3.白い花びらの記憶

 週末の駅前は人で溢れていた。

 時刻は午後三時。行き交う人、待ち合わせる人、やって来ては去っていく。その場に留まらない人ばかりなのに、雑踏はいつまでもここにある。


「遅いな……」

 颯は人の流れを眺めながら呟いた。

 雨宮夕夏との約束時間はとうに過ぎていたが、彼女は一向に現れない。

 宮嵯みやさ駅前の噴水傍という待ち合わせ場所は向こうが言い出したことだったが、もっと人の混み合わない場所に変更すればよかったと後悔していた。


 人の多い場所は、昔からあまり得意ではなかった。元々好んで出歩く方でもない。夜遊びにも興味がなく、仕事のない暇な時は本を読んでいるか、映画を見ていることが多い。

 インドア派なのは昔からだった。育った施設でも他の子供達が広場で遊んでいるのに、いつも室内で絵本を読んでいた。しかしそれで充分楽しかった。自分はいつも一人ではなかったからだった。


 姿も見えず、声も聞こえなくとも、物心ついた頃からずっと傍に花の存在を感じていた。

 常に自分に寄り添い、近くにいてくれる存在。それが自分の中のことだけではなく、次第に表面上に現れるようになってもそう思うことに変わりはなかった。


『颯君、最近怖いからやだ』

『ねぇ、どうしてあんなことするの?』

『違うよ、あれは颯君じゃないよ』

『颯君じゃなきゃ、誰だっていうの?』

『僕は会ったよ。あれは《花》って名の女の子だよ』

『うん、私も会ったよ《花》って子に。とても乱暴な子。私、ぶたれたよ』

『ねぇ……みんな一体誰の話をしているの? そんな名前の子はここにはいないのよ……』


 花の存在を前にして大半の子供達は怯え、施設の職員は困惑していた。自身もこれまでと異なる変化を感じずにはいられなかった。

 時折細切れになる記憶、失った記憶を引き摺ったまま、連なる日常に放り出される日々。

 けれどもそんなことなど微々たることでしかなかった。それら全て、彼女の存在と共に享受すべきものと考えていた。


 しかしそんな生活もある日突然終わりを迎えた。

 施設で暮らして十年が経った初夏の夜、出火原因不明の火事が起き、建物が全焼する出来事が起こった。元々資金難だった施設は再建の目途が立たずに、これまで一緒に暮らした仲間や職員達と別れることになった。仲間はそれぞれ新たな場所に引き取られ、颯もある家庭に引き取られた。

 新たな住処は、里子を何人も引き取っては育てている大きな家だった。そこでの生活は突出していい出来事も起きない代わりに、特に困窮させられる出来事も起きなかった。凪いだ海のような日々が数ヶ月も過ぎたある日、他の家人は皆留守で家には颯と家のあるじだけがいた。


 自室で本を読んでいた颯は、ふとキッチンで水を飲もうと部屋を出た。するとなぜか廊下で家の主が待ち構えていた。にやにやと笑いながら歩み寄った彼は当然のように傍に寄り添うと、ぶくぶくと肥え太った手で颯の尻を撫でた。

『遅かったじゃないか、お父さんはもう待ちきれないよ』

 発せられた言葉に颯は目を瞠った。

『うん? 今日はのか? だけどまぁ、私は

 粘りつく視線、腐った残飯を思わせる口臭、それよりもすぐさま悟った自分が知らなかった事実に颯は吐き気を催した。


 その時の記憶には、今も唾を吐きかけている。

 家の主は手を握り取ると、慣れた様子で寝室に連れ込もうとした。

 沸々した怒りと這い出る殺意が混濁した目に映ったのは、廊下の飾り棚に置かれた花瓶だった。そこに白い花が挿してあったことを覚えている。

 迷わず掴み取ったそれで、男の後頭部を殴りつけた。

 相手は呆気なくその場に崩れ落ち、倒れ込んだ床には瞬く間に血溜まりができあがった。


『二度と俺の妹と俺の身体に触るな!』


 血溜まりには、赤く染まった陶器の欠片と白い花びらが散っていた。

 そのどす黒い血を踏みつけて、既に動かない相手の身体をいつまでも蹴り続けた。

 存在を知り得ていても、その感情を知ることはできない。

 自分が知らない場所で、花が傷つけられている事実に気づけなかったことに歯噛みした。


 血が滲んだままの足で家を飛び出し、その後は今まで暮らした土地も離れて、歳や身分を偽りながら様々なことをして生き延びてきた。その間どんな時も、自分以上に花のことを考えていた。

 今の組織に属したのは自分が抗いきれない力に対抗するため。不当な力で隷属させようとする《誰か》に抗い続けるには、強固な後ろ盾が必要だった。それは自分のためではなく、花のため。


 最初は混乱をもたらしていた記憶の帳尻合わせも、今では上手く補えている。

 自分が自分でない時、そこにいるのは花。

 どんな時も、自分は一人ではなかった。

 彼女は無条件で自分を受け入れてくれ、自分も無条件で彼女を受け入れる。

 常に自分に寄り添い、近くにいてくれる存在。 

 だから自分も同じように花に寄り添い、ずっと近くにいる。

 今までもこの先も花がいるから、自分は立っていられる。

 颯は思う。

 花がいない世界など、それは自分にとってあり得ない世界だった。


「あの……すみません……」

 気づけば、伏せた視界によく手入れされた茶色の靴が入り込んでいた。

「本当にすみません……遅れてしまって……」


 顔を上げると、そこには一人の少女の姿がある。

 白いブラウスに小さな花の刺繍が入ったベージュのカーディガン、紺チェックのミニスカート。

 制服の時とは印象が違っていたが、目の前に立っていたのはこの場で自分を三十分も待たせた雨宮夕夏だった。

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