動けなくなったドラゴンに向かって斬りかかっていく。足を動かせないドラゴンは首をうねらせて、ペドロの方を向く。彼は勇敢な騎士のごとく飛び上がり、一撃で決めようとドラゴンの頭を斬りつけようとするが、簡単に躱され、片翼で地面に叩きつけられた。ペドロは苦悶のあまり身を捩らせる。ドラゴンは青い瞳を赤く光らせた。ペドロはまともにドラゴンと視線を合わせてしまい、幻覚を見せられる呪いをかけられた。彼は唸り声をあげて苦しむ。僕はその光景のあまりの恐怖に、膝の力が抜けてしまい、震える。あのペドロがドラゴン相手に簡単にあしらわれてしまったのだ。僕に倒せるのか? しかし、手に剣を持った以上は振るわなければならない。あのドラゴンを倒さないと、僕の未来がなくなってしまう。なんとか、足の親指に力を入れて踏ん張り、ドラゴンの首を目掛けて走り出す。ペドロに呪いをかけている今がチャンスだ。鎧のせいで動きづらい体を大きくジャンプさせ、首に剣を振るうが、鱗のせいで、浅くしか斬れなかった。そして、ドラゴンは首をうねらせて視線を僕に合わせた。視線から外れたペドロは呪いから解放される。僕はドラゴンの目を見ないように受け身を取り、地面を転がって、素早く立ち上がる。

「ペドロ!」

 僕は名前を呼んだ。自分のことで一杯一杯で、大丈夫かとは聞けなかった。ペドロを助けようという気持ちは微塵もない。戦えるかどうかの返事をして欲しかった。ペドロの方を見ると、表情が恐怖に染まり錯乱していた。彼は「父さん、父さん」と言いながら、剣を持って森の中へ走り出す。

「ペドロ!! どこ行くんだよ!?」

 声を張り上げても、返事がなかった。ペドロは森の中へ逃げ出した。精神の強い彼がこうも簡単に逃げ出してしまうのか?

 ただ、今はそれを深く考えている場合ではない。単純に戦力が一人が減ったのだ。なんとかしなくてはとドラゴンを見ると、瞳が再び赤く光りかけている。

「速く動かないと、君もさっきの子みたいになっちゃうよ」

 不意にイザの声が聴こえるから、思わずそちらに顔を向けた。彼女はドラゴンの首もとでニヤニヤしながら僕を見ている。性格が悪いのか……それとも、呪いをまともにかけられるまえに、僕の視線を外させてくれたから、いい人なのか?

 少なくとも、ドラゴンから一度離れた方が良さそうだ。駆け出して、元いた場所へ引き返す。ずっと呪いをかけていて動けないユリが心配だ。彼女の方をみると、表情に疲れが滲んでいた。

「ユリ、大丈夫か?」

 彼女のそばに寄よると、無言で視線だけ僕に向けた。呪いをかけるのは精神を削るために、かなり体力がいるのだ。僕は鎧から腰からぶら下げていた麻袋から水の入ったボトルを取り出し、ユリに飲ませた。それから薬草を取り出し、彼女の口の中に入れて頬と歯茎の間に詰め込む。すると、彼女は少しだけ楽になったようだ。これでしばらくは持つだろう。僕も薬草を口の中に放り込む。すると、五感が冴え渡り、高揚感が生まれる。よく見える目でドラゴンを観察すると、首から頭にかけては鱗に覆われていなかった。そこを突けば、ドラゴンも死ぬはずだ。だいたい、まともに首と翼しか動かないんだ。そこさえ注意すれば危険なことなど、何もない。僕は剣で右手を軽く切った。流れ出した血を両足に充分に垂らしてから駆け出した。鎧の重さは何処かへ消えていた。この一瞬で蹴りをつける。再びドラゴンの頭へ大きく飛び上がる。ドラゴンは僕の足に垂らした血の匂いに反応し、僕に喰らいつこうと、口を大きく開け、僕の下半身に噛みつくと、鎧がひしゃげる嫌な音を立てたが、噛み砕かれることはない。上半身が呑み込まれるまえに、剣をドラゴンの頭に突き刺した。ラッパの長い音が2回響いた。


「お見事。あの血を上半身につけてたら首から一気に飲まれていたね」

 イザは僕の手に包帯を巻いてくれた。ユリは地面に仰向けに倒れ込み、体力を取り戻そうとしている。

「今までの受験者の中で君みたいにドラゴンの口に飛び込もうとした奴はいないよ。本当はあの倒し方が一番いいんだ。呪文で足を動けなくさせて、血の匂いに頭を釣られたところと突くのがね。どんなドラゴンも、血の匂いには抗えないんだ」

「あの時、あなたがヒントを与えてくれた。血のついた肉が好物だってね。それがなかったら、失格だった」

「毎年、同じヒントを与えているけど、やはり人間は戦いになると不思議と冷静じゃなくなる。自分の生死がかかっているからね。ただ、そんな状況でも人の話を聞けて、頭がまわるやつは強い。君みたいな人間はなかなかいないよ。精神的に強い人間でも、それができない人間は多い」

「ペドロは?」

 僕は彼の行方が気になった。今は試験のことで頭が一杯だが、それでも、彼のことを心配する余裕が心に少しだけできていた。

「逃げ出した彼ね。身につけている装備は全て場所を特定する呪術がかけられているから、すぐに見つかるよ。心配することはない」

 イザは麻袋から水筒を取り出し、中身をコップに注いで僕に分けてくれた。

「はい、温かいお茶だよ」

 礼を言って、一口飲むと、心に残っていた緊張が少しだけほぐれた。

「そっちの君も飲むといいよ。気分が楽になる」

 ユリは体を起こして、コップを受け取った。彼女はお茶を一口飲むと、呪文がとけたように口を開いた。

「あんなに長い間呪文を使い続けたのは初めて。実践訓練の倍は疲れたわ」

「ドラゴンを相手にするということはそういうことなの。だけど、あなたのように長いことドラゴンに呪文をかけ続けた受験者は見たことがないね。なかなか呪文を唱えるのが上手なんだ」

 イザが褒めるとユリは首を横に振る。

「私はまだまだです。実戦向きの呪文はこれぐらいしか使えないから」

「それでも充分だよ。まだ、君たちにはゴールの手前の最終試験に向かわなければいけなんだから、今はゆっくり休みな」

 イザの最終試験という言葉を頭の中で反芻する。最初の試験でドラゴンを倒すという半ば無茶な難題だったんだ。最終試験はもっとえげつない事をやらされるのか?

「最終試験ってどんなものなんですか?」

 ユリは杖を使って立ち上がった。

「それはわからない。私も知らされていないからね。それに知っていたとしても教えないけど」

 イザは軽く笑った。それもそうだ、彼女は出題者側なのだから。僕もイザにつられて笑った。ユリも笑った。



 僕らは再び森の奥へ足を進め、ゴール地点へと近づく。ドラゴンを倒した今なら、どんな試験でも乗り越えられる気がする。手の傷は痛むが、そんなことも気にならない。

 ゴール地点直前に、試験官が立っていた。彼の顔はよく知っていて、剣術を教えてくれた先生だった。普段はユーモアのわかる心優しい人として知られているが、授業ではとても冷徹で厳しい人物だった。彼の顔を見て、本能的に唇が横に線を引き、手が勝手に剣の柄のあたりを彷徨う。

「ペドロはどうした?」

「ドラゴンの幻覚にやられて逃げ出しました」

「そうか。そいつは運が悪い。逃げ出してしまうほどか、あいつは意外に精神的に脆い部分を持っているからな。それで残ったのが、アリクとユリだけ……」

 先生はため息をついた。物憂げで、深刻な悩みを抱えているような表情をする。

「ここで最終試験を行ってもらう。その試験を突破できれば、この推薦状を渡そう」

 先生は麻袋から、丁寧に丸めた紙を取り出し、ひろげて見せた。

「この推薦状があれば王都に特別採用される。そして……」

 らしくもなく、言葉を詰まらせるように一呼吸置いた。

「この推薦状はここに一枚だけだ。君たち2人で奪い合ってもらう」

 一瞬何を言っているのか分からなかった。いや、わかっているんだが、脳が理解を拒み、言葉を聞き流したフリをした。試験官は言葉を続ける。

「成功が約束された人生をかけて戦うんだ。君たちの積み上げてきた人生を賭けて、どちらかがどちらかを殺してもらう」

「待ってください。殺し合いなんて、そんなこと出来ないですよ」

 人を殺めるのが最終試験だなんて、ましてや、同じ学校の生徒なのに。ユリに限っては僕にとって特別な存在だ。

「戦場に待ったが通用すると思うか?」

「それとこれとは違う! おかしいですよ先生!」

 僕の言葉は誰にも届かずに、試験開始のラッパが鳴らされる。

「ユリもなんか言えよ!」

 彼女の方を見ると、呪文を唱えていた。僕の足が突然動かなくなる。

「おい、何してるんだよ……」

 彼女はナイフを取り出し、僕にゆっくり近づいてくる。その切先が震えていた。自分の心臓の鼓動が体内に響いている。僕はユリに殺されるのか? どうして? ユリのこの試験にかける思いは知っているけど……。あっ、そうか。僕は今まで彼女のことをわかったつもりでいたんだ。ユリはもっと優しい人間だと思っていたけど、彼女は人生の目的のために、他人に対して冷徹でいられる人間なんだ。そんなことができるなんて思いもよらなかったな……。

 やがて、ユリは僕の目の前に立ちはだかり、僕の心臓を抉るためにナイフの切先を高くあげる。彼女の腕が一瞬強張ったのがわかった。足以外は動くから、居合いのごとく剣を取り出して、ナイフを払った。甲高い金属音が響き、ナイフは空中に弧を描いて、はるか後方の地面に突き刺さる。ユリはナイフの行方を見届けた後、僕を睨みつけた。それは、村にいた頃を思い出させる、突き刺さるような他人の視線だった。僕はギョッとした。ユリはおもむろに叫び声を上げて僕に殴りかかってきた。その瞬間、呪いが解けた。足が動くようになった瞬間、ユリの方に右足を一歩踏み出して、彼女の手を掴み、背負い投げた。地面は芝生になっているが、それでも、背中から落とされたのだから、衝撃はすざましいものだろう。口からよだれを垂らし喘ぎ苦しむ。すぐさま彼女の腹の上に乗って、ナイフを取り出した。格闘術の授業で数え切れないほど他人相手にマウントを取ってきたんだ。本能が反応するに決まっている。自分の身を守るために、さっきのユリと同様、ナイフを高く上げて、狙いを定めていた。喉元を狙うべきか? それとも左胸を狙ったほうがいいんじゃないか? 問いかけが頭の中で交錯する中、ためらいで手が震える。彼女を殺していいのか? 僕らがこんな状況になっていることは正しいことなのか? ……いや、さっきのユリを思い出せ。今まで親しくしてきた彼女があれ程の敵意を僕に向けてきた。だから、僕も彼女を敵として識別するべきだ。じゃないと自分が殺される。だけど、親しくしてきた事実があるから、彼女を傷つけたくない。ユリは普段はあまり口に出してこなかったけど、特別試験を強く意識していることは知っている。その為に努力してきたこともわかりきっている。この試験においてユリの僕に対する殺意を正当化する理由なんてどこにでもあるんだ。だけど、それは僕だって同じだ。この試験に受かって、じいさんと妹の生活を楽にしてやらなくてはいけないんだ。それで村人の目も変わるはずなのだ。異常な妹を持つ兄としてではなく、あの家を支える立派な柱として、僕を尊敬の眼差しで見てくれるはずだ。

 不意に、ユリが涙を流し始めた。なんなんだ? これ以上僕を混乱させないでくれ。

「どうして泣いてるんだよ?」

「……ありがとう。最期をアリクに託すことができてよかった。私の死を私の好きな人に託すことができてよかった」

 彼女の言葉で腕の力が抜けかける。なんなんだよその言葉は? そんなこと言われて、躊躇しないわけがない。だけど、これがユリの保身のための言葉だったら? 僕がその言葉にとらわれて少しでも力を抜いた瞬間に、すぐさまユリと僕の立場は逆転し、再びユリにナイフを突きつけられることになる。罠だ。罠に決まっている。ユリは僕のことを好きなフリをしていただけだ。今まで僕をからかって、楽しんでいたのだ。そして、飽きてしまえば他人として僕を一括りにして、屑籠に捨てる、そんな奴なのだ。本当は普段から僕のことを、あの村人たちと同じように陰で笑っていたかもしれない。さっきのユリの瞳がフラッシュバックする。……僕は彼女にいつだって親しみを、好意をよせていた。僕のことを理解してくれた。僕は自分の延長線上にユリを定義付けていた。だけど、ユリの延長線上に僕はいない。少なくとも、僕を動けなくし、ナイフを突き立ててきた事、僕に対する言動、そしてあの視線こそが、ユリが僕を純粋な他人として見ていることを立証しているのだ。すなわち、彼女は僕を否定する存在という結論に帰納する。現にユリはあの村の住民のように、僕に否定的な、僕の延長から切り離された他者として僕の前に立ちはだかったのだ。ならば、そうなる前に排除しなくてはならない……。

 僕は妙に落ち着いていた。審判を下すために振られたガベルのように、ナイフを喉に突き刺した。ユリの体は一度激しく痙攣した。彼女の両手がナイフを突き立てる僕の手を掴もうとして、掴めないまま、地面に落ちた。

 試験終了のラッパが鳴らされる。



 推薦状を持ち帰ったのは僕と、他に1人だけだった。でも、その1人の顔は見る気にもなれないし、どんな奴かと声をかける気にもなれない。南ルートに向かった生徒は全員行方不明になったらしい。

「諸君おめでとう。君たちは選ばれた人間だ」

 元の場所に戻ると、王都で王の側近をしている男から、拍手を持って出迎えられた。おめでとう? 選ばれた人間?

「よくこの試験に受かってくれた。それは情念を捨て去り、国のために冷徹に目的を達成できる人間にしかできない。君たちは今、将来を約束された」

 側近の男はそう言って合格者の手を握った。なにか空っぽなものに手を握られたような感覚だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る