8.否定

 再び目を開けると、そこは暗かった。

 土の匂いと、全てが横になった景色。

 目線より高い位置にあるシーソーに滑り台、足元の方ではブランコが軋み音を立てて風に揺れていた。


「ここは……」

 周囲を見回して、颯はこの場所が公園だと認識した。取り出して確かめた携帯電話の時刻は午後九時半、日付は海浜公園にいた日と変わっていなかった。

「……随分短かかったんだな」

 呟きながら立ち上がると、颯は傍のブランコに腰を下ろした。

 どうしてここにいるのか分からなかったが、雨宮夕夏に会うという目的は果たしていた。残念ながら何の収穫も得られなかった。既に彼女の姿はここにない。あの直後に別れたのか一緒にここまで来たのか不明だが、もう彼女に会う必要はないはずだった。


「そうだ、志摩に連絡……」

 再度携帯電話を手に取ったが、同時に小さな電子音が響き渡った。まさかと思いながら見た画面には何も映っていない。そういえばこの数日充電していなかったことを思い出す。目を向けた公園の端の方に公衆電話があるのに気づいた。急いで駆け寄ったが、辿り着く前に『故障中』の貼り紙が目に入った。


「クソ、なんだよ……」

 連絡を取るなら他を探すしかなかったが、今時公衆電話を見つけること自体難易度が高い。電話は一旦諦めて、とにかく帰宅の途を辿ろうと再々度辺りを見回すが、どう考えても全く見覚えのない場所でしかない。

「一体俺、どこまで来たんだ……?」

 公園の外に出て確かめると、入り口の門柱には『杉尾すぎお児童公園』とある。やはり場所の見当はつかなかったが近辺は住宅街らしく、それならバス停や駅が近くにあるだろうと適当な方角に向けて歩き始める。財布の中身を確かめると小銭ばかりになっている。家まで戻るのに足りないことはないだろうが、数枚あった紙幣は花が使ってしまったらしかった。


「あの……澤村さん……」

 か細い声が届いて颯は顔を上げた。

 前方の街灯の下、そこに雨宮夕夏の姿がある。突然の再登場に少し驚いたがとりあえず歩み寄ってみることにする。見遣った相手はどこかから駆けてきたのか、息を切らせて顔を紅潮させていた。


「えっと雨宮さん……どうしたの?」

 訊ねると相手もこちらに一歩近づく。

「あの……今は、颯さん?……なんですか?」

 その言葉が届いたが、颯はすぐに返事をしなかった。相手は「颯なのか?」と自分に訊いた。つまり相手は自分ではない誰か、《花》と会ったのだと察した。

 施設にいた頃、花は常に花として振る舞っていた。けれど施設を出て以降は状況と都合に合わせて、自分を出さずに場をやり過ごしているようだった。だから花自身が明かさない限り、相手が花の存在を知ることはない。でも彼女には花として接したようだ。どうしてそうしたかは分からないが、そのようにしなければならない理由があったのだろうと颯は思った。


「雨宮さん、もしかして花に会った……?」

「……はい」

 問いかけると、荒い息がようやく収まった相手はゆっくり頷く。しかしその表情には憮然とした、何か言いたげなものが浮かび上がっている。

 夕方からのあの短い入れ替わり、その間にもし花との間に何か行き違いがあったのなら、自分は彼女に説明をしなければならないと思った。自身はどう思われても構わなかったが、花のことを誤解されたままでいるのは忍びなかった。


「雨宮さん、信じられないと思うけど俺達、身体を共有した双子で……」

「ええ、そのことは知ってます」

「そっか……その話、花から聞いた?」

「はい、花さんがどういう人なのかも、彼女と話してよく分かりました」

「……あの、雨宮さん、この話、別に誰に言ってもいいけど……」

「私、このことは絶対誰にも言いません」

 こちらの言葉を遮る勢いで、夕夏ははっきり受け答えする。その瞳はなぜか爛々と輝いている。終始伏し目がちだった昼間とは別人のようにしか見えなかった。違和感はあったが、彼女は自分達に不利益をもたらそうとしている訳ではなさそうではある。

 互いに口を閉ざす時間が静かな夜の歩道に続いていた。

 街灯の下に立つ彼女はその顔に笑みを湛えている。それは何らかの確信を得たようにも見える自信に満ちた笑みだった。


「颯さん。私、颯さんの味方です」

「え? み、味方……?」

 戸惑う颯に構わず、彼女は一方的に話し始めた。

「私、さっきは一度逃げたんです。花さんという人がとても怖かったから。でも駆けながら気づいたんです。あの人には毒がある。それは触れた人全てを侵す怖い毒なんです。ちっぽけな私なんか一瞬で身体中侵されてしまう怖ろしい毒なんです。けど、だから分かったんです。あなたは彼女の毒に侵されている。彼女は美しくきれいです。だけど同時に怖ろしい存在なんです。このままではあなたは彼女に支配されてしまう。そうなったらあなたの心はばらばらになって、あの怖ろしい彼女しかいなくなる。だからそうならないように、あなたを救わなければならないって、私思ったんです。『傍には俺がいるから』あの人はそう言いました。私、その言葉がとてもうれしかった。でもそれは本当はあなたから言ってほしいんです。あの人が言った偽ものの言葉ではなくて、今度はあなたの口からその言葉を聞きたいんです」

「ちょ、ちょっと待って、一体何を言ってるんだ? 雨宮さん」


 颯は慌てて相手の言葉を遮った。

 彼女は昼間の辿々しさもなく、きっぱりとした口調で言いきっている。

 その毅然とした表情を前にして、先程の違和感も大きくなっていた。意味不明な怖れも漂い始めていた。


「私がこんなに言ってもまだ分からないんですか、颯さん! あなたはあの人に困らされているんです! 私、颯さんを助けたい!」

「……助ける?」

「あの人のせいで颯さんはまともな生活を送れてない。颯さんがあの人を自分の中から消したいと思っていること、私、協力したい。あの人は闇です。このままじゃ颯さんがおかしくなってしまう。私、ちゃんと分かってます。両親と弟さんと離れて暮らしているのもそのせいなんですよね? 私は颯さんに元どおりになってほしい。だから協力したいんです!」

 相手から届いた言葉の意味を、颯は全く理解できなかった。

 困っている? 助ける? それはもちろんだが何より花を消すなど、考えたこともなかった。それに両親? 弟? 相手が一体何を言っているのかまるで分からなかった。それに何よりもこれ以上この話を彼女に続けさせたくないと感じているのは確かだった。


「ねぇ雨宮さん……君、色々思い違いをしてると思う。俺は花を消したいなんて思ったことはないし、花のことはとても大事な存在だと思ってる」

「大事? あんな人……なのに?」

「もし花が雨宮さんに何かしたのなら俺、謝るよ。だからもうあんな人だとか、言わないでほしい。俺と花のことは他人には分からない。だから闇だとか消すだとか、それ以上花を悪く言われたら俺、雨宮さんが女でも酷いことを言わなくちゃならなくなる」

「そんな……」

「放っておいてくれていいんだ。俺達はこれでいい。俺には花が必要なんだ。花がいなかったら、俺じゃない。花がいるからこうして立っていられる」

「花が……いるから?」

「俺は花を愛してる。妹だとか、それ以上に花を愛している。だからこれでいいんだ」


 一気に言い終えると、颯は黙した。

 対する夕夏も言葉を失ったように黙り込んでしまった。でも颯自身、花を思う自らの感情を悪いことだと思ったことはなかった。

 ただそこにある自然な感情。

 他人から見れば異常に思われることだとしても、場を取り繕うために誤魔化そうとは思わなかった。

 けれどもしかしたらその言葉を人前で口にしてみたかっただけかもしれなかった。

 森の中で倒れた木の音を誰も聞かなければ、それは存在しないも同じ。誰にも言ったことのない思いはその言葉と似ている。曖昧な存在である自分達。存在と共にその感情が消えることをどこかで畏れる自分がいる。だからその思いを言葉にしたのかもしれなかった。


 長い沈黙が続いていた。

 夕夏はついに俯いてしまった。感情を整理できぬまま、今の言葉を口にしたことを颯は少しだけ後悔していた。微動だにしない相手に手を伸ばすが、肩に触れようとしたその手は激しく振り払われていた。


「そんなのは……そんなのは颯さんがそう思ってるだけです! 私、知ってます! 花さんは……あの人は! あなたがいなければ、もっとちゃんと一人の人としての生活を送ることができるのにって! 相手を思いやっているのは颯さんだけです。だからあの人が大事とか、そうやって思いやる必要なんて全然ないんです!」


 叫ぶ彼女の瞳には怒りが灯っていた。

 邪魔だ。いなければいい。

 その言葉は、颯がこれまでに考えたことのない言葉だった。

 花が自分と同じように考えていると思っていたのは、思い上がりでしかなかったのか。そう思えば、思考に流れ込んでくるのは味わったことのない不安。

 夕夏の言葉など信じたくなかった。しかし自分は直接花の言葉を聞くことはできない。もし彼女の言葉が真実だと言うなら、自分の思いは自己だけを見ていたものにすぎない。


「それにこんなのおかしいです! 自分と身体が同じ妹のことが好きだなんて。だからあの人は消えた方が……いえ! あの人は消えるべきなんです!」


 怒りに満ちた瞳が目の前にある。

 消えるべき何か。

 その言葉に身も凍るほど愕然とする自分がいる。

 自分がそんなに脆いものとは知らなかった。

 何かが足元から崩れていく。

 この場から消え去るべきは誤り続けた感情か、それとも自分自身か。

 目を固く閉じた颯には、それが何なのかかもう分からなかった。

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