夢とピアノと、
「泣いても、いいのですわよ」
その声に振り返り、目を瞬く。
そう言った少女はむしろ、私よりも泣き出しそうな顔をしていた。
それがなんだかおかしくて、私は小さく吹き出す。
少女はそれを見てムッと唇を尖らせた。
「笑いごとではなくってよ」
「わかってるよ。……ありがとう」
私が言うと、彼女は頬を薄っすらと上気させてぷいと顔を逸らした。
二人の間を冷たい風が吹き抜けていく。もうすぐ、寒くて冷たい冬が来る。
まだ白くはならない息を吐き出して、私は空を見上げた。
隣で少女も私の視線を追う気配がする。特になにかを見ているわけではないのだが。
「……泣いても、いいのですわよ」
少女が消え入りそうな声で、もう一度呟くようにして言った。
私は静かに首を振って、「泣かないよ」とだけ答える。
頭上を最後だろう渡り鳥が飛んでいく。
私もいっそ鳥だったのなら、好きなところに飛んで行けただろうか。
泣けもしない私はそんなつまらないことを考えるのだった。
***
私――フィロ・カーセルが彼女、リコ・ノブレスと出会ったのはまだ幼少のころである。
音楽家の家系に生まれた私は幼いときから楽器に触れあって過ごしていた。そのおかげか、三才になるころには拙いながらもピアノを弾いていたし、親の伴奏に合わせて歌うこともあった。
年の離れた兄たちは既にそれぞれヴァイオリンやフルートで世に名を知らしめ始めていたころだったこともあり、私もそれに次いで高名なピアニストとなるべく親の期待を一身に受けていた。
もちろん、私だってピアノが好きで、一日でも離れようものなら泣き喚いて暴れるくらいのものだったから、その期待には応えたい気持ちでいっぱいだった。
音楽家として、ピアニストとして成功するためにはパトロンだって欠かせない。
そうして白羽の矢が立ったのがノブレス家であり、私とそう年齢の変わらないリコだった。
彼女に気に入ってもらえればまずお抱えピアニストとしては安泰となる。そのために幼い私は同じくらい幼いリコと出会わされた。
まぁ、いわゆる幼馴染というものだ。
リコは好奇心旺盛で、同じ年くらいに見える同性の私をすぐに気に入って庭に連れ出すほどだった。当時の彼女のことを思うと、同世代の友人なんていなかっただろうから、それも当たり前のことなのかもしれない。
彼女は遅くに生まれた待望の女の子だったらしく、それはもう可愛がられていたから、私の両親の目論見通り、リコに気に入られた私の支援はノブレス家がしてくれることとなった。
そんなことはお構いなしにリコはいつだって私のピアノを嬉しそうに、楽しそうに聴いてくれていたが。
やがてリコが国一番の公爵家の長男坊との婚約が決まっても、私たちの関係は特に変わらなかった。
リコが望めば私がピアノを弾く。いつだって。
だから、その日だって、これから先もずっとずっとそうしていくんだと思っていた。
「――フィロ!」
「危ない、お嬢様!」
暴走した馬車に轢かれそうになったリコを庇った私は横転した車輪の下敷きになった。
幸い命は取り留めたものの、一時はそれさえ危うかったのだと、両親が泣きながら教えてくれたのは治療が終わり目を覚ましてすぐのことだった。
しばらくは家族以外面会謝絶でリコがどうしているのかばかり気にしていた私は自分の異変に気付かなかった。
「もう二度と、ピアノを弾くことはできないでしょう」
医師にそう告げられたのは事故からひと月が経ったころ。ようやくリコにも会うことができて、彼女の無事に安堵した矢先だった。
利き腕の感覚がない。――やっと、そう気付いて医師に訴えて返ってきたのがその言葉だった。
ピアノが弾けない。
私を絶望させるには十分すぎる言葉だった。
これから先、治療を続ければゆっくりとではあるが、日常生活に支障はない程度まで回復する見込みはあるとは言われた。
だが、繊細な指運びを必要とするピアノは――楽器の演奏は、無理だろう、と。
目の前が真っ暗になるとはこのことだろう。
本当に、世界から色も音も失った心地だった。
不幸中の幸いか、治療費はリコの両親が出してくれていたそうだ。この怪我はリコを助けるために負ったのだから、と。
しかし言外に、もう支援は打ち切るという言葉が聞こえていた。
まぁ、それはそうだろう。そもそも私への支援は、私の腕への支援だったのだから。
その腕が使い物にならなくなったのだからさもありなん。
全てがどうでもよくなっていた私はただ頷くだけだった。
そしてついでのようにリコとの縁も切れるのだろう、そう思っていたのだが、どうしてかそれはならなかった。
彼女は家の用事や勉強、婚約者とのお茶会など多忙であるはずなのに、頻繁に私のお見舞いに来た。
「お嬢様、暇ではないのでしょう?」
「そんな風に呼ばないで。昔のようにリコと呼んでちょうだい」
そんなことを言いながら、最近教わったのだと危なっかしい手つきで林檎の皮を剥く彼女はいつだって真剣だった。
もう私はあなたのために音を奏でることはできないのに。
そういじけた私は何度も彼女を傷付けた。
なのに、リコは私のお見舞いをやめることはなかった。
それに救われていたと気付いたのは、だいぶ時間が経ってからだった。
「泣いても、いいのですわよ」
そう言われたときにはもう泣くことすらできなくなっていたが。
それでも、彼女の言葉が嬉しくて、私は小さく笑った。
だから。
だから私は彼女のためならばなんだってしてあげたいと思うのだ。
「……婚約、破棄……?」
リコと婚約者の結婚まであと一年を切りそうな秋のある日、それは突然もたらされた。
意味が分からなくて、私はオウムのように言葉を繰り返して首を傾げる。
長年付き合いのあるリコ付きのメイドが涙ながらに顔を真っ赤にして唇を歪めた。
「あの男……許せないわ! 一方的にお嬢様を悪者にして! し、しかもっ、婚約破棄だなんて!」
「こんやく、はき……」
「お嬢様がお可哀そうすぎます! 旦那様はあの男の家……公爵家に正式に抗議するとのことですが……」
「……お嬢様は今、どこに?」
「……お部屋でお休みになられています」
メイドに礼を言って私は足早にリコの部屋に向かう。
リコは本当に婚約者を慕っていた。それがこの結果とは。
本当に、神などこの世にはいないのだと苦い気持ちになる。
ピアノが弾けていたころにはよく讃美歌を奏でたものだったが、今では聞くだけで眉をひそめてしまう有様だ。
教会の者たちには叱られてしまうだろうが、神が居たところで私の腕は治らないし、リコの婚約破棄もなかったことにはならない。
扉の前で一瞬だけ逡巡する。
もし、リコが誰にも会いたくなかったらどうしよう、とそこでようやく思いついた。
私が医師の宣告を受けた直後は誰にも会いたくなかった。放っておいてほしかった。
けれど、リコは私に会いに来た。帰れと言っても何度だって会いに来た。
いつしかそれに救われていた。
……私も、彼女の救いになれるだろうか。会っても、いいのだろうか。
覚悟を決めて扉を軽く叩く。
少しの間を置いて、中からリコのよく通る声が誰何した。
「フィロです。お嬢様、入っても構いませんか」
「……どうぞ」
そっと扉を押して中を窺う。リコは窓際に置いた椅子に座って外を眺めているようだった。
私が入ってきたのを横目で確認して、またすぐに窓の外に視線を戻す。
帰れとも来るなとも言われなかったので私は黙ったまま扉を閉めてそっとリコの側に立った。
窓の外に見える大きな木の枝で仲良くじゃれ合う二羽の鳥が鳴いているのが目に入った。生憎とピアノ一辺倒だった私には名前がわからないが、小さくて白くて丸くて、随分と可愛らしい鳥だ。
リコもそれを眺めているらしい。
しばし部屋に沈黙が落ちる。
リコは身じろぎひとつせずにじっと外を眺めている。なにを考えているのかはわからない。
私は――私は、なにを言ったらいいのだろう、と唇を噛んだ。
もし今ピアノが弾けたのなら、彼女の心を癒すために彼女の好きなものをいくらでも奏でてあげられるのに。
「お嬢様……」
「お嬢様なんて呼ばないで。昔のようにリコと呼んでちょうだい」
「……リコ、」
「――本当に、わたくしったら、馬鹿ね」
ふふ、と乾いた笑いをリコが漏らす。視線はずっと窓の外に投げられたままだ。
「わたくし、本当にディレン様のこと、お慕いしておりましたのよ?」
ディレン・カティーブ。リコの婚約者の名前だ。
私は苦々しい気持ちでその名前を聞く。
リコはころころと笑っているが、よく見れば膝に置かれた両の手が震えていることに気付いた。
いくら気の強いリコでも、此度のことは堪えたらしい。
「……わたくしの、なにが悪かったのかしら……」
「リコは悪くないよ」
「ふふ、そうかしら。……そうだったらいいわね」
「リコは、悪くない」
「……ありがとう」
リコは一瞬だけ私に視線を寄越すと、小さく頷いてまた窓の外に視線を戻した。
「真実の愛を見つけられたそうですわ」
「……はぁ?」
「相手は男爵令嬢の……なんと言ったかしら、あら、忘れてしまいましたわ」
「……」
なに言ってんだと口にしなかっただけマシだろう。私は開いた口を塞ぐことができなかった。
リコが語るには、なんとか言う男爵令嬢との間に真実の愛を見つけたからリコとの婚約を破棄すると、あの馬鹿な公爵息子は宣ったらしい。
軽く頭痛がして、私は思わず額を押さえる。
リコも言われたことの半分も理解できなかったようで、眉を下げて苦笑していた。
呆れて言葉が出ないとはこのことか。
そんな理由で家同士の決定が覆され、リコは傷付けられたのかと思うと生半可な怒りでは済まない。メイドたちが涙ながらに怒るのも無理はない話だった。
だが、一番怒っていい立場であるリコが怒りもせず泣きもせず、こうして静かにしている以上は私たちがなにかするのは憚られた。
「……リコ、」
呼んでみるが、なにを言えばいいのか、どう言葉をかけたらいいのかわからなくて口を噤む。
その様子を横目で見ていたのか、リコはようやくしっかりと私を見上げてくすりと笑った。
「なぁに、フィロ」
「……」
「黙っていては、わからなくてよ」
私になにが言えるのだろう。
考えて、口からこぼれたのは、いつか彼女に言われた言葉と同じだった。
「泣いてもいいんだよ」
はっとリコが小さく息をのんだ。
私はリコの前に膝をついて、膝の上に置かれた両手に自身のそれを重ねた。白い手はいつからそうしていたのかと思うほどに冷たい。
無理もない。秋とはいえ、今日は風が冷たくてよく冷える。こんな日にずっと窓の側に座っていたのだから。
私の無駄に高い体温がリコを温めるといい。そう思いながら、少しだけ手に力を入れる。
「泣いても、いいんだよ」
「――っ、」
一瞬だけひくりとリコの引き結ばれた唇が歪む。
いくらいつも強気な彼女でも、今日くらいは泣いてもいいと思った。
キラキラと輝く宝石のような碧眼が私を映している。
はく、とわなないた唇はやがて小さく息を吐き出した。
「泣きま、せんわ」
「どうして」
「だって、泣くほどのことではありませんもの」
「そうかな」
「ええ。だって、わたくし、どうしてだか、悲しくありませんのよ。――フィロが弾けなくなったあの日の方が、ずっとずっと、悲しかったですわ」
「……そっか」
窓の外でじゃれ合っていた鳥たちがどこかへ飛び立っていくのが視界の端に映った。
弾かれたようにリコがそちらを見る。
潤んだ瞳から雫がこぼれることはついぞない。
「……わたくし、本当に馬鹿ですわね」
「そんなことないよ」
二人で窓の外を眺めたまま、静かに呟く。いつの間にか夕日が傾いていた。
「…………フィロがわたくしの婚約者だったらよかったのに」
「……」
その言葉に返せる言葉を、私は持っていない。
黙って握ったままの手に力を入れた。
ふふ、とリコは穏やかに笑う。
「どうにも、ままなりませんわね」
これから私は社交界に出て嫁ぎ先を探すことになるだろう。もう、ピアニストにはなれないのだから。
リコも、新しい婚約者を探していくことになるのだろう。正確には、探すのは彼女の両親だろうが。カティーブ公爵家よりは家格がいくつも下がるのは仕方ないことだ。
私は夢やぶれた。
リコは、愛を裏切られた。
神様なんて、やはりいないのだろう。
私たちは泣くこともできず、ただ暗くなっていく窓の外を眺めていた。
もしも今ピアノが弾けたのなら、どんな音色を奏でていただろう。
そんなどうしようもないもしもを考えて、私は小さく息を吐いたのだった。
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