2.小さなミス

 秦太朗に誘われて向かったのは、格安ステーキのチェーン店だった。カウンターのみの簡易な店内に入ると、早速秦太朗が顔見知りの店員と挨拶代わりの談笑をしている。

 席に着いた志摩は店の中を見回した。あまり掃除は行き届いておらず、足元には使用済みの紙ナプキンや煙草の吸い殻が落ちている。他の客は仕事帰りか営業途中のサラリーマンが一人、あとは秦太朗のような風貌の二人連れがこれからの予定を大声で話し合っていた。


「どうもどうもおまたせ志摩さん、何にするかもう決めました? この店、イマイチなメニューが多いんですけどこれだけは美味です。オレのオススメ」

 隣の席に着いた秦太朗が、いそいそとメニューにある二百グラムのスペシャルステーキを指す。

「でも今回はこっちのヤツ、もうオーダーしてきました。ちょっと懐が寒いんで」

 言いながら彼が示したのは、それとは違う超格安のサービスディナーだった。舌の根も乾かぬうちに……と思わず相手の顔を見るが、そこにあるのは何も考えていない笑顔だけだ。しかし慣れとは意外に早いものだと志摩は実感する。何も反論はせず、静かにメニューを閉じた。


「志摩さん、結婚してます?」

 キレの悪い肉をナイフで裂いていると、隣で同じく奮闘する秦太朗が訊ねた。自分には元より縁遠い制度に、志摩は「いいや」と答えた。

「じゃ、子供は?」

 いないと言おうとしたが、それよりも先にこちらに身を乗り出した秦太朗が待ちきれない様子で話し始めた。


「志摩さん、オレはね、早く子供が欲しいんです! オレとオレが一番好きな相手とオレ達の子供達。誰だって頑張れば家族を作れるんですよね? オレ、憧れてるんです。爺さんになったオレと婆さんになった彼女と、成長した子供達、そのまた子供達。たくさんの子供達と孫に囲まれて家族写真を撮るんです。じーちゃん、じーちゃんってオレは慕われて、皺だらけの顔でひゃっひゃーって笑うんです。マジこれ、爆死したくなるほど超幸せな光景だと思いませんか? だけどまぁ実際そんなに孫がいたらお年玉とかが大変で、笑ってらんないかもしんないですけどね」

 秦太朗は捲し立てるように語ると、ひゃっひゃーと笑った。けれども自らの夢に何も反応を返さない相手を見取ると首を傾げた。

「あれ? 志摩さん、ノーリアクション、スか?」

「いいや、いいユメなんじゃないのか」

「ですよねー、そう思いますよねー、マジ理想ですもん。それでねー……」


 隣の話は続いていたが、相手の語る随分先の未来など、志摩には与太話にしか聞こえなかった。

 二十才の頃の自分、少なくとも彼のように未来など見ていなかった。常にあるのはすぐそこにある現実だけで、先を考えることなど戯言でしかない。だが見えない未来に希望を見出して、喜々として語る相手を自らに置き換えて羨むこともなかった。

 自分は境界の向こう側の人間で、その境界線上をふらふらとし続けている秦太朗とは最初から全てが違う。

 隣を見遣ると、そこではまだ夢の続きが語られている。

 甘い夢だが見る分には誰にも許される。

 届く声を聞きながら、志摩は硬い肉を裂き続けていた。



******



「オレ、まだ行ってない所もあるんで、そっちの方も当たってみます」

「気をつけろよ」

「大丈夫っス。オレ、結構逃げ足は速いんで。昨日はまぁ……ちょっと失敗しましたけど」

 

 ステーキ店を出た後、再び聞き込みを続けたが結局潮里の行方に繋がる情報は得られなかった。志摩は一旦切り上げることにしたが、秦太朗はまだ続けるという。秦太朗はまた連絡しますと言って最後に手を振ると、雑踏の向こうに消えていった。


 時計を見れば時刻は十一時を回っていた。不景気で人の出は減ったと言うが、ここはそうでもない。人の波を避けながら志摩は車を駐めたコインパーキングに向かっていた。

 潮里捜索は先が見えなかった。兆しは僅かに見えるが、正解のない問いを延々解こうとしているようにも感じた。雨宮夕夏から得られた情報はどれほどのものだったろうと思う。少しでも突破口のようなものが得られていれば、兆しの裂け目がもう少し開くようにも感じていた。


 賑わう繁華街から細い路地を経て大通りに抜けると、雰囲気ががらりと変わる。雑多な店も大声を上げる呼び込みの姿も消え、高層ビルと多車線道路が現れる。走り去る多くの車や帰りを急ぐ勤め人の姿。音楽も賑やかさもないが、先程までとはまた違った喧噪がある。故にスピードを上げてやって来た一台の車が傍に停車した時も、志摩はその一部としか思わなかった。

 見遣った車道では、銀色のBMWが独特のエンジン音を響かせている。運転席の扉が開き、黒いスーツを着た坊主頭の男が降り立った。


「あんた、志摩さんだね。少しお時間いただこうか」

 有無を言わせない雰囲気を放ちながら、男は長身の志摩を見下ろして後部ドアを開く。車中を覗くとそこには顔に新たな痣を作り、両手を結束バンドで括られた秦太朗の姿がある。

「す、すんません……志摩さん……」

 逃げ足が速いと言ったばかりの秦太朗が情けない顔で見上げる。その隣には三十代半ばの男が座っている。銀縁眼鏡をかけた一見銀行員のようなその男は、不遜な表情でにやついていた。


「おい、早く乗れ」

 背後に回った坊主頭が背中を突く。

 志摩は無言で周囲を見回した。

 運よく通行人は途切れている。今この場にいるのは背後の坊主頭、バックシートの眼鏡男、それに秦太朗。だが猶予はあまりない。志摩は背後の男に肩越しの声を向けた。


「悪いが、遠慮するよ」

「遠慮だと? お前自分の立場が……」

「知らない奴の運転は苦手なんだ」

 志摩は振り返り様、坊主頭に頭突きを喰らわした。

 幾分かの身長差が功を奏し、確実に相手の顎を捉える。呻いて体勢を崩した男の腹に拳を叩き込み、前屈みになった襟ぐりを掴み取って、もう一方の手で車のドアを開く。

「う、嘘だろ……やめ」

 懇願など気にしなかった。相手の頭部を車内へ押し込み、今度は力任せにドアを閉じる。

「ぎゃっ!」

 悲鳴が響いても、無論気にしなかった。再度開いてまた閉じる。より大きな叫びが響き渡ったが、むしろ聞こえなくなるまで何度もやるつもりだった。


「お、お前、何やってるんだ! イカレてんのか!」

 ようやくバックシートの眼鏡男が声を上げる。

 志摩は気を失った相手を地面に放り出すと、車の向こう側に回った。無言でドアを開き、こちらを見上げた眼鏡男の顔面を殴りつける。

「ひっ、ひぃぃぃ……」

 先程までの不遜さは欠片もなく、男の反応は酷く他愛ない。溢れる鼻血を手で押さえるのに必死な相手に反撃の様子はなく、この正体不明の男の戦意が完全に喪失しているのは確かだった。

「し、志摩さーん……」

 秦太朗の情けない声が男越しに届く。ふと、この相手を助ける必要などあるのだろうかと過ぎるが、再び周囲を見回せば通りの向こうに千鳥足のサラリーマンの集団がいるのが見えた。今は余計なことは考えず、この場を早急に立ち去る方がいいようだった。


「お、お前……よ、よくも……」

 歩道側に戻り、両手を拘束された秦太朗が車外に出るのに手を貸しているとその声が届いた。

 顔を上げると、未だ鼻血を垂れ流す眼鏡男の姿がある。

 その目はとうに冷静さを失い、右手には拳銃が握られている。

 指は既に引き金にかけられ、銃口は震えながらも確実にこちらに向いていた。

「冗談だろ?」

 そう言う間もなく、銃声が響いた。

 乱れた間隔だったが、二度三度と続く。

「お、おい! 三谷みたに、早く起きろ! く、車を出すんだ!」

 硝煙立ちのぼる銃を手にした男の怒号を聞き、どうにかふらふらと立ち上がった坊主頭が運転席に乗り込むと車を急発進させる。銀色の独逸車はその先の信号を無視して左折すると、あっという間に姿を消した。


「志摩さん!」

 上手く躱せたのか、無傷らしい秦太朗が植え込みの陰から駆け寄ってくる。

「いいから走れ! 秦太朗!」

 サラリーマン達も異変に気づいたのか、近づこうとはしないもののスマホを取り出したり、声を上げたりしている。

 野次馬が集まり始める中、志摩は秦太朗と走り出していた。

 僅かな痛みを感じて脇腹に触れれば、溢れ出る血の感触が掌に伝わる。舌打ちが零れたが、無論それは自分に向けたものだった。

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