2.灰色の名刺と相良オフィス

 携帯電話の電源は切られていて、何度かけても結果は変わらなかった。

 ようやくベッドから這い出た花はリビングに残された志摩の上着を取ると、ポケットを探った。手に触れたのは幾らかの小銭と、角の折れ曲がった紙切れ。その灰色の紙切れには飲み屋らしき店名と《シン》という名が印刷されている。その下にはボールペンで乱雑に記された携帯電話の番号が並んでいた。


『……誰?』

「澤村花……」

『ああ、お前か……』

 その番号に電話してみると《シン》こと本庄秦太朗はすぐに出た。だが知らない番号からの電話に警戒しているのが窺え、名乗るとそれは解けたが今度は不機嫌さを隠さない声が届いた。


『なんだよ、トラブルメーカーのオレに何か用か?』

「今日、ハルといつ別れた?」

『あ? ハル? それ志摩さんのことか?』

「そう」

『いつ別れたって……志摩さんとはだいぶ前、昼前には別れたよ。本並の駅近くで降ろしてもらって、多分十一時頃だったな。それからは会ってないけど何かあったのか?』

「別に。教えてくれて、ありがと」


 花は必要な情報だけを得ると通話を終えた。そして次は記憶する番号を手早く押した。

『はい。相楽さがらオフィスです』

 耳元にはすぐに無機質な声が届いた。

 相楽オフィスとはボスがダミーとして使っている会社の名だった。機能性とデザインを重視したと謳う輸入文具を扱う会社として存在しているが、実像はない。もしかしたら形だけでも幾らかの文具を取り扱っているかもしれなかったが、その真相は花にとって霞の向こうにあるどうでもいい真実だった。


「澤村だけど、ハル……志摩はいる?」

『志摩さんでしたら、昼前においでになりましたが、もう随分前に帰られました。正午頃だったでしょうか』

 電話向こうからは美島の淀みない返答が戻った。その声はいつもと変わらないようにも思えたが、その型通りの言葉がまるで録音されたもののようにも聞こえてくる。

「……それ、本当に?」

『もちろん本当です。こんな嘘を言って一体私に何の得があるのでしょうか』

 向けた疑念には美島の冷静な声が戻った。確かにそのとおりでしかないのだが、全てが疑わしきものとして映るのは現状冷静さに欠けているからかもしれなかった。


『澤村さん、まだ疑念がおありなのでしたら一度こちらに足を運んではいかがでしょうか。真実と私はいつでもお待ちしていますよ。それでは失礼します』

 美島の電話はその言葉を残して切れた。

 珍しく挑発的な言葉を残したのは彼女の単なる言葉遊びか、こちらの態度に腹に据えかねた状態だからか、もしくは言葉どおりに取って聞き流せばいいのか。

 手にした電話をソファに放ると、花は自分もその場に倒れ込んだ。

 もっと冷静にならなくてはならなかった。動揺と不安で乱れた感情が思考の行き先を悪戯に阻害している。速やかに軌道修正して、今起きていることを正しく見定めなくてはならなかった。


 秦太朗と美島。二人の話を信じるとすれば、今日ハルは秦太朗と昼前に別れ、ボスの元に向かい、正午頃には既にボスの部屋も後にしていた。一つの結論としてその時ボスから用事を預かり、今もその件に関わっているとも考えられる。

 もしかしたら心配することなど、何も起きていないのかもしれない。自分は今少し不安定になっている。そのことが何でもない事実を膨張させて、無駄に不安を煽り続けているのかもしれなかった。

「……そうかもしれないけど、もしそうじゃなかったら……」

 呟くと同時に傍の携帯電話が鳴り出していた。弾かれたように身を起こし、画面も見ずに電話に飛びついていた。


「ハル!」

『オレ、秦太朗だけど……』

 だが届いたのは待ち望んだ相手の声でもなければ、不安を解消してくれる相手の声でもなかった。

「なんだ、あんたか」

『あのなぁ、その態度、すんごく失礼だって分かってるか?』

「今、忙しいんだけど何か用?」

『うわ。反省もなしかよ。ホントにひでぇなその態度……ま、でももうどうでもいいや。お前という人間がよーく分かってきたよ。で、色々諦めたところで本題に入るけど、お前さっき志摩さんのこと捜してたみたいだったけど、どうだ? 連絡ついたか見つかったかしたか?』

「……まだ」

『そっか、まだか……うーん、そっか……』

 こちらの返事を受け取ると相手は言葉を濁らせる。何か言いたいことがあるようだが、出し惜しみするようなその含みある態度には苛つきしかなかった。


「ねぇ、もしかして何か知ってるの?」

『……えーと、あのさ、志摩さん、今日お前には詳しく話さなかったけどあの人、この前の夜、明神組の富士田って奴から話を訊き出した時に随分えげつない方法を使ったんだよな。オレは昔から富士田をよく知ってるから、あんなことをしてこのままじゃ済まされないのもよく分かってる……昨日怪我したのも最終的には潮里の件も関係してると思うけど、もしかしてその時の富士田の件も関係あるのかも。だからもしいなくなったって言うんなら……』

「そっか、分かった」

『は? 分かったって、一体何が分かったって言うんだよ』

「今からそのフジタって奴に会いに行って、彼のことを訊いてみる」

『はぁ? 何言ってんだ?』

「だって他に別の方法ある?」

『お前正気か? いーや、正気かどうかじゃないな。お前、馬鹿なのか?』

「馬鹿?」

『ああ、馬鹿だって言ったんだよ。もっと賢い奴かと思ってたぜ。お前なんかがのこのこ会いに行って、はいそうですかって答える奴な訳ねーだろうが! 大体お前そいつらのこと知らねーだろ? おい、花、聞いてんのか?』

「もういい、情報ありがと……」

『おい! 待てって、花!』


 電話向こうの声は続いていたが、花は一方的に通話を終えると部屋を飛び出していた。

 冷静にならなければならない。もちろん自分は冷静だ。

 夕暮れの道を駆けながら花はそう思った。

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