7.境界
帰り道は既に暗くなっていた。
途中立ち寄った児童公園には滑り台にシーソー、それに小さな砂場がある。周囲には風で揺れるブランコの音だけが響き、寂しげな雰囲気が漂っていた。
「懐かしいな」
花はブランコに歩み寄ると、足を乗せた。
記憶に残るのは施設のブランコだった。ある日どれだけ高く漕げるか限界に挑戦して、頂点に達した時、本当に跳べる気がして両手を放した。しかしその無謀な試みの結果、後を継いだ颯に三ヶ月間の骨折生活を送らせた苦い思い出がある。
「ええ、そうですね……」
同じく歩み寄った夕夏の声が小さく届いて、彼女は隣のブランコに腰を下ろす。
あの後、海浜公園近くのレストランで夕食を取った。テーブルいっぱいになるほどの料理を頼んで、それらを平らげながら、夕夏から戸惑いがちに出される質問に順に答えていた。
齢は今十七才、七月七日の誕生日で十八才になる。その誕生日までにオートバイの免許を取るのが夢。
両親と二つ歳の離れた弟はカナダのトロントに住んでいる。中学卒業後一人帰国した後は、母方の叔父である《志摩さん》と同居しつつ探偵業を営む彼の仕事を手伝って、現在二年目。けれども探偵と言っても依頼は専ら浮気調査といなくなったペットの捜索で、今回初めて人捜しをやっている。
「そうだったんですか……いろいろ大変なんですね……」
「まあね」
相手の言葉に同調するように花は肩を竦めて見せたが、質問に答えた中で『初めて人捜しをやっている』ことだけが本当だった。
歳は多分十六才。誕生日など不明。両親も弟もいない。カナダになんか行ったこともない。ハルは叔父でも何でもないし、自分達の仕事は数日前にも森に死体を埋めた人殺しだ。
「でも、結構楽しいよ」
軽くそう返して、花は夕夏に微笑んでみせた。
大きめのパーカーは変化した体型を隠してくれる。元より起伏の少ない体型はそうでなくとも気づかれることはなかった。颯が自分の振りをするのは難しいかもしれないが、自分が颯の振りをするのは容易い。何より一緒にいた相手がいつの間にか別人になっているとは、誰も思いはしない。
今後も明かすつもりのない真実を欠片も見せることなく、花は巫山戯たこの余興をまだしばらく愉しむつもりだった。
「ねぇ、今度は君の話を聞かせてよ。俺、君にすごく興味がある」
「わ、私のこと……?」
謀りの笑みを浮かべると、彼女は戸惑いながらも固い表情を崩す。彼女がじきに秘めたものを打ち明けることは、手に取るように分かっていた。程なくして相手は思惑どおりに自身のことをぽつりぽつりと語り始めた。
中学までは一番の親友だった潮里が、高校に入ってからは口も利いてくれなくなったこと。そしてそれ以降人と接するのが怖くなり、対人関係にも不信を抱くようになった。自ら他人と距離を取り続けたことで諍いも仲違いの心配もいらなくなったが、代わりに教室で孤立するようになっていった。最近では元々うまくいっていなかった両親との関係も悪化し、学校にも家にも居場所がなくなっている。
自分には何もない。いつの間にか知らないうちに全部自分の手から零れ落ちてしまった。もうどうしていいか分からないと、彼女は自分語りの終わりにそう呟いた。
「そうなんだ、それは大変だね」
花は心配そうな顔でそのように応えてみせたが、浮かべた表情は作りものでしかなかった。
彼女は自らの不幸を訥々と語ったが、花にとってそれはまるで遠い国の出来事のことのようにしか感じられなかった。
しかしそうだとしてもその心情は一応想像できる。でも彼女は自らのその境遇から這い出そうとしているようには見えなかった。ただぼんやりと絶望の中に突っ立っているだけで、何かを働きかけているようには見えない。
彼女の言葉尻から窺えるのは埋没した足元を掘り返しもせずに、頭上ばかりを見て嘆く姿だった。そこから抜け出すのはあくまでも自分で、それは他の誰かがしてくれることでもない。
それに気づけない人間は悪循環に囚われ続ける。その場所で腐り落ちるか這い出すか、当人の好きにすればいい。しかしいくつもの機会を自ら見捨てているようにも見えるその姿には、これまで感じなかった〝何か〟を抱いていた。
「……どうしてなんだろうな」
思わず呟きが漏れたが、花はその何かをどうしようとも思わなかった。
所詮は他人事。相手がどうなろうと知ったことではない。
「ねぇ、あのさ」
だが花は感情とは異なる表情を湛えると、テーブルの上にある相手の手を握り取っていた。
「もう心配なんかしなくていいよ、傍には俺がいるからさ」
その言葉を向ければ、相手は頬を赤らめて下を向く。
花は思った。自分はセオリーどおりに相手の望む言葉を差し出す方が似合っている。
この相手を殺したいほど憎い訳ではない。多分ただ、好きでないだけ。
偽りの表情の上に自らの笑みを浮かべれば、胸に留まっていたものは消えていった。
「星が……きれいですね」
届いた声に目を向ければ、夕夏は夜空を見上げて静かにブランコを揺らしている。
彼女のその横顔にふと誰かの面影が過ぎった気がして、花は倣うように暗い空を見上げた。でもそこに答えは無く、青白い月があるだけだった。それはもう少しで満月で、暗い空の真ん中で輝いていた。
「そうだねぇ、月とか星とかきれいだよねぇ。あれを見てると周りのことが全部どうでもいいことに思えてこない? けどそんなんで上ばっか見てると、すぐ傍にある嘘に気づかない」
風を切ってブランコを漕ぎながら、花は誰に言うでもなく呟きを零した。
不意に鎖を手放せば身体は
バランスを僅かも崩さず暗い地面に着地した花は、背後の少女を振り返った。
「ねぇ、そうだよね。雨宮さん」
まだ激しく揺れる遊具が発した声を掻き消そうとしている。
花はこちらを見上げる少女に歩み寄ると、顔を近づけた。相手は拒まなかったが、息がかかるほど唇が近づくと、突如顔を背けていた。
「こんなの……駄目」
「どうして? 好きなんじゃないの?」
問いかけても相手は無言で俯く。
好きだけど拒む。すぐそこにある欲しいものに彼女は手を伸ばそうとしない。差し出されたものを自ら取り逃がすその姿には不条理なものしか感じなかった。
「ぷっ……くっくくく……」
「さ、澤村さん……?」
「あーはっはははは……ごめん、だけど……ぶーっ」
彼女で遊ぶのは愉しかった。花はそう思う。
でもこれ以上出鱈目な余興を続けても、何も得られるものはなかった。
「あの……一体どうしたんです……」
「だってさ、潮里から連絡があったって嘘をついて呼び出すほど、颯のことが好きなんだよね? 幼稚でしょーもない話まででっち上げて。じゃ、どうして拒むの?」
花はもう何の振りもしていなかった。
そしてその何者でもない相手を見上げる少女の顔には、遅すぎる疑念が浮かび上がっていた。
「だってあげるって言ってるんだから、貰っときなよ。あんたには何もないんでしょ? だったら気取ってないで自分でもぎ取りなよ。待ってたって誰も与えてなんかくれない」
そう言いながら再び歩み寄って、花は攫うように相手の唇を奪った。
「……や、いやっ!」
突然の行為に夕夏は完全な拒否を示す。
彼女は相手を突き飛ばそうとするが、そうなる前に花は身を躱した。
「なっ、何をするの? あなた……本当に澤村さん?」
「澤村には違いないけど、私は花。颯の双子の妹」
「い、妹?」
「これは言葉みたいに目に見えないものじゃないから、あなたがついた陳腐な嘘と違って分かり易いよね。あなたの前に私はいる。ねぇ本当に全然気づかなかった? それとも少しは気づいてた? 私と颯は同じ身体を共有しているんだよ。どう? 面白いでしょ?」
問いかけるも、相手の目には遅い疑惑だけがあった。ようやく目の当たりにすることができたその感情に、花は深い笑みを浮かべた。
「私は颯じゃないけど、颯と同じ顔をしてる」
一歩近づくと、彼女は相手を遠ざけようと一歩下がる。続けて手を差し伸べると、彼女はそれからも目を逸らす。
それでも伸ばした手で強引に頬に触れれば、その身体がぴくりと震えた。
「颯ならきっと言わないことでも、私だったら言ってあげられる。颯がしないことも、私ならしてあげる……」
「いや! さっ、触らないで!」
言葉は拒否していた。
けれどもその頬が熱を帯びてゆくのを掌が感じ取っていた。
しかし彼女は全力で全てを拒絶し、対峙する相手に軽蔑と嫌悪の眼差しを向ける。
終わることのない矛盾。でもそれでいいと花は思っていた。
彼女はこの矛盾に居続けることで、自らを守っている。変わりゆくことから目を逸らし、努力することからも目を逸らしている。
「ねぇ、それじゃどうしてさっさと逃げないの? 触ってほしくないんだったら、走って逃げればいい」
半笑いの言葉を向けると、途端その表情に複雑なものが織り混ざる。
彼女は口では嫌と言いながら、先程からなぜか遠く離れようとしない。触れられたくない心の機微に土足で踏み込めば、彼女は再度後退って唇を強く噛んだ。
「私は追いかけないよ。だけど早く逃げないと頭から食べちゃうよ、ウサギちゃん。狼はいつだって腹を空かせてる」
ようやく自らの愚かさに気づいた彼女は、侮蔑の表情を残して脱兎の如く駆けていった。暗闇を必死に駆けながら、今頃は遅い後悔に歯噛みしているはずだ。
花は残されたこちら側の闇で思う。
自分と彼女のいる場所は境界を隔てている。そしてあちらとこちらでは善悪の価値観も異なる。
彼女側からしてみれば、こちらの出来事全てが理解できないに違いない。もちろんそれらを言い訳にするつもりはない。彼女には責められても返す言葉はない。
二つの日常を隔てる境界は向こうがそれを渡ることはできるが、こちらが向こうに行くことはできない。その普遍的事実は常に現実に横たわり、折り合うことも重なり合うことも決してない、永遠の平行線を辿るものだった。
「……あ……早い、まだ……」
暗い空を見上げれば、突然足元を掬う眩暈に襲われていた。
いつしか月も厚い雲に覆われている。
何にも抗えず力なく膝をつき、花は地面に倒れ込んだ。
土の匂いがあの墓穴を思い出させたが、重い瞼を閉じることしかできなかった
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