5.ボロアパートインシデント

「花、一体なんだよ。さっきのくだりは……」

 笑い続ける少女を残して、秦太朗は公園を後にしていた。

 強く言ったおかげで花はどうにか公園に留まっていたが、見知らぬ少女と妙なことになっていた。

「さぁ? 暇すぎて頭が変になったんじゃない?」

 だが訊ねても、いつもの想定内の返事が戻る。それにいい加減慣れてはきたが、冷たい奴だともつくづく思う。


「はい、質問。お前さ、人の心、持ってんの?」

「さぁ? でもそれ、あんたに関係ある?」

 少しでも心を抉ってやろうと試みたが、何ひとつ堪えた気配はなかった。トラブルメーカーなのはやはり性格に少々難のあるこの少女の方ではないかと思わずにはいられない。

 こんな相手にまだ関わろうとしている自分がバカなのは分かっている。でもそれ以上に今は志摩のことが気がかりだった。もしいなくなった理由が自分のせいだとしたら、多少責任を感じる。


「おい、ちょっと待てよ」

 声をかけても、先を歩く少女は速度を弛めもしない。志摩のことは確かに気になるが、心に留まったこのもやもやを放置できなかった。

 自分のことをある程度寛容な人間だと思っていた。生意気な相手でも、年上目線で見守る余裕があると思っていた。だがこの相手が規格外であるのを差し引いても、やはり何かが気に入らなかった。多少なんかではなく、だいぶ気に入らないのかもしれなかった。

 前方を歩く華奢な背中をもう一度見遣った。

 思い知らせるとか、力ずくでどうこうとか、自分のキャラに全く合わない筋肉思考の考えがちらちらとちらつき始めている。本当に実行するかはさて置いても、それに似た感情が心を占め始めていた。

「ねぇ」

 けれど急に相手が足を止めて振り返った。

 心を読み取られた気がして、動揺を抑えられなかった。


「な、なんだよ、きゅ、急に振り返んなよ!」

「あんたんちってこの近く?」 

「あ、ああ。でも一体なんだよ?」

「トイレに行きたい」

「は? トイレ? そんなのさっきの公園に戻ってしてこいよ」

「あそこトイレットペーパーもなくて、死にたくなるほど汚かった」

「贅沢言うな」

「この世にあれしかトイレがないんだったら我慢してする。だけど今は別の選択肢がある。他に贅沢は言わないけど、これだけは言いたい」

 秦太朗は立ち止まったまま一旦黙した。企みを気取られたかと思ったが、違ったようだ。自分のアパートはここから歩いて三分。近いと言えば近い。


「仕方ねぇなぁ、こっち」

 秦太朗はそう伝えて、今度は先を歩いた。企みは心の底で依然継続中だが、生理現象を我慢させてまで思い知らせるほど堕ちてもいない。生意気少女は黙って後ろをついてきた。でも侘びしい城まで案内すると、部屋を見渡して率直な感想を口にした。

「汚いし、何もない」

「うっせーよ、いいから早くションベンしてこいよ」

 玄関に散らばったスニーカーを蹴飛ばして、靴を脱ぐスペースを一応作ってやる。トイレの場所をおざなりに示せば、相手は舌を出して扉の向こうに消えた。

「まったく、クソガキが……」

 悪態をつきながら後を追うように部屋に入ると、台所に放置したままのコンビニ袋が目に入る。志摩の金で思わず買ってしまったそれらのものには、思い出したように溜息が出た。

 いらないものを買うなと言われたのに、たまに許されない欲求に勝てなくなる。

 あの時もそうだった。

 鼻先にちらつかせられた端金という釣り餌。その欲求に勝てなかったせいで、最終的には大事な相手をあんな目に遭わせることになった……。


「本当に何もない」

 届いた声に顔を上げると、トイレから戻った花が壁に寄りかかってこちらを見ている。

 薄暗い照明の下にあるその表情は、やや気落ちして見えないこともなかった。

 彼女が捜す相手志摩はどこに行ってしまったのか。これまでの経緯を思えば時が経てば経つほど、楽観的な考えは浮かばなかった。

「そういえば花、お前の片割れは今どうしてるんだ?」

 最初の夜、志摩といたのはもう一人の方だった。目覚めた時、自分を覗き込んでいた顔は、今ここにいる相手とほとんど変わらない。志摩が相棒と称したあの澤村某は行方を案じてはいないのだろうか。


「……ちょっと今はいない」

「いない? なら電話とかして訊いてみたか?」

「……彼は知らないと思う」

「じゃ、あいつも別口で捜してるってことか?」

「……そんなとこ……」

「ふーん、そっか……しかしまぁ、お前らホントによく似てるよなぁ。最初お前を見た時、分かんなかったもんな。一緒のベッドにいたから志摩さん、そっち系の人かと思ったよ」

 場を盛り上げようと軽口を叩いて、けけけと笑ってみせたが目の前の相手は全く笑っていなかった。呆れた表情だけを返して、「トイレ、ありがと」と呟いて背を向けた。


「おい、どこに行くんだ?」

「ハルを捜しに。こんな所で油売っててもしょうがない」

「こんな所で悪かったな。ちょっと待てよ、オレも行くから」

「別に来なくていいよ、邪魔だから」

「邪魔? 酷い言い方するよな」

「酷い? だってそのとおりじゃない」

 スニーカーを履いて立ち上がった相手は、無情に言い放った。

 先程の気落ちした表情を見て、懲らしめてやろうと思った気持ちは削がれていた。だがその思いは再燃していた。狭い玄関にいる相手まで大股で歩み寄って、威圧の意を込めて見下ろしていた。


「お前、自分のこと、分かってる?」

「それ、どういう意味?」

「いつも生意気な口利いてるけど、所詮女だよな。力じゃ敵わないだろ」

 言葉の途中で相手を引き倒す。

 虚を突かれた身体がその場に倒れ、床上で小さな声を上げる。そのまま肩を掴み取り、相手が抵抗する前に力任せに押さえつけた。


 秦太朗は思っていた。

 この少女はいつも舐めきった態度を取っているが、所詮は女でしかない。こうやって力の差を見せつければ、どうにもならないと知るはずだ。

 簡単に泣き顔を見せる相手でないのは分かっていたが、意外とこういった手段が有効かもしれない。もちろん本気で襲った訳ではなかった。あくまで〝振り〟だった。些か乱暴なやり方でも、生意気な相手に灸を据える程度に考えていた。


「お前、少し痩せすぎじゃねぇ? わ。ノーブラ?」

 両手首を片手で掴み取って相手の自由を奪う。

 服の下に侵入させたもう片方の手が、滑らかな肌に触れた。

 女にしては少し背が高いが、自分よりは小柄で華奢な身体が今は自分の下にある。

 相手は抗うが、到底敵わない力で押さえつける。

 絶対的な優位。それをうっすらと感じ取れば、自分が夢中になり始めていることに秦太朗は気づいていた。

 目の前にある薄桃色の唇に必要もないのに、触れてみたくなる。その欲望には忠実に従って、深く考えもせずに唇を塞いだ。

 強引に割り込ませた舌の感触に相手の舌が咄嗟に引く。でもそれは一瞬で、なぜか鉄錆びた味の漂うそれは向こうから絡みついてきた。ぼんやりと頭の端に服従の文字が過ぎり、自分の力が弛んだことにも秦太朗は気づかなかった。


「って、痛ってぇ!」

 次の瞬間、ごちっと響いたのは自分の頭蓋骨の音だった。

「クソっ! マジか? お前、普通頭突きなんかするかぁ?」

 痛みに呻く身体を突き飛ばして、下にいた相手がするりと抜け出していく。

 その手が素早く照明を消し、次に届くのは部屋を出て行く音だと思っていたが、聞こえたのはスニーカーを乱暴に脱ぎ捨てる音だった。

「お、おい……」

 相手は何も言わず、暗い部屋の奥へと進んでいく。

 万年床の上でパーカーを脱ぎ捨てた白い背中が見える。

 ジーンズと下着を一緒に脱ぎ去った相手はそのまま布団に俯せになった。


「やりたいんだったら、やればいい」

 届いたその声は投げやりなのか、悟りきった声なのか分からない。

 外からの僅かな灯りが漏れ入る部屋の奥には、艶めかしい裸身がある。

 拙い相手だとか、誰かの女とか、自分には大事な相手がいるとか、そういうものは全部頭から飛んでいた。

 動き出した足は部屋の奥へと確実に向いている。

 秦太朗は思う。

 たまに許されない欲求にどうにも勝てなくなる。

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