4.自分がいる場所
冷たい水では何度洗っても、何も落ちていかない気がする。
美並の繁華街を離れた後、立ち寄った公衆トイレは湿ってただ冷え冷えとして、鏡に映る顔は硬い表情を残していた。
あの後、男はあっさり気を失った。無論拘束も解かず放置して立ち去った。顔面を濡らした涙と鼻水とついでに失禁。通り魔に出会したような今夜の出来事は、あの男にとってしばらくの間忘れられないものになるはずだった。
『花、お前、ちゃんと電話に出ろよ』
何度も鳴り続けていた電話に根負けして出みると、第一声はそれだった。やはり出なければよかったと後悔したが、色々忙しかったのだと適当な返事をしようとした時、ようやく鏡に写った顔が唇に微かな笑みを作った。
『今お前、どこにいるんだよ?』
「別に……どこにもいない」
『まさか明神組には行ってないよな』
「……行ってないよ」
『ああ、それならよかった……オレが何か言ったせいでお前が無茶したってことになったら、志摩さんに顔向けできなくなるよ』
「そ。よかったね」
電話を通して安堵の気配が伝わったが、花は適当にあしらった。向こうの都合など自分には全く関係ない。
『ていうか、お前今本当にどこにいるんだ? さっきみたいにどこにもいないじゃなくて、ちゃんと答えろよ。オレは今、美並にいるんだ。近くか?』
「どうかな……」
『今度はどうかなだって? あー、なんかお前って、ホンっトにムカつくな。オレなんかとはこれっくらいの会話もする気がないってか?』
電話向こうの相手は明らかに苛立って腹を立てていた。そんなに嫌な気分を味わうなら、無視しておけばいいのにと花は思った。勝手に心配して勝手に腹を立てている。面倒な相手だとしか思わなかったが、無視し続けている方が余計な面倒に繋がっていることも分かっていた。
「多分……美並のどっかの公園。あんまりきれいじゃないトイレがある。水飲み場近くのベンチで赤色の毛糸帽を被ったホームレスの爺さんが寝てる」
花は周囲を見回して、見たものをそのまま伝えた。事実美並にはあまり詳しくなかった。実際ここがどこなのかよく分からなかった。
『赤色毛糸帽の爺さん? もしかしてそこ、広場の真ん中に変な銅像が建ってないか?』
もう一度見回してみると該当しそうなものが広場の中央にある。ボールのような物を持った裸の女性像が、妙なポーズを取っている。芸術的なのか淫猥なのか、確かに変なとしか形容できない代物だった。
「うん、ある」
『ならオレ、今からそこに行くからな。だから花、絶っ対そこから動くなよ!』
そう言い残して電話は切れた。けれど動くなと言われれば動きたくなるのものだった。でもこのまま一人で美並の街を彷徨い続けても、何も得られないのは分かってた。
花は傍の花壇の縁に腰を下ろして溜息をついた。
見上げた夜空はどんよりとしていた。強い風が吹き抜け、雨が近づいているのか気温も下がってきている。毛布代わりにした段ボールの下で老人が寒さに身を縮める。その姿に倣って、花もパーカーのフードを深く被り直した。
「……んでないんだよ……」
「……ったく、この……」
その声は冷たい風に混じって届いた。
続いて聞こえたのは、誰かの短い悲鳴だった。
******
公園の一角にある管理事務所前、この時間事務所は既に無人だった。
「あー、こいつ全然金持ってねぇわ」
「それマジか。峰が丘女子校って、親が金持ちばっかじゃなかったっけ?」
「そん中の大ハズレに当たったんだよこれ。ねー、どーするよ、
「んー、それじゃあこうしよっか。お前さ、今から美並の繁華街に行って立ちんぼでもしてこいよ。どスケベなオッさんならお前みたいなブスでも悦んで買ってくれっからさぁ」
「わー、それいいね! やっぱ奈緒ちん、天才だわ!」
「ほら、そうと決まったらいつまでも汚ねーケツ下ろしてねぇで、さっさと行けや。んで、あたし達の期待した額、とっとと献上しろよ」
ひと気のない公園にけらけらと小馬鹿にした笑いが響き渡った。自分を見下して嘲る二人の少女に何も言い返せず、雨宮夕夏はその場で俯くだけだった。
流行りの服を身につけた彼女達は華やかに見えたが、それとは真逆の身の毛もよだつ怖ろしいことを口にして愉しげに笑っている。彼女達の言うとおりになどできる訳がなかった。でも足が竦んで逃げることもできなかった。
こんなことなら早く家に帰ればよかったと後悔する。家に戻りたくなくて、ふらふらと慣れない繁華街にいたらこの二人に絡まれた。頬を叩かれて、この公園に連れ込まれて身分証を取り上げられた。
金を寄越せと言われたけれど、渡すお金を持っていなかったからこんな状況になっている。
あの時から何もいいことがなかった。あんなに好きだった彼にあんな酷いことを言ってしまってから、前よりもっと悪いことしか起きなくなった。
「ほら座ってないで、早く行けよ、ブス」
「早く行って稼いできなよ、ブス」
なじられ、また叩かれた。
よろけたら、今度は蹴られた。
見知らぬ相手に謂われのない暴力を受けて、どうしてこんな目に遭っているのだろうと思う。
涙が零れそうだったが、何をどうしてもこの状況は変わらない。
このまま死ねたら少しは楽だろうかと過ぎるが、その先にあるかもしれないものも今と変わらない気がしていた。
「あのさ、ブスブスって、あんたらの方がよっぽどブスだよ」
突然その声が響いた。
悲観に暮れるだけの頭上をそれは乱暴に通り過ぎていった。
風を切った脚が髪を掠め、思わず閉じてしまった目を開けば、彼女達の一人が叫ぶ間もなくコンクリートの上に蹴り倒されていた。
「てめぇ、何するんだよ!」
もう一人が声を上げるが叫ぶと同時に顔面を殴られて、地面で呻いた。
現れた声の主は倒れた彼女達に追い打ちをかけるべく、更に暴力を与え続けている。じきに抵抗も途絶え、動かなくなった様子を見取ると傍に屈み込んで身体を探り始めた。
「あなた……どうしてここに」
夕夏は信じられない思いで呟いた。
目の前に忽然と現れたのは澤村花だった。
彼女と再び会うとは思っていなかった。
向けた問いには何も戻らなかったがしばらくすると彼女は立ち上がり、こちらに向けて何かを放った。
「ほら、あんたの身分証。それとこいつらの財布」
膝の上には自分の身分証と高級ブランドの財布が二つ、狙いきっちりに乗る。彼女はそのまま歩み寄ると今度は戸惑う相手の前で、二つのスマートフォンを翳した。
「これとその財布を持って、あいつらが起きる前に逃げなよ」
「……え?」
「多分こいつら、目を覚ましたらあんたからこの二つを取り戻そうと必死になるよ。だからそうなる前に財布の中身は使ってしまえばいいし、中を抜き取った財布とスマホは川にでも投げ捨てればいい。こいつら馬鹿だからあんたを捜し出せないと思うけど、もし捜し出せたとしても、大事なものはもうあんたの手元ない。あんたは大事なものを失くして困ってる奴らの顔を見て、鼻で嗤ってやんなよ。ちょっとセコいけど、あんたにもできる簡単な復讐だよ」
「そ、そんなの無理……できる訳ない……」
「じゃこうする? あいつらが気を失ってる間に縛って海に沈める。もちろん身元が分かる所持品の始末と身体につける重しは忘れずに。余程運がなけりゃ、二人は死ぬ。死体が浮かび上がらなければ、人殺しがあったなんて誰も知ることはない。死体がなければ、あんたがそうしたって誰にも知られない。二人を運ぶのは大変と思うけど、できないことじゃない」
「……な、何それ……あなた一体何を言ってるの? そ、そんなこと私にできる訳がないじゃない!」
次々と並べられる信じられない言葉に夕夏は声を震わせた。
していいことと悪いことの判断はまだつく。悪どいことや人を殺してまで、自分がされたことに報いようとは思っていなかった。何よりそんなことなど端から考える訳がない。こんなまともじゃない相手と一緒にされたくなかった。
「じゃあ、どうしたい?」
だが相手はこちらの心内など、まるで分からないような顔をして訊ねてくる。
「どうしたいかなんて……」
けれど夕夏も答えられず呟いた。
それは自分が一番知りたかった。
でもどうしたいかなんて分かりたいけど、分からない。
あの晩、こちらの声が届いていないかのように立ち去った彼の後ろ姿。
熱に浮かされたように口走った言葉を思い返せば、足元がぐらつくほどの後悔を覚えた。
だけどあの時はああ言うしかなかった。最後の望みをかけた相手の瞳には、自分以外の人しか映っていなかった。酷い嘘を言って自分に目を向かせようとしたけど、それは全く無駄なことだった。
自分の足元は今にも、崩れ落ちそうだ。
その上彼が誰よりも思いを寄せるその人は、今目の前で常軌を逸したことばかりを口にしている……。
「あんたなんかに……あんたなんかに、私の傷ついた気持ちが分かる訳がない!」
「へぇー、そう。じゃあ、それってどれほどのもの? 私にも分かるように聞かせてよ」
「な、何よ、その言い方! 馬鹿にして!」
「馬鹿にされてると思ってる? 自分でもそう思ってるくらいなら元から大したことないんじゃない?」
「な……」
身も蓋もない言葉に夕夏は絶句した。そして同時に凍えるような絶望に陥っていた。
彼女のような人間には、こちらの気持ちなど全く理解できない。
いつも自分が一番で、下辺にいる人間がどんな思いでいるかなど考えたこともない。
「……大したこと、ないって……」
相手が発した言葉を自分の中で繰り返せば、別の感情が疼き始めていた。
思わず握った拳は、感情の昂ぶりに震え続けている。
再び足元がぐらついたが、その意味合いは先程とは違っていた。
凍える思いは立ち消え、目の前が眩むほど赤くなる。
血が逆流するほどの怒り。
負に振り切ったその感情が、こういうものだと初めて知った。
「うわーっ!」
込み上げる怒りを原動力にして、夕夏は相手に飛びかかっていた。
敵わないと分かっていたが、どうでもよかった。
そんなことなど構わない。
ただ目の前にいるこの憎たらしい相手を叩きのめしたかった。
「おっと、危ない」
だが相手はひらりと身を躱して、余裕の笑みを見せる。
「ば、馬鹿にして!」
怒りを顕わに再度立ち向かうが、何度行っても結果は同じだった。
しかしなぜそうなるかは夕夏自身にも分かっていた。
彼女は直線的に向かってくる相手を、毎度闘牛士のように躱せばいいだけだ。
けれど分かっていてもどうしてもやめられなかった。
そしてやめたくもなかった。
何度も転び、膝を擦り剥いても、ぶちのめしたい相手に挑むことをやめられなかった。
「あんたなんか……あんたなんか!」
服は泥だらけで手足は傷だらけで、顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
「全然まともじゃないくせに、だけど私と違って何でも持ってるくせに!」
何度挑んでも、彼女には掠りもしない。
みっともない姿に気づいても、やめられなかった。
思いつきの言葉を喚きながら手を振り回す。
幾度も振り翳した手が、やっと相手の頬を掠めた。
信じられない達成感に思わず笑みが零れるが気が弛んだその隙を狙って、掴まれた手を強く引き寄せられていた。
「きゃっ」
「あー、疲れた」
バランスを崩すとそのまま足を払われた。咄嗟に手はついたものの努力も虚しく、身体は無様に倒されていた。
「何するのよ! この変態!」
「失礼な。私は変態じゃないよ」
腹這いの背に乗った相手が涼しい顔で答える。
じたばたと暴れてみたが、華奢なはずの相手はびくともしない。
無駄な抵抗を続けたが次第に冷静さが戻ってくる。
すると自分は一体何をしているのかと、そんな思いが先立った。
結局一人で騒いでいた事実に気づかされる。
彼女は目の前の相手の滑稽な足掻きなど、何とも思っていない。今だって掴みかかる姿を、半笑いで見下ろしていたに違いない。
悔しさと自戒で黙り込めば、沈黙が染み渡った。
新緑を芽吹かせる木々が闇でざわざわと揺れている。
騒ぐ者のいなくなったこの場所はあまりにも静かで、ベンチで眠る老人の鼾さえ耳元に届いてきそうだった。
「いいんじゃない?」
「……いいんじゃないって、何が?」
「さっきのあんたの顔、悪くなかったよ。今までで一番不細工で。これからもそんな感じで挑めば、どんな相手もきっと逃げてくよ」
微かに笑う彼女の振動が、背中越しに伝わってくる。
確かに必死に掴みかかる自分の顔はとても醜かったはずだ。自分でその顔を思い浮かべて、笑みを零す。
本当に一番不細工。くすくすと笑っていると、あの底意地の悪い二人の姿が消えているのに気づいた。とっくにいなくなっていた彼女達は奪われた財布もスマホも持ち去っているようだった。
馬鹿みたいだ……。
全てが馬鹿馬鹿しくなって、夕夏は地面に伏せたまま呟いた。
でも別の思いも過ぎっていた。
汚れた顔で覗き込んだ居場所は、ただ自分がいる場所だった。
悪夢でもなければもちろん天国でもなく、だけど地獄でもない。
ここには同じように馬鹿なことを考えて、馬鹿なことをしている人間しかいない。
自分のいる場所を初めて目にした気がした。
ここにいるのは自分で、そこに立つ自分は決して傍観者じゃない。
自分を動かすのは自分で、他の誰かではなかった。
今いる場所から動き出すかどうかは、自らで判断しなければならない。
顔を上げれば、目の前には暗闇がある。そこを手探りでも歩き続ければ、もっと違った何かが見られるかもしれない。けれどそれはただの思い込みで、もしかしたら何も起こらないかもしれない。
だけどそれでいいような気がしていた。
きっと全ては何てことはない。
そう思うと次第に笑いが込み上げてきた。
「……お前ら、一体何やってんだ……?」
「あんたがなかなか来ないから、ちょっと遊んでた」
「はぁ? 遊んでたじゃないだろ? その子泣いてるじゃねーか? おい、あんた大丈夫か?」
背中の重しは笑いながら離れていった。
顔を上げると金髪の青年が唖然とした表情で立っている。
彼をどこかで見た気がするが、思い出せない。心配そうに覗き込むその視線を遮って、ゆっくりと立ち上がった。
「何でもないよ、大丈夫。ちょっと遊んでただけだから」
「へ? はぁ……」
戸惑う相手の表情が可笑しくて、また笑いが込み上げた。
得たかもしれない今までと違う何か。
もしそれが昂ぶった感情が思い込ませたものだとしても、彼女はそれでいい気がしていた。
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