3.路地裏の出来事

 日曜夕刻の美並は人の波も僅かで、すれ違う人を避ける必要もなかった。

 無謀なことを考えて暴走しているのは分かっていた。通りを一人歩きながら、花は一応の冷静さは取り戻していた。

 秦太朗が言っていた明神組のフジタという男。その男がハルの行方を知っている可能性がある。もし行方を知らなくても、それに関連する別のことを知っているかもしれなかった。

《お前馬鹿なのか》

 だがその呆れた声が頭で響く。言われなくてもそんなことは分かっていた。馬鹿に馬鹿と言われたくはなかった。このまま明神組に乗り込んでも、何も得られないことは分かっていた。


「……ねぇ、ちょっと……そこのあんた」

 その微かな声が雑踏に紛れて届いた。周囲を見回すと、近くの風俗店の看板に寄りかかるようにして男が立っている。

 胸元を開けた柄物のシャツに白い革パン、左耳には金色の輪っかピアスが安っぽく光っている。若いのか年寄りなのか判断つきかねる男だった。

「あんた、こないだの夜にシンを捜してた子だろ? キレイな顔してたから覚えてるよ。オレ、気になってたからあれからあちこち訊ねてみて、ようやくシンの情報を掴んだんだよ」

 こちらに微笑みかけながら話しかける男は、自分を颯だと思っているようだった。花は無言で相手を見返すが、シンのことはもう知っていた。シンはいくら無視しても、今もしつこく電話をかけ続けていた。


「シンは見つかったからもういいよ」

「そうかい? でもまた何かを捜してるようだったから声をかけたんだぜ。情報通のまささんって言ったら、ここいらでは有名なんだからよ」

 花は再度相手を見据えるが、そこにいるのはどこにでもいるタチの悪い酔っぱらいで、それ以外のものには見えなかった。

「本当だぜ? シンのことだけじゃなくて、オレならあんたが知りたいことを何でも教えてやれるよ。だけど雅さんはちょーっと口が硬いんだな」

 相手は得意げに語ると、不意に強い力で腕を掴んできた。

「でもあんたがこの裏でオレにちょこーっとイイコトをしてくれたら、ぺろーっと喋っちゃうかもしんないなぁ」

 相手の濁った目は背後に続く暗い路地を指している。

 花は掴まれた腕を見下ろすと、男の顔を再び見据えた。

「分かった。いいよ」

「おお、そうかい?」

「あんたにイイコトしたら、何でも教えてくれるんだろ?」

「ああ、話がよく分かってるじゃねぇか。いい選択だぜ」

 同意に気をよくした男が、路地を先導し始めていた。

 細い裏道には、飲食店の換気口から這い出た湯気が漂っている。湿った地面には放置された生ゴミ、不規則に束ねられた段ボールや雑誌が点在していた。


「情報は本当に教えてくれるんだよね?」

 花は男の後を追いながら問いかけた。

 しかし男は振り返っても笑うだけで、質問に答えない。スニーカーの爪先に触れた薄汚れたビニール紐を、花は軽く蹴飛ばした。

「ねぇ聞こえてる? もし、あとになって知らないって言ったらあんたのこと殺すよ」

「おいおい、可愛い顔して物騒なことを言うねぇ。だけどオレだって情報だけ取られて逃げられるのは嫌だぜ」

 男は路地の奥で足を止めると振り返った。こちらに歩み寄ると、ポケットに突っ込んだままの花の腕をもう一度掴み取った。

「まぁ、とりあえず先に少し前払いしてもらおうか」

 男は身体を押しつけながら顔を近づけてくる。下卑た笑みが貼りついたその顔を花は笑んで躱し、相手の肩に腕を回して耳朶に唇をつけた。


「ねぇ、あんたのここ……」

「へへへ……なんだ、えらく積極的だな……」

「趣味の悪いピアスがぶらさがってるよ」

「なんだって? 何が……うぎゃぁっ!!」

 男が発した悲鳴が路地に響いた。

 花は痛みによろめく相手を突き飛ばし、首元に高い蹴りを入れた。

「うがっ」

 男は呻きを上げながら地面に倒れるが再度起き上がる隙は与えず、腹部を蹴り飛ばす。相手は反撃を試みるが、運動不足の身体は思うようには動かず、事態を把握する頃には両手首を後ろ手に縛り上げられた無様な姿で地面に転がされていた。


「お、お前、何しやがる! こ、これを早く外せ! 一体何の真似だ!」

「何の真似って、親切心で取ってあげたんだよ」

 花はその恫喝に対して、あかんべーをするように舌を出した。

 地面に転がる男が目にしたのは、舌上に載せられた己の耳から喰い千切られたピアスだった。

「ち……くそ……て、てめぇ……」

 思わず耳に触ろうとして、拘束されていることを改めて思い知らされる。

 男は悪態をつきながら怒りに任せて身を捩るが拘束は弛む気配もなく、薄汚れたビニール紐が手首に食い込んでいくだけだった。


「ねぇ」

 芋虫のように呻く相手の足元に立って、花は見下ろした。 

「何でも知ってるんでしょ? 聞いてあげるから言ってみなよ」

 相手の身体を足で転がし、仰向けになった顔に怒りの表情があるのを見る。でも同時に怯えも垣間見えたその表情に花は笑いかけた。

「し、知るか! これを解け!」

「知るかだって? あのさ、さっき知らないって言ったら殺すって言ったよね」

「な、何言ってんだ? お前……」

 男の両脚を跨いで花は腰を下ろした。

 下敷きになった腕の痛みに相手は呻き、表情には慄きが増す。

 地面の上で藻掻く相手から目を離さず、花はパーカーのポケットを探った。


「両手の自由を奪われると、結構焦るよね?」

 言いながら取り出してみせたのは、銀色の折りたたみナイフだった。

 精緻な彫刻が施された柄の先には、髑髏を模した飾りが革紐で吊されている。

 それは小さく繊細な得物だったが、目の前にいる相手には充分だった。

「颯は使わないけど、私は非力だからこれが必要」

「や、やめろ! 何をする気だ! やめてくれ!」

「私、人を捜してるの。彼がどこにいるか教えてくれる?」

 二つだけ留められていたシャツのボタンを花はナイフで弾いた。

 そこに現れただらしなく脂肪のついた肌に刀身をつける。

 男は叫び続けるが、構わずゆっくり刃を引く。それに続くように胸には赤い線が描かれた。


「わ、悪かった! オレはお前を騙したんだ! 情報なんて何も知らないし、最初っから身体だけが目当てだったんだ。だから騙したのは謝る! 頼む、殺さないでくれ!」

 男は必死に懇願するが、ナイフを持つ手にはより力が込められる。

 皮膚にめり込むその冷たさに男は尚一層の悲鳴を上げた。

「や、やめろ! 聞いてるのか? オレは何も知らないんだ!」

「そんなこと今言われなくても、最初っから知ってたよ。あんたが颯にナニかしようと期待で胸と股間を膨らませてたように、私はあんたを殺せるのが楽しくて、それで頭がいっぱいだったよ」


 男が見上げると、相手は冷ややかに笑っていた。

 目の前にいるのは青白い美貌の持ち主。

 いつかの夜に出会った少年はこんな瞳をしていただろうか?

 自分に邪な感情を抱かせた少年は、こんな……。

「く、狂ってる……」

「あんたがそう思ってても構わない。だけど私はずっと正気だよ。自分が何をしているか確実に分かってる」

 男の呟きに目前の相手は薄く笑む。

 喉元まで辿りついた刃が、望まぬとも乾いた皮膚の上を滑っていく。

「そうだ。これ、いらないから返す」

 言い放った相手の唇が不意に重なった。

 温かでぬめった舌が口内に侵入し、それはあんなにも欲していたものだったが今はもう畏れしかない。鉄錆びた味と共に口の中に押し込まれたのは、先程まで自分の耳についていた安物のピアスだった。


「心配しないで」

 薄桃色の唇が囁くように言葉を放る。

「私、すごく上手だから。一番痛く切るやり方」

 皮膚に感じるそれが流れる血なのか痛みなのか、もう分からない。

 男はこれまで感じたことのなかった冷然とした畏怖の中で、もう一度思う。

 狂ってる。このはクルッテル……。

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