5.二つの月と片方だけの闇

 青芝区本並町一〇〇ー九、青芝ハイツ一〇五号室。

 日付も跨ごうとする時刻に志摩はその部屋の万年床の上で、寝惚け顔を晒す男を見下ろしていた。


 颯が先行していた青芝ハイツは、若い入居者が多そうなアパートだった。

 狭い台所には、極小の冷蔵庫とそれよりも存在感を示す膨れ上がったゴミ袋、隣接する四畳半の畳の上には古いノートパソコンと、敷きっぱなしの布団が一式のみ。物がないのに雑然として見える、いい見本のような部屋だった。


「し、潮里っ! う、うぐ……」

 突然勢いづいたように半身を起こした男は、起き上がった拍子に蘇った痛みに呻きを上げている。どうやら散々痛めつけられた記憶が抜け落ちていたようだった。

 あの路地で気を失っていたのをどうにかここまで担ぎ込んだが、見た目より重くて随分苦労した。特に手当をする気もなく、適当に布団の上に転がして放置していた。


「おい、聞こえてるか? 俺の質問に答えろ」

 もう一度声をかけると、痛む身体をさすりながら虚ろな目がこちらを向く。腫れ上がった顔は痛々しいが、自業自得という言葉も過ぎる。

「あんたら……一体何者だよ、勝手にオレんちで……」

「俺は志摩。こっちのが澤村」 

 血の巡りの悪い頭で僅かでも状況を把握したのか、この部屋の主、本庄秦太朗が言葉を発する。

 名乗ると相手は訝しげな視線を向けるが、逃亡を図ろうとしないのは賢明と思う。でも表情には警戒心とこの場には不必要な反抗心が消えていなかった。


「あんたら、富士田さんの仲間じゃないんだよな……?」

「そうだな」

「じゃ、どこの組の人? あんなことして、きっとただじゃ済まないよ……」

 そう言って相手は目を逸らす。

 あんなこととは自分が路地裏で富士田達に与えた暴力か、その後に施した行為か。どちらだろうと志摩は思うが、どちらにしても今夜の所業はどこを目にしたとしても、かなりマシな部類になるはずだった。


「随分余裕があるみたいだな。他人の心配をしてる場合か? 俺達は小暮潮里を捜してる。お前が潮里に関わった経緯を訊きたいんだが」

「……どうしてあんた達、潮里を捜してるんだよ……あんたら一体潮里の何なんだ……? どうしてあんたらみたいなヤバそうな奴らが、潮里に関わろうとしてるんだよ? あんたら潮里を利用して何をしようとしてるんだ? 潮里が一体……」

「色々訊きたがる奴だな」

 志摩は相手の言葉を遮って傍に屈んだ。

「なぁ質問するのは俺で、お前はお前の知ってることを喋ればいい」

「オ、オレが知ってることを喋ったら、あんた達の知ってることも教えてもらえんの?」

「交渉でもするつもりか? 阿呆なこと言ってないで早く知っていることを言え」


 志摩は立ち上がって、相手を見下ろした。

 向こう秦太朗はまだ自分が優位に立てる状況を模索しているようだったが、無駄なことでしかなかった。しばらくすると、いくらこうしていても膠着が続くだけと悟ったのか、小さな声で「クソ」と呟くと堰を切ったように話し始めた。


「ことの始まりは……数ヶ月前だよ……知り合いの富士田ってオッサンヤクザがオレのとこに来て、あることをやれって言ったんだ……オレは別に組員でもチンピラでもないけど、以前関わったことがあってその命令は断れなかったんだ……でもホントは嫌だった……オレは自分でも馬鹿やってる自覚はあるけど、富士田さんみたいなのに関わりすぎるのは、オレの思う境界線からはみ出てるっていうか、オレの思う善と悪に対する……」

「お前のお気持ちはどうでもいい。そのあることってなんだ?」


「それは……それはある女子高生を誑かせって、そして騙して風俗で働かせろって。それでその女子高生ってのが潮里だったんだ……オレ、仕方なく富士田さんの言うとおりに潮里に近づいて、これも富士田さんに言われたとおりにオレのことは絶対誰にも言うなって口止めして、付き合い始めたんだ……潮里に近づいたのは富士田さんの命令でしかなかった。でもオレ、彼女と何度も会ってるうちに、潮里のことを本当に好きになったんだ……一度は富士田さんに彼女を渡しちまったけど、やっぱそれじゃ駄目だって、彼女を取り戻さなきゃ駄目だって、そう思ったんだ……本当に馬鹿だけどそうなってから本当の気持ちに気づいた。オレには潮里が必要なんだ。ずっと傍にいなけりゃ駄目なんだ。だからもう一度会うために、どうしても潮里を捜して……」

「富士田からお前は潮里を騙すように言われた。富士田に潮里を受け渡した後は?」


「……オレ、金がいるって潮里に言って、まぁ実際本当に必要だったけど、彼女の方から風俗で働くって言い出すように仕向けたんだ……それで先月の終わりくらいに、富士田さんの店に連れてって……」

「どこの店だ」

「美並のコスプレパブ……でもパブって言ってるけど本当はゴリゴリのフーゾク。みんな女子高生のコスプレしてるけど、コスプレじゃなくて実際本当に高校生ばっかなんだ。店の奥にある個室で結構きわどいことまでOKって店」

「その店の場所は?」

 志摩が問うと、秦太朗は肩を竦めて自虐的に笑った。

「もうそこに潮里はいないよ。一週間はいたけど富士田さんが別の店に移したんだ。オレ、その別の店の場所をなんとか突き止めたけど、もうそこにもいなかった……」

 語り終えた秦太朗は、怪我の痛みも忘れたように項垂れた。敢えて語られはしなかったが、この後は富士田が彼を痛めつけた今夜の出来事へと繋がる。


「志摩ー」

「そうだな」

 志摩は颯の呼びかけに頷いた。 

 とりあえず訊きたいことは聞いた。今夜はもうここを去ってもよかった。秦太朗の自宅も勤務先も把握している。必要に応じてまた捜すか、会いにこればいいだけだった。


「えっ? あ、あんたらもう行くの? ちょ、ちょっと待ってくれよ! えっと……し、志摩さん!」

 部屋を去ろうとしたが呼び止める声が届く。

 振り返れば布団から這い出た秦太朗が、必死の形相で見上げていた。


「し、志摩さん、オレ、こんなにされたけどまだ諦めてないんだ、潮里のこと! あんた達まだ潮里を捜すつもりなんだろ? だったらこの先オレにしかできないことも多分……いや、絶対あるし、きっとオレは役に立つ! だから頼む! あんた達の捜索の仲間にしてくれよ!」

 相手は痛みに顔を歪めながら、必死に懇願している。

 志摩はこの先彼と行動を共にして利点があるだろうかと思った。

 だがあったとしても元よりこの男とつるむつもりはなかった。


「それに……あんたといれば、安全そうだし……」

「そっちの方が本音か」

「ち、違うよ! オレは本当に潮里を捜したいんだ!」

 志摩は相手の言動を揶揄したが、別に気にしていなかった。富士田のような男に本気で痛めつけられれば誰だってそうなる。本音を零されても特に感想はなかった。


「ま、待ってくれよ! こ、これ!」

 再び去ろうとすると相手は泥汚れたジーンズの尻ポケットから財布を出し、あたふたと何かを取り出す。

 差し出されたのは、名前と携帯電話番号が記された名刺だった。無論受け取る義理はなかったが、志摩は一瞥したそれを無造作に上着のポケットに押し込んだ。


「なぁ、絶対連絡くれよ……オレ、ずっと待ってるから……」

 背を向けたドアが閉まる時、青年の呟く声が微かに聞こえた。




******




 颯は手頃な小石を蹴り飛ばしながら前方を歩いている。

 志摩は無言で帰宅の途を辿っていた。


 今夜得た幾つかの事実。中でも明神組の富士田という男が秦太朗を使って潮里を誑かし、風俗店で働かせた事実が一番大きかった。

 なぜそんな必要があったのか。潮里の痕跡を周到に消す手間までかけた思惑を想像すれば、そこには一人の女子高生を騙すためと言うより、、その後連れ去ったと思しき構図が見える。


 小暮潮里は何者? これはただの失踪事件ではない?

 ボスが恩のある人物から受けたこの依頼。

 その人物とボスとの繋がりの中に、自分には知らされてはいない何かが隠されているのだろうか。

 今は何を考えても推測ばかりが続く。だが事実、明神組という組織も関係している。その明神組にしてもこれらは末端のチンピラの仕業ではなく、もっと複雑な裏事情があるようにも思う……。


「面倒そうだね」

 心中を察したような颯の言葉に、志摩は顔を上げた。

 確かにこれは面倒な仕事だった。不慣れな上に、自分達には知らされていない情報があるのかもしれない。

 自分達のボスは、他の組織との横の繋がりを一切持っていない。それでも彼女がそうしていられるのは、同じ極を持つ磁石のようにそり合わない同士が、互いに避けて通る現状があるからだ。

 だが今回の件には、それがそうでなくなる予感がつきまとう。ボスには拾ってもらった恩、その代償として与えられた仕事に対する自負はある。でも殉教者のように一蓮托生になるつもりはなかった。


「そうなる前に消えるか」

「え? 何?」

「いいや、何でもない。忘れてくれ」


 志摩は笑って返すと、前方の闇に目を移した。

 慣れない仕事、慣れない手順。しかし捜索はある程度前進していると考えていた。今夜の件で心残りがあるとすればあの男、富士田を簡単に解放してしまったことだった。

 もう少し時間をかけ、段階を踏めば、あの意志の強い男でも口を割ったかもしれない。手の指は既に欠けていた。それならば足の指を一本や二本、ねじ切っておけばよかった。それとも歯か? あの黄色くなった前歯を順に抜いていけば……。


「志摩」

 その声に志摩は再度顔を上げた。蹴り続けた小石は川に落としてしまったのか、颯が振り返ってこちらを見ていた。

「もう、明日にしようよ。連中があれだけ手間をかけてるってことは、簡単に殺したりしないってことだろ。早く帰って寝よ。俺、あんまり寝てないみたいでなんだか頭が回らねー」


 欠伸をするその顔に、花の表情が一瞬重なって見えた。

 小石が作った波紋で揺れる水面には、月が浮かんでいる。

 その上にはもう一つの月。

 別々の場所にあっても、同じようにそこにある。


「そうだな、分かった。明日にしよう……」

 いつの間にか日々のリズムが彼らのペースに巻き込まれていると気づくが、それは拒絶したいものではない。

 頭上の月と水面の月、志摩は二つのそれを闇のない片方の目に映して、再び軽く笑った。

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