2.裏切りと計画(プラン)

 最初に口を開いたのは美島だった。

「澤村さん、お待ちしておりますと伝えましたのに随分遅かったですね。思っていたより鈍いお方なのでしょうか」

 細身のスーツを纏った美島が、変わらぬ無表情で立っている。

 いつもと違うのは、彼女が普段人前に晒さない二丁の拳銃を携えていることだった。

「いや、そんなことより美島、これはどういうことだ?」

 その隣で塚地が再度問う。

 思いがけない侵入者の説明を彼女に求めるその表情は、酷く硬いものだった。


「黙っていてもいずれ彼らは気づきます。それが遅いか早いかです」

「しかし……」

「もがもがふが」

「ですが今後も心配は御無用です、塚地さん。澤村さんは私が始末しますから」

「だが美島……」

「もがもがもげ」

「私もそのオジさんの意見に同意するよ。美島が私を始末できるかは分からないし、この件がどういうことなのかは私も訊きたい」

「もがふがもが」

「だけど先にハルの居場所を教えて、彼は今どこ?」

「すみませんが澤村さん、その件でしたら少しの間待ってもらえますか。塚地さん、あの人の猿轡取っていいですか、とても煩いので」

「……ああ、猿轡だけならな」


 塚地に了承を得た美島はボスの傍らに片膝をつくと、猿轡を外す。唇の端から垂れ落ちた涎を丁寧にハンカチで拭い取ると再度立ち上がり、恭しく一礼した。

「大変失礼致しました、ボス」

「美島……アンタがアタシを裏切るとは夢にも思ってなかったわ。こんな状況になるともね」

 苦しげな咳払いの後、ボスはいつも以上に嗄れ声を発した。

 再び腹心に裏切られたその事実。険しい心情を吐露する横顔には様々な感情が過ぎっている。そこには冷たい非難も含まれていたが、当の本人は表情も変えず言葉を返した。

「すみません。今回塚地さんが提示した額がボスより遙かに大きかったので。諸々の事情を踏まえ、最終的にそのように判断しました」

 美島は謝罪と思しき言葉を口にするが、その表情には特段新たな感情は見られなかった。長年の部下の不義理を目の当たりにし、ボスの非難はもう一人の部下にも向けられることとなった。


「……塚地、アンタもそうよ」

「ええ? 私ですか? いいえ、それは違うでしょう、ボス。こうなったのは一連の出来事に気づけなかったあなたが悪いのです」

「アンタ、そうやっていつまでも気取った言い方でスッとぼけるんじゃないわよ! あの子を隠してるのはアンタでしょ! ……どこ!」

「し、潮里!?」

「ふふ……やはり私の計画プランは間違ってなかったようだ、ボス。あなたのような人間でも血の繋がった娘は可愛いみたいですね」

 事情は掴めずとも、届いた名に秦太朗が声を上げる。しかしその声に応える者はいなかった。

 初老の男は満足の笑みを浮かべ、傍のアンティークテーブルから優雅な所作で葉巻を取り上げる。取り出した金色のライターでそれに火を点せばたちまち独特の香りが辺りに漂い、怒りと嘲りが衝突した。


「あの子はアタシのビジネスに関係ない! その関係ない娘を巻き込むなんて、この卑怯者、ろくでなし、鬼畜!」

「卑怯者にろくでなしに鬼畜? ふふ、可笑しいですねぇ。その言葉は全てあなたにお返ししましょう、ボス。その言葉はどれもあなたに向けられて然るべきものでしょう? あなたの娘以外の子供達から臓器を奪い去り、あなたの娘以外の少女達が薄汚れた宿で股を開き、あなたの娘以外の若者達を浸食する麻薬で、あなたは莫大な利益を得ている。卑怯者にろくでなしに鬼畜、その言葉がこれほどまでに当てはまる人間が他にいますか? しかし案じることはありません。あなたの大事な娘はお返しするつもりです。代わりにあなたの利権は根刮ぎ頂くつもりですが」

「ええ、構わないわよ! だから、潮里を返して!」

「彼女は別の場所にいます。命に別状はありませんが、一緒にいるのは力が有り余っている連中ばかりです。多少の……いや、かなりのきずものに成り果てていることは避けられませんが、そのことはまぁ、案じるべきでしょう」


 慇懃な相手の言葉を受け取った老女は厚い唇を噛み、苦悶の表情を浮かび上がらせている。いけ好かない初老の男はゆっくりと煙を吐き出し、口元を歪めて笑っている。

 その背後にいる秦太朗は無言で項垂れるしかなかった。

 この男の言葉は自分の胸にも、深く突き刺さっていた。自分もここにいる連中と変わらない、卑怯者でろくでなしで鬼畜だ。消せない罪を背負った自分に真っ当な言葉を上から語る資格などない。だが平然と彼女の不幸を口にする男を前にして、ただ指を咥えている訳にはいかなかった。


「てめぇ、ふざけんなよ! このクソじじい!」

 見知らぬ男達に陵辱され、生きる希望すら失った姿。

 追い払おうとしても想像してしまうのは思い浮かべたくもない彼女の姿だった。その姿を心の底から打ち消すように秦太朗は男に殴りかかっていた。しかし気づけば何も把握することなく、床の上に這い蹲っていた。

「クソっ! 離せ! 畜生っ!」

 背中には硬い膝の感触がある。認識もできぬまま捉えられたことを今更のように自覚するが、振り上げた感情の方が勝っていた。だが左手は逆手に取られ、望む身動きも叶わず、闇雲に暴れても身体は蛙のように取り押さえられたままだ。


「畜生っ、そこをどけっ! 痛ぇだろうが、このデカ女! 早く離せって言ってるだろーがっ!」

「どうやら彼女のボーイフレンドは少々元気がよすぎるようですね」

 その声と同時に、自身の内部で鈍い音が響き渡ったのを秦太朗は聞いた。

 その音源が何か分からず、一瞬の茫然が過ぎったが本当に一瞬だった。

 次には耳障りな音が部屋中に響き渡っていた。次第にそれが自らの絶叫だと気づけば、絶望にも近い激痛が遅れてやって来る。

 あの女に腕をへし折られた。その強烈な事実にようやく気づかされる。脂汗が滲み出し、耐えられない激痛に床上で身を捩る。虚ろな視線を上に向ければ、そこにはその所業をいとも簡単に成し遂げた女の無表情があった。


「秦太朗!」

「澤村さん、あなたの動揺が見られたのは私にとってほんの少し愉しい出来事でしたが、今は彼の心配より志摩さんの行方が気になりませんか。志摩さんは今、明神組の樋口という男の所にいます。ボスの大事な身内もそこにいるはずです」

「美島! お前なぜそれを今ここで言う!」

「大丈夫です、塚地さん。あなたにも分かっているはずです。居場所を知ったところで彼女達にはどうすることもできません」

 花は自身が茫然としていたことに相手の言葉で気づいた。

 目を向けた床の上では秦太朗が声にならない呻きを上げている。その傍で髪も乱さず立つ美島は彼の居場所を告げた。

 痛みに顔を歪めながらも、その言葉に反応した秦太朗と目が合う。ハルの行方は自分が一番知りたかった情報だった。しかし美島がなぜそれを敢えて自分達に告げたのか、その理由が分からなかった。


「彼女のボーイフレンドは解放しましょう。本庄秦太朗さん、一度しか言いませんからよく聞いてください。樋口と志摩さんは美並にある井川いがわビルにいます。あなたならこの場所が分かるはずですね。手負いのあなたが一体どこまで役に立つかは分かりませんが」

「美島……もう一度訊くが、お前は本当にそれでいいと思っているのか?」

「思っていますよ、塚地さん。彼が辿り着いても待ち受けているのは返り討ちだけです。余計な手間が省けて私は大助かりです」

「だが……」

「塚地さん、何度も言いますが心配は御無用です。既に心配の種は除かれています。志摩さんはとっくに殺されている頃でしょう」


 美島の言葉を聞いた塚地の顔に、ようやく安堵が浮かび上がった。

 その傍で花は一歩も動けずにいた。

 彼の居場所が分かった今、ここにもう用はなかった。残したボスの命運がどうなろうと最初から気にもしていない。

 だが美島が居場所を告げたのも、秦太朗を解放したのも、善意からでないのは分かっていた。安否が気になる彼のためにも一刻も早くここを立ち去りたかったが、このまま何事もなく行かせてもらえるとも思っていなかった。


「……花、オレは行くぜ、潮里がいるんだ……オレ、やっと役に立てそうだ……」

 秦太朗は左腕を庇いながら、よろよろと立ち上がる。エレベーターに向かうその背を目で追うが、そうすることしかできなかった。

「澤村さん、あなたには残ってもらいます」 

 強がりの笑みを浮かべる秦太朗の姿が扉の隙間に見えた。彼を乗せたエレベーターは無事地上へと降下していく。

 振り返れば、こちらを見据える女の姿がある。

 彼女はこの場所でずっと自分を待ち受けていた。


「澤村さん、ここに来たのがよかった。あなたにはまだ用があるのです。それと知っていましたか、澤村花。生意気なあなたの態度が、私はとても嫌いなのです」

 美島は告げると笑みを浮かべる。

 花が初めて目にしたその微笑はとても美しく、同時に非常に畏れを為すものだった。

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