3.富士田と草間

 見知らぬ男に連れられて向かったのは、ビルの狭間にある湿った路地だった。

 濁った空気が滞る空間には、言葉で形容すべきものは何もない。

 廃棄物が積み上げられた暗がりからは、逃げる機会を窺っていた白い子猫が飛び出していった。


「そいつか、草間くさま

「そうです、富士田ふじたさん、こいつですよ、長髪に黒ずくめのでかい男、あちこち嗅ぎ回ってた野郎は」

 路地にはもう一人、男が待っていた。

 開襟の白シャツにグレーの上着を着た四十絡みの男。

 富士田と呼ばれたその男の足元には既に何度も殴られ、気を失ったらしき金髪の男の姿がある。その光景を見て志摩はつい、これまで我慢していた笑いを零した。これを幸運と言わず何を言うと思った。


「なぁ、そこに転がってるのが本庄秦太朗?」

「うっせぇ! 何勝手に喋ってんだ!」

 問いかけると背後いた若い方、草間が吠える。

「まぁまぁ、草間、いいじゃねぇか」

 それを受けてもう一人の男、富士田が余裕の表情で取りなす。

 言いながら金髪男を足で転がせば、ようやく雨宮夕夏が特徴がないと言い表した顔が露わになった。けれど散々殴られ、目元口元が腫れ上がっているせいでそのとおりであるかは残念ながらよく分からなかった。


「どこの誰かは知らねぇが、お兄さん、確かにこいつはあんたが捜してる本庄秦太朗だよ。だがしかしあんた、ちょいと拙いことに手を出そうとしてるねぇ」

 相手の口元には不敵な笑みがある。

 他人の血が滲んだ皮の厚い拳を見せつけるその顔には、薄汚い路地に流れ出すほどの自信が満ち溢れていた。


 志摩は思う。

 草間はただのチンピラだ。

 しかし富士田は本物だ。

 長年の経験に裏打ちされた自信溢れるその表情を見て、身体の中心がぞくりと震える。

 だが見せていいのは今ではなかった。昂ぶる感情は抑え込み、言葉を返した。


「拙いこと? 本当にそうかな? なぁ草間、あんたはどう思う?」

「はぁっ? 何お前、勝手に俺を呼び捨てにしてんだよ! それにどう思うじゃねぇ! そうなんだよ!」

 怒号を上げながら飛びかかった相手を志摩は難なく躱した。

 そのままバランスを欠いた相手の尻を蹴り、前のめりになった身体を組んだ拳で叩き落とす。

「てめぇ!」

 加勢に出た中年男の拳が頬を掠めるが、志摩はその腕を掴み取って身体ごと振り回し顔面を建物の外壁に叩きつけた。

「ぐあっ!」

 滞りない呻きが裏路地に響く。

 しかし構わず二度三度と叩きつければ、与えた暴力に比例して抗う力が薄れていく。


 志摩は思う。

 若造草間はただのチンピラだ。

 富士田は本物だが、自分より上とは思えない。

 相手の身体を背後から壁に押さえつけ、志摩は足を払ってより大きく開かせた。


「……武器は……へぇー、持ってないんだ」

 上着やズボンのポケットを手早く探るが、男の持ち物は皺になった数枚の紙幣と小銭だけだった。

「う、うるせぇ……」

「その拳が己の武器ってやつ? かっこいいね」

「だ、黙れ……」

 志摩は男の耳元に囁くと、再度その額を硬い壁に引き合わせた。


「こ、このクソ長髪野郎! こっちだ! こっちを向け! この野郎!」

 届いた声に振り向けば、どうにか体勢を取り戻したチンピラ草間がいる。

 その手にはナイフがある。

 気を失ったらしき男を手放し、志摩は怒号を放つ相手に殊更ゆっくり向き直った。


「で? どうするんだ?」

「どうするんだじゃねぇ! クソ野郎がっ! クソ余裕ぶちかまして、いい気になりやがって!」

 草間は怒気を放ちながら闇雲に駆け出す。

 弾かれたように相手の元へと飛び込んでくるその気概まではよかったが、ナイフを持った場慣れない手はただ突き出されただけに等しい。

「それじゃ、駄目だろ?」

 志摩は躱しついでに草間の腕を捉えると、頭突きを食らわした。

 思考が状況に追いつきもしないふらついた身体には、もう一度拳を叩き込む。ぐえ、と唸り声を吐き出して湿った段ボールと生ゴミの間に倒れ込んだ男は、呆気なく動かなくなった。


「さて」

 使い手がいなくなったナイフをゴミの中に蹴り飛ばし、志摩は中年男富士田の方を振り返った。

 意識を取り戻した男は額からの流血も物ともせず、眩んだ頭を振って破れた相手に再び挑もうとしている。

「おっさんの方が根性あるね」

 揶揄ではなく、真実感嘆の意を込めて志摩は呟いた。

 男の方へ歩み寄りながら懐に手に差し込めば、その場に潜む冷たい得物に触れる。

 まだ立ち上がれない相手の視線がそこに縫い取られているのが分かるが、志摩は緊張で凝り固まったその顔に向けて軽い笑みを浮かべて見せた。


「拳銃と思った?」

 男の傍に立って、志摩は手を上着から出した。

 その手に握られているのは言葉どおり鈍色の銃器ではなく、街灯の昏い明かりに照らされて微かに光る銀色の工具だった。


「この街じゃ銃を持つにはリスクがありすぎる。だからあんたも持たないんだろう?」

 志摩は男と同じ目の高さに屈んだ。

 相手の眼前に翳して見せた〝それ〟は、昨晩出番のなかった改造ペンチだった。


「俺は基本的に弱い者いじめは嫌いなんだ。つまんないからね」

 長年愛用する得物は街灯の下で、使い込まれたものが持つ輝きを放っている。

「でもあんたなら、少しは頑張れるかな?」

 気概ある男の目を覗き込んで、志摩は本当に楽しそうに笑いかけた。


 挟む、掴む、捻る、千切る、抉る。

 得物改造ペンチは効率のいい痛みを如何に最小の力で与えられるか、それだけを考えて改造してある。

 身体の一部のように馴染んだそれ、そしてその行為。

 見開かれた相手の目にはただ、己の有する嗜虐の闇が映り込んでいる。

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