4.オレの短い話
人の話し声で、目を覚ました。
最初に目に入ったのは汚れた天井、埃だらけの電灯の笠。
今いるのが自分の部屋だと気づいて、本庄秦太朗は半目の瞼をゆっくり開けた。
脳はまだ半眠状態を続けようとしているが、多少は言うことを利いてくれそうだった。散漫な脳にどうにか活を入れて、夕方からの出来事をぼんやり思い返した。
六時過ぎ、久しぶりに仕事に行った。
毎度の如く同僚のシノヤマはもうラリっていて、一分前のことさえ覚えていない。ドラッグは確かに楽しいが、あとに残るものは何もない。夢心地なのはアタマの中の天国での出来事で、そこで涎を垂らして本当の現実から目を逸らしているだけだ。シノヤマも、店でバカみたいにはしゃいでいる連中も、ちょっと前の自分も皆同じ。そのことに気づいた分だけ、あいつらより一ミリぐらいマシだと思いたい。
そして九時頃、フジタさんが店に現れて、外に引っ張ってかれた。
潮里を捜してることがバレたんだとすぐに気づいたが、どうしようもなかった。歳もそう違わないクソチンピラのクサマに別に怖くないけど、フジタさんは怖い。彼を見ていると親父を嫌でも思い出す。
母親は愛想尽かして出てって、兄貴達はさっさと独立して、小学生の自分は飲んだくれの親父と取り残された。気に入らないことがあれば、憂さ晴らしのようにぶん殴る親父。畳に突っ伏しながら恨んだのは置き去りにした母親と兄貴達で、親父は恨むと言うより、その理不尽な行動の原動力がとにかく怖かった。
親父は二年前の冬に酔っぱらったまま自転車に乗って、その自転車ごと川に落ちて死んだけど、どれだけ親父より背が伸びても心のどこかでずっと怖れ続けていた。
歳も見た目も全然違うが、フジタさんは親父を思い出させる。
あのでっかい拳を見せつけて、にやつきながら笑う親父のようなフジタさんを見ていると、とにかくビビるしかない。ちょっとはヤレるんじゃないかと裏で思っても、あの嫌な笑みを目の当たりにすればその気はいつも消滅する。
『シン、お前、あの娘を捜してるんだって? そう小耳に挟んだが、もちろんただの噂だよなぁ』
そう言うが、フジタさんは最初から噂だなんてちっとも思ってなかった。次の瞬間にはフジタさんの拳が目の前にあって、重いパンチをまともに食らった。それでもう心を折られてるのに勝手なことをするなと散々ボコられて気を失って、それからの記憶はない……。
「誰かと一緒にいたの? あいつ」
知らない声が響いて、現実に戻される。
薄目を開けた視線の先には、背を向けた誰かの姿がある。
自分がいるのは寝床にしている四畳半の部屋。その誰かは隣の台所の方を向いて立っているが、全然知らない奴だった。
多分十六、七のガキ。ちらりと見えた横顔で女かと思ったが、声は男だった。薄汚れた黒のパーカーとジーンズ姿の女みたいな顔の野郎だと思った。
「ああ、雨宮夕夏が言ってた奴らと一緒にいた。あいつをやったのもそいつらだ」
台所にいるらしき、もう一人の男が答える。
姿は見えないが、その声を最近どこかで聞いた気がする。
でも同時に嫌な感触に襲われる。絶対二度と思い出さない方がいいような、そんな感触だった。
「俺達が仲間同士だと考えていた秦太朗に、奴らがなぜ制裁を加えていたか? あいつ、潮里の行方が気になって、勝手に捜し始めたらしい」
もう一人の男が、冷蔵庫を開ける音が聞こえた。
人の家のものを勝手に漁るなと思ったが、届いた『潮里』の名に心拍数が上がる。
この連中も彼女を捜しているのかと思うが、その理由も素性も何も分からないままだった。
「それ、どういうこと?」
「さぁ? 《ヤバい彼氏》じゃなかったってことじゃないのか」
男が何かを取り出してプルタブを引く。なけなしの金で買った缶ビールに手をつけられたことに気づいたが、そんなことより今は話に聞き耳を立てる方が重要だった。
「潮里がシンの存在を唯一話した雨宮夕夏に、彼らが口止めしたのは確かだった。恐らくそこから足がつくことを避けたかったんだろう。シンが潮里失踪に関わっているのも今のところ間違いない。潮里を捜し始めたのは、急に良心に目覚めたからか、何か別の思惑があるのか、現時点では分からない。まぁ奴について分かったのはそんなところか」
「ふーん、そっか。だけど志摩、雨宮夕夏を脅してシンをぶん殴ってた奴をどうやって見つけ出したわけ?」
「俺達がシンを捜していたから、それを嗅ぎつけて向こうから接触してきた。あいつらは
「明神?」
「青芝がシマのヤクザだよ」
「ヤクザ? へー、ホントにヤクザが絡んでたんだ」
「そうだな」
「だけど本当にヤクザが絡んでるなら、潮里はもうどっかに売られてんのかな」
「かもな」
二人の会話は、飯時の雑談のように気軽な様子で続いていた。
だが潮里が売られてる? 勝手なことをほざくなと心がざわつく。
でも憤る権利も、奴らを責め立てる権利も自分にはない。
この悪夢のような出来事が起こった一端が、自分にあるのは確かだった。
「潮里の行方については、まだ何も掴めていない。明神組の奴らは居所に関することは一切吐かなかった。思ってたより口の硬い奴だったな」
ビールを飲み終えたのか、男が缶を握り潰す音が聞こえた。
もう彼らが誰で、どんな理由でここにいるのか、どうでもいい気がしていた。寝た振りをするのにも疲れ始めていた。どうせなら布団をはね除けて飛び起きて、冥土のみやげに奴らをぶん殴ってやろうかとも思った。
「とにかくこいつから何か訊き出そう。きっと簡単に喋る」
しかしその言葉で、瞬時に身体が冷えた。
どこかで聞いた声。
それは最近でもなく、数日前でもなく、数ヶ月前でもなく、今夜だった。
ひゅっと音を立てて何かが飛んで、額に当たった。
床を転がるその何かを薄目で追えば、それは握り潰されたビール缶だった。
「あ、今ので起きたみたいだよ。志摩」
女みたいな顔をしたガキが、こちらの顔を覗き込む。
「どうかな、とっくに起きてたのかもな」
足元には、もう一人の男が立った。
黒い服を着た、長い髪を後ろで括った背の高い男。
その姿をどこで見たのか朧気に蘇るが、これ以上思い出したくない。
絶対二度と思い出したくもないのに、やっぱり思い出してしまう……。
気を失った路地裏で一度、目を覚ました。
その時に見えた光景。
ヤメロヤメロヤメテクレ!
富士田の縋りつくような懇願に続いたのは、断末魔の叫び。
あの男のあんな声は、初めて聞いた。
そして皮膚が裂けるねちゃねちゃした音、骨の砕ける鈍い音。
一生聞くはずもなかったおぞましい音を、何度も聞かされることになった。
でも何よりあんなにも恐れていた男の悲鳴に耐えられずに、もう一度自分から強く望んで気を失った。
「お前、どうして小暮潮里に関わったんだ?」
こちらを見下ろすサディスト拷問男が訊く。
この男の所業は忘れたくても、忘れられるはずなどない。
もし質問に答えなかったら、富士田にしたみたいにあのペンチで挟むのか? 抉るのか?
だけど〝どうして小暮潮里に関わったのか?〟
その疑問は自分自身へと本当に向けたかった。
『大好きだよ』
『いつまでも一緒にいたいよ』
思い出すのは、腕の中にある柔らかな感触と髪の匂い。
甘い声で囁かれる夢みたいな言葉の数々。
忘れたくても、忘れることなんかできなかった。
頭の中の天国じゃない、その存在自体が現実の夢心地。
もう一度自分は捜さなければならない、見つけなければならかった。
彼女は天使。マイベイベー、しおりん。
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