3.よくない出来事の始まり

 リビングに戻った志摩は、その場に漂う妙な緊張感に気づいた。

 けれどその理由を訊ねる気はなかった。恐らく花と秦太朗、両者の間で碌でもない出来事が起きたのであろうことは容易に想像できた。

 妙に気落ちした秦太朗を一瞥し、志摩は彼が持参した朝食にありつこうとしたが、残念ながら手をつけられそうな食べ物はほぼなくなっていた。仕方なく微妙な距離を取る二人の間に座り、唯一残っていたホットコーヒーに手を伸ばした。


「ねぇ、それ、誰にやられたの?」

 顔を上げると、花の視線は脇腹に向けられている。目敏い彼女が気づかないとは思っていなかったが、元より多くを語るつもりもなかった。数日後には忘れてしまう、単なる掠り傷だった。

「心配するな、どこかの馬鹿のせいで掠っただけだ」

「その馬鹿って、こいつのこと?」

「オ、オレじゃないよ!」

「……そいつじゃない、花」

「本当に? だってこいつ見るからにトラブルメーカーって顔してるよ」

「はぁ? 一体何だよそれ。何で初対面のお前にそこまで言われなきゃならないわけ? 大体トラブルメーカーなのはお前の方じゃねーのか?」


 秦太朗は相手の言い草に憮然としている。花は敵意剥き出しの相手をまだ疑り深く見ている。

 互いに馬が合わないのは自覚しているらしいが、志摩はこの小競り合いの只中に身を投じる気はなかった。両者をちらりと見遣り、話題を変えることにした。


「それより花、お前の方はどうだったんだ?」

「ああ、残念だけどあれはハズレだった。特に語ることもない」

「……そうか」

 雨宮夕夏からもたらされたものは、残念ながらなかったようだ。多大な期待はしていなかったが、少しでも手掛かりが得られればと思っていたのは間違いない。しかし無いものは無いで、しょうがなかった。


「それはそうとしてハル、こいつ一体何者?」

 話が途切れると、再び花の視線は秦太朗に向いている。彼女としては初対面でしかない相手の存在自体が訝しいものなのは確かだった。

「志摩さん、それならオレにも訊きたいことがある。今こいつと話してた件って一体何なんですか? ハズレだったとしても、オレにも詳しく聞かせてくださいよ」

「それが何だろうと、あなたには関係のないことだよ」

「あのな、関係なくなんてねぇんだよ。もし潮里の件ならオレにだって関係あるんだよ!」

「さっきから何言ってんの? ていうか、それ以前にあんた本当に何?」

「秦太朗だって言ってるだろ。やっぱアホなのはお前の方じゃねーか」

「あんたにだけは言われたくないよ」

「……花、秦太朗は〝潮里の彼氏〟ってヤツだ……」

「彼氏? もしかしてあの謎の交際相手ってこと? 本当に実在してたんだ……」


 志摩はこれ以上険悪になる前に、二人の間に割り入った。花はまだ何か言いたげだったが一旦黙った。その後、志摩はこれまでの経緯を語って聞かせた。潮里の捜索自体は知っているが、後の経緯に関して花はほぼ知らない。説明は必要だった。

 雨宮夕夏からの情報、そこから辿り着いた秦太朗の存在、その経緯で遭遇した路地裏の男達、そして昨晩の出来事……。

 語り終えた志摩は考え込む様子の花を見遣ると、昨晩の男達を思い出す。あの件は前日の富士田の件と恐らく繋がる。名乗りはしなかったが、染みついた気配は漏れ出すものだった。昨日の男達も明神組関係者か、それ相応の筋と思って間違いなかった。


「ふーん、それならやっぱり悪いのはこいつじゃない?」

 しかし花からはその言葉が戻る。結局またそこに辿り着くとは薄々勘づいていたが、この堂々巡りを延々続けるつもりはなかった。

「いいから花、とにかくお前は部屋に戻って服を着てこい」

 いつまでも薄着でいることを理由に志摩は花を追いやることにした。渋々腰を上げて場を去る背を確認して向き直ると、秦太朗ががっくりと肩を落としていた。


「やっぱ、悪いのはオレですよねぇ……」

 そのように呟くが志摩自身、返す言葉はなかった。向こうもじきに自らの言葉が無意味と悟ったのか、とっくに冷めてしまった食べかけのチキンをもそもそと口に運んだ。

「けど、志摩さんも大変スね……」

「そうか?」

「そうっスよ……」

 秦太朗は再び疲れたように肩を落として黙り込む。無言になった空間にはテレビの音だけが流れていた。そこに割り込むように携帯電話の呼び出し音が鳴り響いていた。


『志摩、私だ』

 電話の相手は塚地だった。仕事上直接接点のない彼が連絡してくること自体珍しい。しかも冷静な彼が、やや焦燥した様子で早急に用件を伝えてきた。

『急で悪いが志摩、今からボスの所に来てくれるか?』

「ええ、構いませんが」

『少々重要な話だ。できればお前一人で来てもらいたいのだが』

「分かりました。すぐ向かいます」

 塚地の声からは緊張が伝わっていた。何か進展があったのか、拙いことが起きたのか、様子から察すれば後者の可能性が大きい。

「秦太朗、俺は今から出かけなきゃならなくなった。お前はどうする? 帰るのなら途中まで乗せていくが」

「か、帰ります! 一緒に乗せてってください!」

 即答した秦太朗は、散らかったテーブルの上をそそくさと片づけ始めた。志摩は身支度を整えようと部屋に向かおうとしたが、そこへ花が戻ってきた。


「花、俺はボスの所に行ってくる」

「え? 随分急だね。えっと、私は?」

「お前は家で待っててくれ。一人で来てほしいそうだ」

「分かった。そう言われたんなら仕方ないけど、だけどハル」

「なんだ?」

「本当に一人で大丈夫?」

 相手の視線は脇腹にある。しかしいらぬ心配だと志摩は思う。昨夜の件に関しては反省すべき点が多々あるが、同様の失態を繰り返すほど愚かでもない。

「心配するな。すぐ戻る」

 見遣った表情に昨晩の頼りなげな様相が過ぎる。それが僅かでも消えればいいと思った訳でもなかったが、志摩は笑ってそう答えた。




***




 途中で秦太朗を降ろし、志摩はボスの部屋へ向かう。

 いつもどおりのビル、四十九階。

 開けた扉の先には、いつもどおりに美島がいた。


「ボスがお待ちです」

 彼女がそう言って奥のドアを示す。

 扉を開けて、いつもボスが座っている場所を見る。

 そこにボスの姿はなかった。

 下界を見渡せる窓の傍にいたのは、塚地一人。


 こちらを見た彼に、「ボスは?」と訊ねようとしたと志摩は記憶している。

 突然背後から受けた痛み。

 床に倒れた自分を見下ろしていたのは、美島。

 彼女はいつもどおり無表情だった。

 そして、訪れた暗転――。

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