2.バー『ダスト』

 今から向かおうとする青芝区美並は、様々な人や物がごった煮のように混在する地域だった。

 特に多いのは若者が集まるバーにクラブ、それに風俗店やラブホテルが連なり、その間を埋めるように昔ながらのぼったくりバーや外国人経営の怪しげなマッサージ店などが続く。

 混沌を思わせるこの街美並の夜には、そこでたむろう老若男女が入り乱れている。その中心部、様々な形態の飲食店が寄せ集まったビルの地下に、目的の《ダスト》はあった。


 名の如くゴミや吸い殻が散乱した階段を降り、重い扉を開けて最初に流れ出してきたのは威圧する音楽と喧噪だった。人々の声と大音量の音楽が混ざり合い、蠢くように震えている。大声で騒ぐ若者、しな垂れる若い女、甲高い声で笑う少女達……様々な体臭、酒や煙草、吐瀉物の臭い、ドラッグの気配が漂う。

 志摩は人混みを縫いながらフロアを横切ると、店の奥にあるカウンターバーに歩み寄った。


「瓶ビール、銘柄は何でも」

 緑に髪を染めたウエイターに告げると、志摩は再度店内を見渡した。

 客の年齢層は十代後半から二十代前半。皆、泡のように消えゆく刹那に必死にしがみついているように見えた。明らかな異物でしかない黒ずくめの男が入り込んでも皆自分達の周囲しか見えていないのか、こちらに注視する者はいなかった。

「はいよ、瓶ビール」

「なぁ、ちょっと訊くがここに本庄秦太朗って奴はいるか? シンって呼ばれてる金髪で鼻にピアスした」

「シン?」

 紙幣を渡し、錆びた栓抜きを手にしたウエイターに問いかけると、相手はこちらを見上げる。充血した目で見慣れない客を怪訝そうに窺うが、すぐに興味をなくしたように呟いた。


「ああ、シンか、いるよ。本名は知らねーけど、金髪だし鼻ピもしてる」

「今日、店には来てるか?」

「いんや、あいつずっとサボりやがってよぉ」

「ずっと? 大分前からシンは来てないのか?」

「ああ、だからオレは代わりに、ずうーーーーーっと働かされてるんだ」


 ウエイターとの会話は意外にも順調に続いた。ぼやきに始まり、店に対する漠然とした不満を誰かにぶちまけたかったのか彼はこちらに警戒心も見せずに、やや親しげな表情でいる。

 お喋りな情報提供者はもちろん大歓迎だった。しかし彼は頻りに瞬きをしながら、落ち着かない様子でいる。空調設備の悪い店内は確かに蒸し暑いが、タトゥーだらけの剥き出しの腕にやたらと発汗しているのが目についた。


「だけどさぁ、なんかあいつモテてるよなぁー。前にも厳ついオッサンが来て、おーへーにシンはいるかぁ? って、訊いてきてさぁ。だけどまぁ、いつもあいつに会いたがってるのはオッサンとか男ばっかだから、ちーっともうらやましくないけど」

「オッサン?」

「ああ、イキリ系のオッサンと若い奴。でも多分あれ、ヤバ系だよ。アニキと弟分って感じの」

 志摩はビール瓶に伸ばしかけた手を止めて、相手を見遣った。

 シン目当てに店を訪れた中年と若い男のヤクザ風。雨宮夕夏が出会した男達と特徴は重なる。だがそんな二人組など、この世にはどれだけでもいる。でも現状でその二人と彼らが別物であると、強固に言い切る理由もなかった。


「そいつらがさぁ、シンを連れてったんだよ。だからオレはずうっと働かされてるんだって」

「その男達が来たのはいつ頃の話なんだ?」

「はぁ? いつって、そんなのついさっきだよ」

「は? さっきって、シンはずっと来てないんじゃないのか?」

「へ? ずっとぉ……? オレぇ、そんなこと、言ったっけぇ……?」


 志摩は何も応えずに、その場で眉を顰めた。

 虚ろな目でカウンター向こうに立つウエイターはこちらの様子も気に留めず、人が注文したぬるそうなビールを勝手に飲み始めている。

 彼がジャンキーであるのはとっくに気づいていた。まともに話を聞こうとしたのは間違いだったのか。

 志摩は自分に舌打ちをするとカウンターを離れ、世界の終わりが来ても果てなく騒ぎ続けているであろう店を出て階段を駆け上がった。

 周囲を見回すが、変わらない人の流れしかない。

 相手の話がどこまで本当なのか分からない。だがもし、そこに真実が混ざっているとしたら、もう少しここに早く到着していた暁にはシンを捕まえられていたかもしれなかった。


「なぁちょっと、そこのニィちゃん」

 喧噪をくぐるように背後から、その声が届いた。

 訝しく振り返れば、そこには見覚えのない若い男の姿がある。

 首には太い金のチェーン、派手なシャツを着たわざとらしいほどのいかがわしさを漂わせた男が、煌めく夜の通りでにやついていた。


「ほんのすこーし、お時間いただけませんかねぇ。おとなしく俺らに付き合ってくれると助かります」

 慇懃無礼風を吹かせた相手は、口の端を歪めながらそう言って嗤う。その姿を目の当たりにして、志摩は思わず掌で口を覆っていた。


 男の佇まいや発言、それらはこちらを酷く不快にするものでしかない。

 けれど口を覆ったのはそれが理由ではなかった。

 そうでもしていないと目の前に転がり込んできたこの幸運に、笑い出してしまいそうだった。

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