3.血の記憶

 それは嫌な記憶だったが、忘れることなどできないものだった。

 閉め切られた小部屋には一日中光が射すことはなく、漂う臭気が淀み続けている。

 床上には黒く変色した血痕。

 それらを覆い尽くすように転がっているのはおびただしい数の小さな死体――。





「ああ、よかった。志摩さん」

 目覚めた志摩の視界に入ったのは、見慣れ始めた金髪頭だった。こちらを見下ろす相手は深く息をついた後に困り顔で続けた。

「あの後どうにかオレんちまで来たんですけど、志摩さん、玄関で倒れたんスよ」

 大通りでの発砲。避けきれず擦った。人目を避け、秦太朗の部屋まで辿り着いたことは覚えているが、そこで記憶は途切れている。


「志摩さん、早速で悪いんですけどこれ、切ってもらえます?」

 両手を差し出した秦太朗が床上の鋏を目で指す。拘束されたままの手は血で汚れているが、それが自分の血だと気づく。身を起こして要望に応えると、相手はようやく自由になった手首をさすりながら洗面所に立った。

「オレこれからちょっとコンビニに行って、包帯とか買ってきます。自分用に買ってあったんですけど、途中でなくなっちゃって」

 その言葉を聞きながらシャツを捲ってみると、不細工な感じではあるが彼なりの手厚い手当てがしてある。

 一応変装のつもりなのか黒いニット帽を被って部屋を出ようとした相手に、志摩は上着から取り出した財布を放った。


「え? なんスか、これ?」

「懐が寂しいんだろ」

「えっ、いいんスか? わ。いっぱい入ってる」

「だからって余計な物は買うなよ」

「もー、そんなの言われなくても分かってますって。じゃ、ぱーっと行ってがーっと帰ってきますんで待っててください!」


 騒々しい相手が部屋を出ていった後、志摩は改めて傷を確かめてみた。

 ガーゼを剥がした下には裂けた傷が見えるが、それほど深くはない。見下ろしたシャツは血だらけで、同じく血で汚れたタオルが布団の横に重ねてある。思うより出血が多かったのかもしれなかった。

 腕時計に目を落とせば、十一時四十分。気を失っていたのはほんの僅かか。しかしまだ信用に達しない相手の前で、無防備になった自分はあまりにも不甲斐ない。己に対する自戒が必要だと思った。


『お掛けになった電話は只今電波の届かない所にあるか電源が入っていません』

 その上、花に連絡を取ろうと電話を手にしたが、届いたのは無機質なアナウンスだった。車を停めた場所は発砲現場近く。花に取ってきてもらおうと思ったが連絡がつかない。

 連続する不測の事態に対処すべく、これからどうするべきか考えようとしたが集中力が散漫で何も纏まらない。一旦諦めて万年床に横になれば、重い瞼が下りてくる。望まない眠気に抗おうとすれば、今度は思い出したようにじくじくと傷が痛みを主張し始めた。 


「いやー、志摩さん、ちょっとこれ見てくださいよ!」

 突然声が響き、騒々しく扉が開いた。

 それでどうにか眠気は飛んだが、相手がぶら下げたぱんぱんに膨らんだ買い物袋が目に入って、嫌な予感を覚える。

「行ったコンビニで絶賛開催中だったんですよ! 車海老坂くるまえびさか47の一番くじ! オレ、超頑張ってみたら、今推してる子のすげーいいのが出ました!」


 視線の先では、痣だらけの金髪男がにこにこと笑っている。

 手には見知らぬ少女が笑うプラスチックの板のようなものを翳しているが、それが何なのか分からないし、相手が何を言っているのかも全く分からない。だが金を無駄遣いされたことだけは、なんとなく理解できた。


「……余計なもん、買うなって言ったろ……」

「え? 何です? 志摩さん、何か言いました? ねぇ、身体の方ホントにだいじょーぶっスか?」

 言葉を返す元気はもうない。

 しかし相手が屈んだ拍子に膨らんだ袋の中身が零れ、周囲に用途不明のがらくたのようなものが散らばる。

 その意味不明な光景がどうにも可笑しくて、志摩は目を閉じながら口元に微かな笑みを浮かべた。




******




「志摩さんちは府野ふの市ですか。少し郊外ですけど、住むには悪くないですねぇ」

 深夜を過ぎ、日付はとうに変わっていた。

 車の回収は、結局秦太朗に任せた。警察の現場検証は終わっていたらしいが、未だ警備中だった警官の追求を上手く躱してきたのだと、約数十分にも渡る武勇伝を聞かされる代償がついた。


「その辺りって家賃安くないですかー? あー、オレもそっちに引っ越そうかなぁ……ああ、ところで今の電話、また彼女さんですか?」

 青芝から家までの約二十分。回収に続いて運転を買って出た秦太朗がハンドルを握っていた。

 駄目元でもう一度花に掛けた電話はやはり繋がらなかった。多少気にはなるが根本的な心配はしていなかった。


「彼女じゃない。相棒だ」

「相棒? うわー、なんかそれかっこいいっスねぇ。あっ、それってもしかしてこの間一緒にいたガキ……じゃなくて、えーと……サワダでしたっけ? そいつのことですか?」

「……澤村だ」

「そうそう、澤村でした。そういえば、そいつもですけど志摩さんて何をやってる人なんですか? 人捜しの探偵かなんかですか? その割にはまぁ……アレな感じですけど……」

 秦太朗は言いながら途中で拙いことを口にしたと思ったのか、珍しく黙った。しかしそれは数秒の出来事で、またすぐにいつもの調子で口を開いた。

「だけど探偵ってなんかいいですねぇ。大昔のテレビドラマで、そーゆーのあったじゃないスか。ベスパに乗ってもじゃもじゃ頭で、なんじゃこりゃぁ、って」


 志摩は相手の言葉に何も返さず、窓の外を眺めていた。それ二つ混ざってる、とも思ったが、より面倒臭い気がして口にはしなかった。

 億劫な説明や返事のしようのない相槌、それは極力しない方向で突き通してきた。今日一日この相手と過ごして、それが真に正しいやり方だったと確信していた。


「秦太朗、この車、そのまま乗って行け」

 やがてアパートに到着し、志摩は運転席の相手にそう告げた。

 色々思うところのある相手ではあるが、今晩の出来事に対する感謝の念はある。だが全てはこの相手がいなかったら起きなかったのでは、と考えると別の思うところも過ぎるが、今日はもうこれ以上考えるのは面倒だった。

「えっ? いいんスか?」

「明日か明後日に取りに行く。だからって勝手に乗り回すなよ」

「もー、そんなの言われなくても分かってますって。了解ッス、志摩さん」

 同じ返事を先程も聞いた気がするが、これを追求するのはまさに疲れきった脳細胞の無駄遣いでしかない。


「じゃ、お疲れっス」

 遠離るテールランプを見送り、ふらつく足で階段を上る。

 開けた扉の先は真っ暗だったが、見覚えあるスニーカーが玄関先に転がっている。部屋を覗くとベッドに気配がある。無事戻っていることに安堵して自室に向かうと、志摩は上着だけを脱いでベッドに横になった。

 とにかく眠らなくてはとそれだけを考えて疲労する。だが強く願わなくてもすぐに眠りは訪れた。




******




 熱を持った身体に、誰かの冷えた身体が密着している。

 目を開けると周囲はまだ暗く、深夜であるのは間違いない。

 視線を動かすと、右肩に寄り添う小さな頭部が目に入った。


「……おい」

 相手が眠っていないことは気配で分かった。

 正直今夜は相手の戯れに付き合う余裕はいつも以上にない。呼びかけに返答はなく、今度は肩を揺すると相手はそれを拒むように身を寄せてきた。

「いい加減にしろよ、花」

「やだ……ここにいさせて。お願い、ハル……」

 消え入る声にいつもとは異なるものを感じる。けれどそれを考える労力が惜しかった。ベッドから放り出したい気持ちを押さえ込んで無言のまま身動きせずにいると、再び声が届いた。


「……ハル」

「……なんだ、花」

「どうしてか分からないけど、不安を感じる……」

「不安? お前が?」

 軽く笑ってみせると相手は身をより縮ませる。漂う意識に身を任せていると、突然相手が強く腕を掴んだ。


「起きたらまた、私になってた……」

「そんなのはいつものことだろう?」

「まるで……な気がする……」

 その言葉は頼りなく闇に消えていった。

 彼女が何に不安を覚えているのか理解できなかったが、そういう日もあるのだろう。

 ゆっくり身体の向きを変え、寄り添う相手の白い頬に指で触れる。なぜ自分がこんなことをしているのかも分からなかったが、時にはこんな日もあるのだろうと志摩は思った。


「悪い夢でも見たのか?」

「違うけど……」

「じゃ、気にするな、何でもない……」

 頬にかかった髪を指で払い、暗闇で怯える肩を緩い力で抱き寄せる。相手の身体が強張りを見せたが、それは一瞬だけだった。

「……どうして? 今日は優しいんだね」

「……さぁ? 熱でもあるんだろ」

 胸元に抱き込んだ相手の匂いが、鼻孔を掠めている。

 志摩は軽く笑みを浮かべると、もう一度深く目を閉じた。

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