【お題】美味しいお菓子を頂戴

「美味しいお菓子を頂戴。美味しいお菓子を貰うまで帰らないから」


 そう、ふんぞり返るように言ったのは、まだまだランドセルの似合いそうな小さな女の子でした。

 自分の娘、もしくは孫と言ってもいい年の少女を見て、店主は困ったように笑います。


「お嬢ちゃん、ごめんね。このお店はもう閉店なんだよ」


 数年前、愛する奥さんを亡くした店主は売れ残っていた飴玉の籠を棚の上から取り上げて、こんなものしかないけど、と少女に差し出しました。

 しかし少女は小さな可愛らしいお口をへの字に曲げて、背の高い店主を睨みあげます。


「要らないわ。美味しいお菓子を頂戴」


 きっぱりと言いました。

 店主はますます困ってしまって、店の中指差して言います。


「ごめんね。もうこのお店は閉店なんだよ。なんにも残ってないんだよ」


 それでも少女は引きません。


「美味しいお菓子を頂戴。でないとここを動かないわ」


 そうは言っても、お店の中には本当に何もありません

 店主は困って、お店の奥に飾ってある亡くなった奥さんの写真を見ました。


「本当に、何ももうないんだよ」

「……どうして? 貴方はお菓子屋さんのパティシエでしょう?」


 少女は不思議そうに首をかしげました。

 店主は少し悲しそうな顔をして、少女を見下ろします。


「このお店はおじさんの奥さんが始めたお店なんだ。だけど、奥さんはもう何年も前に、病気で死んでしまったんだ。今日まではなんとかおじさんだけで続けていたけれど、もう続けられなくなってしまったんだよ」


 店主は少女の頭を撫でて、困ったように笑いました。


「だから今日で閉店なんだ」

「でも、お菓子を作っていたのは貴方でしょう?」


 少女は再び首を傾げます。

 少女の頭を撫でていた手を止めて、店主はまた悲しそうな顔で笑いました。


「おじさんはもうお菓子を作れないんだよ」


 どうして、と少女が訪ねます。

 店主は少しだけ迷って、ゆっくりと口を開いて


「美味しいお菓子を作れなくなってしまったんだよ」


 と言いました。

 少女はますます訳がわからないと首を傾げます。


「今まで美味しいお菓子を作っていたのに、どうして突然作れなくなったの?」


 少女は少々無遠慮に尋ねました。

 しかし店主は怒りもせず、ただ悲しそうに首を横に振るだけです。

 少女はちょっと考えて、やっぱりちょっと偉そうにふんぞり返って言いました。


「だったら、また美味しいお菓子が作れるようになって頂戴。そしてわたしに美味しいお菓子を頂戴な」


 店主はびっくりして口をぽかんと開けました。


「でないとわたしは帰らないわ」


 少女はにっこりと笑いました。

 笑えないのは店主です。店主は驚くやら困るやらで少女の顔をじいっと見下ろしたまま口を開けていました。

 その間抜けな店主の顔にくすりと笑いながら、少女は店主の脇を抜けてお店へ入ってしまいます。

店主は慌てて少女を追いました。


「待って。待ちなさい」


 困った店主が少女の背中に言いますが、少女はさっぱり聞いていない様子で、お店の奥の店主のお家へと入っていきました。


「まぁ! なんて汚いお部屋なの。お店はまだ綺麗なのに、貴方のおうちはとっても汚いのね」


 少女は呆れきった声で部屋を見渡して言いました。


「……奥さんが、死んでしまったからね」


 店主はどうしたらいいのかわからなくて、ついそんな風に答えていました。

 それを聞いて少女は目を丸くして、店主に振り向き大声で言いました。


「奥さんが亡くなってからずっとこんなところで暮らしていたの!」


 その声に店主は思わず頷きました。


「なんて呆れた人なの!」


 少女はもう一度お部屋を見渡して、店主を見上げて言いました。


「こんなお部屋で過ごしている人が、美味しいお菓子を作れるわけがないでしょう!」


 店主はびっくりしながらも、確かにそうだと頷きました。

 それから少女は腕まくりをすると、てきぱきと店主のお部屋を片付け始めました。

 汚れたシーツやお洋服が山のように洗濯機に放り込まれ、いらないものは屑籠に詰め込まれ、店主は久々にお部屋の床を見た気がしました。

 少女がぎゅうと絞った布でさっと窓を拭くとぴかぴかと店主の顔が写ります。

 まるで魔法のように部屋が見違えるほど綺麗になっていきます。

 店主はくるくると動く少女とそれを追いかけてひらひら舞う少女のおさげをぼんやりと眺めていました。

 驚くばかりでお店のことも手に持ったままだった飴玉の籠のことも忘れています。

 店主は少女に掃除の邪魔だと怒られるまでぼーっと少女が片付けるのを眺めていました。


「さぁ、お部屋は綺麗になったわ。美味しいお菓子を頂戴」


 おさげをほつれさせ、可愛いお洋服を埃で汚した少女は汗の滲んだ額を手で拭いながらにっこりと笑って言いました。

 どうにかお店を閉めてきた店主は少女とお部屋を見て目をぱちくりと瞬かせました。

 まるで奥さんが元気だった頃のおうちのように、どこもかしこもぴかぴかと輝いていました。

 奥では未だに洗濯機がごうんごうんと山のようにあった汚れたお洋服を洗っています。

 店主は自分を見上げる小さな少女にお礼を言いました。

 でも、店主は困った顔のまま続けます。


「お部屋が綺麗でも、美味しいお菓子は作れない」


 少女は驚いて目を丸くしました。


「どうして?」


 少女が不思議そうに尋ねましたが、店主は困った顔をしたまま黙ってしまいます。

 少女はふと調理場を覗き込んで大きな声を上げました。


「まぁ、大変! お菓子の材料が一つもないわ」


 がらんとした調理場には塵一つ落ちていませんでしたが、小麦粉も牛乳もチョコレートもバターも果物も、お菓子の材料となるものは何一つありませんでした。

 これではお菓子が作れないのも当たり前です。

 少女は困惑する店主を置いたまま、スカートをひらりと翻して日の落ちた街へと走って行きました。

 カラン、カラン。

 店主が閉店後のお店の掃除をしていると、先ほどの少女がお店に入ってきました。

 少女は細い両腕に大きな袋を抱えています。

 膝小僧は、途中で転んだのでしょう、擦りむいて真っ赤になっていました。

 店主は驚いて目をぱちくりさせて少女を眺めます。


「お菓子の材料を買ってきたわ。さぁ、美味しいお菓子を頂戴」


 少女が言いました。よろよろと重たい荷物を抱えたまま店主に近づきます。

 店主は慌てて荷物を受け取って中を見ました。

 小麦粉も牛乳もバターもチョコレートもバターもみんな揃っていました。店主の奥さんが大好きだった苺も瑞々しく輝いていますそれでも店主の顔は晴れません。


「どうしたの。美味しいお菓子を作って頂戴」

「ごめんね。おじさんはもう美味しいお菓子を作れないんだよ」


 悲しそうな顔のまま、店主はやっぱりそう言いました。

 少女は目を丸くして尋ねます。


「どうして?」


 店主が答えようとすると、突然ぐおおおっと大きな音がなりました。

 それは店主のお腹の音でした。


「まぁ、凄い音! なんて大きなお腹の虫さんなの?」


 少女はくすりと笑います。

 店主は恥ずかしさで顔を赤くしてうつむきました。


「そうね。お腹が減っていたら美味しいお菓子は作れないわね」


 少女はしたりと頷きます。

 少女はさっき掃除した時に調理場とは別にお料理用のキッチンがあるのを知っていましたから、そちらへ行ってお鍋や包丁を取り出しました。

 そしてお菓子の材料の袋とは別の袋をひっくり返して材料を眺めます。

 こっちのキッチンの冷蔵庫にも何も入っていないのは知っていたので、さっき一緒に買ってきたのです。

 玉ねぎ、人参、じゃがいもに、お肉はちょっとフンパツして大きな牛肉の塊が揃っています。 

 トントントン。

 ことことこと。

 ぐつぐつぐつ。

 しばらくすると美味しそうなにおいが店主の鼻をくすぐりました。

 この香りは。

 ごくりと唾を飲み込んでいると、お鍋の火熱で頬を赤くした少女が両手で大きなお皿を掲げて現れました。

 やっぱり。店主の思った通り、美味しそうなカレーがお皿に山盛りになっていました。


「さぁ、どうぞ召し上がれ!」


 少女が言うのを聞いて、店主はおそるおそるカレーを口に入れました。

 するとどうでしょう。

 店主の大好きな、少し甘めのルゥの味が口いっぱいに広がりました。

 久しぶりの美味しい晩御飯に、店主は黙々と匙を動かします。

 少女はじっとその様子を眺めておりました。

 それはそれはとても嬉しそうな笑顔で眺めておりました。

 店主はその後3回もおかわりをして、お腹がいっぱいになりました。

 それを見た少女は言いました。


「さぁ、お腹はいっぱいになったでしょう。美味しいお菓子を頂戴」


 店主は少女に美味しいカレーのお礼を言いました。

 しかし店主はまた悲しそうな顔をすると首を横に振るのでした。


「お腹がいっぱいでも、美味しいお菓子は作れない」


 少女は驚いて目を丸くしました。


「どうして?」


 少女が不思議そうに尋ねましたが、店主は黙ったままです。

 少女は少し考えて、店主の顔をじいっと眺めました。

 そしてふと気づきました。店主の悲しそうな顔には大きなクマや疲れが滲んでいることに。


「まぁ、なんて酷いお顔なの! 目の下は真っ黒だし、顔色も青白くておばけみたいよ」


 少女は店主の額に手を当てて、その熱さに呆れました。


「奥さんが居なくなってからあんまり眠れていないんだ」


 店主が言うと、少女はますます呆れて、今度は怒り出しました。


「なんて不摂生な人なの」


 病気になってふらふらでは美味しいお菓子は作れません。

 少女は店主の手を引っ張って寝室へ連れて行き、無理矢理ベッドに押し込みました。


「ゆっくり寝ればきっとすぐによくなるわ。そしたらわたしに美味しいお菓子を作って頂戴」


 あったかくて清潔なふかふかのおふとんにくるまれていると、店主の頭はぼーっとして眠たくなってきました。

 少女の優しい子守唄が頭の上に降ってきて、店主はすぐに夢の中へ引きずり込まれるのでした。

 その夜、店主は暖かな夢を見ました。

 奥さんと一緒に、綺麗な調理場で美味しいお菓子を焼いて、明るいお店にたくさん並べている夢でした。

 元気な奥さんが店主の焼いたお菓子を楽しそうにつまみ食いしています。

 とってもとっても、幸せであったかい夢でした。

 明るい日差しと鳥の鳴く声で、店主は目を覚ましました。

 体も頭もスッキリとしていて、昨晩の具合の悪さもどこへやら。

 起き上がって顔を洗って鏡を見ると、血色のいい初老男性がこちらを見返していました。

 綺麗なシャツに袖を通してお部屋を眺めると、隅っこで昨晩の少女が丸くなっていました


「おはよう。さぁ、美味しいお菓子を頂戴」


 少女は昨晩と同じように言いました。

 店主はふうと息を一つ吐き出すと、ゆっくりと調理場に入って行きました。

 少女がお店の掃除をしていると、ようやく店主が調理場から出てきました。

 手には焼きたてのクッキーが盛られたお皿を持っています。


「食べてみてくれるかい」


 店主はお皿を少女の目の前に差し出して言いました。

 少女はきらきらと目を輝かせて綺麗な狐色に焼けたクッキーを一枚、小さな指で摘んで口へ運びました。

 さくっ。

 軽い音がして、すぐにクッキーは少女の口の中に消えて行きました。


「どうだい?」


 店主が尋ねると、少女は首が痛くなるのではないかと思えるほどにぶんぶんと頭を横に振りました。


「ダメ。ダメ。全然ダメ。これはわたしの欲しい美味しいお菓子じゃないわ!」


 少女が大きな声で言いました。

 店主は大声に驚きながらも、そうか、と言いました。

 まるで少女が気に入らないのがわかっていたように。


「熱が無くても、美味しいお菓子は作れない」


 店主はしょんぼりと肩を落として言いました。

 クッキーを一つ摘んで口へ放り込むと、さくさくと美味しい食感が口に広がります。でもそれは店主のお菓子の味ではありませんでした。


「おじさんはもう美味しいお菓子が作れないんだ。わかったろう」


 店主が悲しそうに言いました。

 少女はしばらく黙って店主の顔を眺めていました。

 やがて少女はもう一枚のクッキーを摘んで口へ放り込みました。

 そして


「美味しいお菓子が欲しいの。貰えなきゃ帰らないわ」


と言いました。

 店主はびっくりして少女をまじまじと見つめました。

 少女はそんな店主を見上げて言いました。


「美味しいお菓子を頂戴。美味しいお菓子を貰うまで帰らないから」


 そう言って少女は不満そうに口をへの字に曲げました。

 店主はやっぱり言いました。


「おじさんはもう、美味しいお菓子を作れないんだよ」


 そうすると少女もやっぱり言いました。


「美味しいお菓子を貰わなきゃ帰らないわ」


 店主はもう一度、お菓子を焼きました。

 今度はふっくらしっとりとしたマドレーヌです。

 バターとレモンの香りがとても美味しそう。

 少女が小さな口でぱくりと噛み付きました。


「どうだい?」


 店主が不安そうに尋ねます。

 もぐ、もぐ、もぐ。

 少女はゆっくりと咀嚼して飲み込むと、悲しそうな顔をして言いました。


「ダメ。ダメ。全然ダメ。これはわたしの欲しい美味しいお菓子じゃないわ!」


 店主はまた肩を落として、そうか、と呟きました。

 少女と同じようにマドレーヌを口に放り込むと、しっとりとした食感が口いっぱいに広がります。でもそれは店主のお菓子の味ではありませんでした。

 やがて少女はもう一個のマドレーヌを摘んで口へ放り込みました。

 そして


「美味しいお菓子が欲しいの。貰えなきゃ帰らないわ」


 と言いました。


 店主はもう一度、お菓子を焼きました。

 今度はふわふわとした柔らかなシフォンケーキです。

 固めに仕上げられた生クリームが添えられてとても美味しそう。

 少女は嬉しそうにぱくりと噛み付きました。


「どうだい?」


 店主がそっと尋ねます。

 もぐ、もぐ、もぐ。

 少女はゆっくりと咀嚼して飲み込むと、悲しそうな顔をして言いました。


「ダメ。ダメ。全然ダメ。これはわたしの欲しい美味しいお菓子じゃないわ!」


 店主は三度、肩を落として、そうか、とため息をつきました。

 これまでと同じようにシフォンケーキを一口口に放り込むと、ふわふわとした食感に絡まる生クリームの味が口いっぱいに広がります。もそれは店主のお菓子の味ではありませんでした。

 少女はシフォンケーキを食べ終わると、


「美味しいお菓子が欲しいの。貰えなきゃ帰らないわ」


 と言いました。

 店主はとても悲しそうに言いました。


「おじさんは、もう、美味しいお菓子のつくり方がわからないんだ」


 少女は口をへの字に曲げて言いました。


「わたしは美味しいお菓子が欲しいの。美味しいお菓子を貰うまで帰らないのよ」


 奇妙な日々が始まりました。


 まだランドセルの似合う年齢の小さな少女が掃除をして、買い物をして、料理を作ります。

 初老のパティシエがお菓子を作っては少女に味見をさせています。

 毎日、毎日、店主はお菓子を焼きました。

 それでも少女の答えは変わりません。


「ダメ。ダメ。全然ダメ。これはわたしの欲しい美味しいお菓子じゃないわ!」


 ある日、閉め切ったままだったお店のドアが開きました。

 カラン、カラン。

 入店ベルが久々のお客さんを嬉しそうに出迎えます。


「こんにちは。お菓子はあるかい?」


 お客さんはにこりと笑って、店主と少女に尋ねました。

 驚いたのは店主と少女です。

 だって、お店の準備なんてしていないのですから。

 困って顔を見合わせた二人を、お客さんは不思議そうに眺めます。


「どうしたんだい?」

「あのぅ、申し訳ないのですが、お店は閉店したのです」


 店主がおそるおそるそう告げると、今度はお客さんが驚いて声を上げました。


「なんだって。美味しそうなにおいがしていたからてっきりやっているのかと思ったよ」


 お客さんがしょんぼりと肩を落とすのを見て、店主は胸が苦しくなりました。

 せっかく来てくれたのに何も出せないなんて。

 でも今あるお菓子は少女の為に焼いた店主の味とは違う美味しいけれど美味しくないお菓子しかありません。

 失敗作を出すなんて店主のプロとして培ってきたプライドが許しません。

 どうしようかと悩んでいると、横でやりとりを見ていた少女が先ほど焼きあがったばかりのアップルパイを持ってきて言いました。


「今焼けたばかりなのよ。おひとつどうぞ」


 店主はびっくりして少女を見下ろしました。

 少女はにっこりと笑ってお客さんにアップルパイのお皿を差し出しました。

 シナモンとりんごの美味しそうなかおりが鼻をくすぐります。

 お客さんは嬉しそうに少女にお礼を言って、アップルパイを一口かじりました。


「わぁ、なんて美味しいお菓子だろう!」


 お客さんが驚いて叫びました

 驚いたのはお客さんだけではありません。

 店主は驚いて目をぱちくりと瞬かせました。


「本当に美味しいのですか?」


 本当に不思議そうな顔でそう尋ねる店主に、お客さんは首を傾げます。


「本当だよ。こんなに美味しいお菓子を食べたのは初めてだ!」


 お客さんはにっこりと笑いました。

 本当に美味しそうに食べるお客さんを見て、店主はびっくりしながらもお礼を言いました。

 そしてお客さんはアップルパイを食べ終わると、


「ああ、とても美味しかった。また来てもいいかい?」


 と言いました。

 店主がどう答えたものかと困っていると、今まで横で黙って見ていた少女が先に


 「もちろんよ」


 と言いました。

 お客さんは嬉しそうにお店を出て行きました。

 店主は困った顔のまま、横に立つ少女を見下ろしました。

 少女は少し冷めてしまったアップルパイを齧って言いました。


「これはわたしの欲しい美味しいお菓子じゃないわ」


 でも、と少女は店主を見上げて続けます。


「とっても美味しいお菓子だわ」


 そう言って、少女は本当に本当に嬉しそうに微笑みました。

 それから、あのお客さんから聞いたという近所に住む人たちがお店にやってきました。


「お菓子を頂戴」

「私にも美味しいお菓子を頂戴」


 毎日のようにお店にはたくさんのお客さんが来るようになりました。

 これではもうおいしいお菓子が作れないからと閉店するとは言えません。

 いつの間にか店主はお店を再開して、少女のため以外にお菓子を焼くようになりました。

 たくさんのお客さんが店主の焼くお菓子を食べて笑顔になりました。

 たくさんのお客さんが店主の焼くお菓子を食べておいしいおいしいと言いました。

 それでも少女は店主と二人きりになると


「美味しいけれど、これはわたしの欲しい美味しいお菓子じゃないわ」


 と言いました。

 ある日、お客さんが居なくなったお店で休憩していた店主はふと思いついて、お菓子を棚に並べる少女に尋ねました。


「君の一番好きなお菓子はなんだい?」


 少女はクッキーを並べていた手を止めて、店主を振り返りました。

 初めて会った時より少し髪も背も伸びました。でも店主を見上げる目だけは変わらずにキラキラと輝いていました。

 尋ねてから店主はおやと首をかしげました。

 そういえば、店主は少女のことを何も知らないのです。

 少女はまるで知っているかのように、店主の好きなカレーを作ってくれます。作りたいと思ったお菓子の材料を買ってきてくれます。

 店主がわざわざ言わなくてもすぐに気付いて掃除や洗濯や、家のこと身の回りのことをしてくれます。

 だけど、少女は自分のことは何も言いませんでした。

 好きなお菓子のことだけじゃありません。好きな食べ物、好きな色、得意な科目や友達の名前。何一つ知らないのです。

 何故今まで何も聞かなかったのか、店主にもわかりませんでした。

 店主は目を瞬かせる少女を眺めながらぼんやりと考えます。

 この子はどこから来たのだろう?

 それを尋ねようとしたとき、ようやく少女が口を開きました。

 店主は黙って少女の言葉を待ちました。


「わたしの一番好きなお菓子は……貴方が初めて作ってくれたお菓子よ」


 少女はにこりと微笑みました。

 はて。

 初めてとは出会って初めてということだろうか。

 ならばと店主は調理場に行ってクッキーを焼きました。

 焼きたてで美味しそうな色のクッキーの山をお皿に盛って、少女の元へ行きました。

 クッキーのお皿を少女に手渡すと、少女がクッキーを食べるのを眺めました。


「どうだい?」


 いつかのように、店主が問いました。

 もぐ、もぐ、もぐ。

 少女はゆっくりと咀嚼して飲み込むと、悲しそうに首を横に振りました。


「これはわたしの一番好きな美味しいお菓子じゃないわ」


 店主は驚いて、そしてしょんぼりと肩を落として、そうか、と言いました。

 もう一枚、クッキーを摘んで口に放り込んだ少女は口をへの字に曲げて


「美味しいお菓子が食べたいの」


 と呟きました。

 それからも店主は少女の為にたくさんのお菓子を焼きました。

 マカロン、シフォンケーキ、シュークリーム、マドレーヌ、フィナンシェ、チョコレートケーキにエクレア、アップルパイ……たくさん、たくさん焼きました。

 けれど少女の答えはいつも同じです。


「これはわたしの一番好きな美味しいお菓子じゃないわ」


 その度に店主は悲しそうに、そうか、と呟きました。

 でも、同じように少女も悲しそうにため息をつくのでした。

 店主がいつものように少女のためにお菓子を焼こうと調理場に行くと、珍しいことに少女の姿がありました。

 今まで店主が呼ばない限り、少女が勝手に調理場に入ってくることはありませんでした。

 少女は小さな両手で真っ赤なりんごを包み込んで、じーっとそれを見つめています。

 りんごが好きなのだろうか。そういえば、いつの間にか忙しくしていてもお菓子作りを手伝ってもらうことはありませんでした。

 たった一度だけ、手伝ってもらったのは――

 ふと店主の頭に閃くものがありました。

 店主は少女に声をかけ、言いました。


「一緒にお菓子を作らないかい」


 店主は驚く少女を急かすように材料を並べ始めます。

 小麦粉にバター、牛乳、卵、お砂糖、カスタードクリームにシナモンも忘れずに。

 りんごは一番赤くて瑞々しいものを選んで。

 少々たどたどしい手つきの少女に指示を出しながら、店主は小麦粉をふるいにかけ、卵を割ります。

 誰かと一緒に調理場に立つのはいつぶりでしょう。

 店主は少女のためということも忘れかけながら、楽しい気持ちを抑えられませんでした。

 横では少女が楽しそうにパイ生地を練っています。

 とてもとても暖かくて、楽しい時間でした。

 完成したアップルパイを切り分けて、店主と少女は小さなテーブルに向かい合って座りました。

 まだ中のフィリングが冷め切っていないのでしょう、ほかほかと白い湯気が昇っています。


「初めて一緒に作ったお菓子……アップルパイが、君の一番好きなお菓子だろう? さぁ、召し上がれ」


 店主がにっこりと笑うと、少女は驚いた顔で店主を見つめました。


「覚えていたの?」

「忘れるものか。だってあの時のあのパイは、店を再開するきっかけになったパイだからね」


 そうしてもう一度、少女にアップルパイを勧めます。

 少女はゆっくりとフォークで一口、パイを口に放り込みました

 もぐ、もぐ、もぐ。

 もう一口。

 もぐ、もぐ、もぐ。

 もう一口。

 もぐ、もぐ。

 無言で食べる少女を、店主は無言で見守りました。

 綺麗に最後の一口を飲み込んだ少女は、ほうと一息つきました。


「どうだい?」


 おそるおそる、店主が問いかけます。

 顔を上げた少女は――ぽろぽろと泣いておりました。

 いつもお菓子を眺めている時と同じようにきらきらと輝く大きな眼に、大粒の涙を溢れさせて、静かに静かに泣いておりました。

 一瞬だけぎょっとした店主は、深呼吸をして、少女の頭をそっと撫でました。


「そういえば、お菓子を作るようになったのは、君が原因だったねぇ」


 店主は優しく優しく少女の頭を撫でて言いました。


「覚えていたの」

「忘れるものか。だって、君と結婚した原因もコレだっただろう?」


 店主は苦笑してアップルパイを示しました。

 差し込む朝日が少女を照らしていました。

 うっすらと後ろの景色が透けて見えました。


「美味しいお菓子をありがとう」


 涙を拭った少女が目も鼻も赤くしたまま微笑みました。

 とてもとても幸せそうな笑顔でした。

 店主が少女の頬の涙を拭うと、少女はくすぐったそうに身をよじりました。


「もう美味しいお菓子が作れないなんて言わないでね」


 少女が小さな子供を叱りつけるように言いました。

 店主はうんと頷きます。


「一番美味しいものを君にあげたかった」


 店主が呟くと、少女はくすりと笑って言いました。


「もう、たくさん貰ったわ」


 最後に幸せそうに笑った少女が言いました。

 数年前に病気で亡くなった、奥さんの声でした。

 今日も町に美味しそうな焼き菓子のかおりが漂います。

 街角の小さなお菓子屋さんでは初老のパティシエが忙しそうにお菓子を焼いておりました。

 ティータイムに向けて、お客さんがたくさんやってきています。

 美味しそうなお菓子を持って、お客さんたちは笑顔でお店あとにします。

 それを見て、店主は胸が暖かくなるのを感じていました。

 店主は今日もたくさんのお菓子でお客さんを幸せにします。

 かつて少女だった愛するあの人がそうだったように。


 オーブンが鳴って、美味しそうなアップルパイが焼けるのでした。

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