8.秦太朗と花
1.昏い衝動
目を開けると、顔を覗き込んでいたのは見知らぬ男だった。
『誰?』
思わずそう訊ねる。
『お前、誰だ?』
でも相手から戻ったのは同様の質問で、迷わず眉を顰める。
それに今いるのは相手の腕の中らしく、自分になる以前の状況が掴めない。
『……颯じゃない』
男がぼそりと言う。彼は颯を知っている。
見知らぬ誰かでないことだけは理解する。
『俺は志摩だ』
『え?』
『俺の名だ』
長い髪を後ろで括った男は再度ぼそりと言った。
『お前は誰だ』
そして今度はお前の番だとでも言いたげに、質問を繰り返す。
それに答える前にもう一度相手の顔を覗き込もうと臨む。目に映ったその相貌は次の瞬間には忘れてしまいそうなものだった。
けれど心が抉り取られる。
そこに見えたのは深くて昏い〝あれ〟。
それは恐らく、自分が知っているものと同じものだった。
『……私は花』
十数年前に自分でつけた名を名乗ると、男は何も映さない瞳でこちらを見ていた。
『私達は身体を共有した双子なんだよ』
続けた言葉には頷きもせず、
『分かった』
とだけ言った。
目を開けると、そこには誰の姿もなかった。
陽は落ち、薄暗くなった部屋には自分の姿しかない。
身体は未だ過去の記憶を彷徨っている。でもここに誰もいないと悟れば、次第に心ごと冷めていくだけだった。
ベッドに寝転んだまま深く息を吸い込めば、嗅ぎ慣れた匂いが肺に溢れる。しかしシーツを指先で辿れば、こびりついた血に行きつく。乾き切ったそれには淀みない不安が膨れ上がり、誰もいない部屋には不穏だけが積み重なっていった。
『心配するな。すぐ戻る』
そう告げた黒い影の男はまだ戻っていない。共有する過去はなくとも、共有する感情があると信じる相手の姿は今も傍にない。
肩には昨晩の気配が残っている。でもこれが今後の保証や約束になり変わる訳でもない。分かっていても時にそれに縋りついてしまう自分には、自虐の視線を向けるしかなかった。
「颯……」
取り残されたような寂しさを感じて、自分の中にいるもう一人の自分に呼びかけてみるが、どうしてか昨晩からその気配を感じ取ることができなかった。
会えなくともその存在はいつも近くにある。だが今は微かな気配すら感じられなかった。初めて味わう心細さのような頼りなさに、身はじわじわと削られていく。自分の存在はいつ消えても受け入れるしかないと感じていても、彼らが消えてしまうことは欠片も考えられなかった。
「だめだ……このままじゃ……」
自分の手の届かない危機に彼らが晒されているなど、考えたくなかった。不吉な予感を否定したくとも、自らを安堵させてくれる要素は何一つない。
毛布に潜り込んで掠れ声で呟いても、何も変わることはなかった。身体は震え出し、止まらない震えは指先まで達しても収まる様相はない。視界は霞み、歯はがちがちと鳴り続けている。
「このままじゃ、なんだか……」
呟きは立ち消えになりながらも何度も漏れる。怯えと不安で冷えきった身体は温まる気配も見せず、抑え切れない衝動が胸の奥で蜷局を巻く。
「……このままじゃ、目に映る全てのものを壊してしまいそうだ……」
最後の呟きは身の奥から落ちるように零れ出た。
見開かれた瞳は常に自らに寄り添う昏い何かを映していた。
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