4.ラブリーマイベイベー、しおりん
1.飯埜という男
「……ハロー?」
『今、私を起こさないでください。とても疲れています』
電話口からは、男の寝起きと思しき声が届いた。
その声は低く落ち着いたものだったが、隠しきれない微量の苛立ちが入り混じっていた。
「人を捜してほしい。至急だ」
だが志摩は構わず続けた。
電話向こうでは沈黙が流れ、暫しの後変わらぬ声が響いた。
『私の声が聞こえていなかったか? ついに頭だけでなく耳まで悪くなったか』
「男の名は《シン》、本名は不明、歳は二十才前後。小暮潮里という娘とこの数ヶ月付き合ってた。どこかの組のチンピラかもしれない。特徴は金髪に鼻ピアス」
志摩が再度構わず続けると、特大の溜息が届いた。身動ぎの気配がし、その後低く落ち着いた声が、最大限の苛立ちを伴って響いた。
『再び訊ねるが、志摩、私の声が聞こえていないのか? お前』
「いいや、全部聞こえてるよ。飯埜」
『そうか、それならばぜひ態度で示せ。先程も言ったが、私は今とても疲れている。お前と違って重要な仕事でこの異国の地を訪れているからな。昼間は取引先を巡る超ハードワーク、その疲れた身体を癒やそうとバーで拾った女達と夜更けまで十ラウンド決め込んて、今ようやく眠りについたところだ。どうだ? これで分かっただろう? ここまで至極丁寧に説明すれば、お前のような大馬鹿者でもこの現状が分かったはずだ。だからもうそのクソくだらない電話を二度と私にかけてくるな。今だけではない。これから先の未来永劫だ。分かったか? このクソ拷問好きのクソ変態サディストが!』
「ああ、それは自分のことだからよく分かってるよ。じゃ、頼んだ」
志摩はそう告げると電話を切った。
だが向こうの男も再度の悪態をついて、同時に電話を叩きつけているはずだった。
「大丈夫……? なんかすげー怒ってなかった? 飯埜さん」
「気にするな。あいつはいつもああなんだ」
周囲にも漏れ出ていた男の怒声を聞いてから、数時間後。
志摩の耳元には、再び低く落ち着いた声が届いていた。
『《シン》、本名は
電話向こうの声は、こちらに構うことなく続いている。
『……勤務先は青芝区
一方的に始まった報告は礼を言う間もなく、一方的に終わっていた。
通話を終えた電話を手に、志摩は海の向こうにいる男のことを思った。
警察組織に十年以上もいたあの男は、情報を獲得する術を知っている。その頃とは真逆の組織に関わってからの年数は僅かでも、既にボスの信頼を得ている彼がこの仕事を引き受けるべきだったと再度過ぎる。だがこうなった現状を思えば、そう思うこと自体が詮無いことだとは分かっている。今の自分がやれることをやるだけだと自らに言い聞かせて、志摩は周囲の雑踏を見渡した。
既に数時間前から、志摩は青芝区にいた。颯と二手に分かれて始めた《シン》改め、本庄秦太朗の捜索は大きな収穫も得られずに、腕時計の針は九時少し前を指していた。
目の前では、絶えることのない人の流れが行き交っている。
この青芝区はあまり治安のいい街ではなかった。ここでは平穏な生活を送る人々と同等に、陰を歩く輩がいる。うかうかと浮かれた顔で迂闊に街を歩けば、あっという間に潜んだ獣の餌食にされる。そんな物騒でしかない街で地味で効率も悪い捜索を続けていたのは、情報を得る他にもう一つの思惑があったからだった。
本庄秦太朗、それに雨宮夕夏を脅した男達。
こんな表立ったやり方で彼らを捜し出そうとすれば、その当人の目に触れる可能性もある。何も知らない少女を脅してまで、存在を嗅ぎ回られたくなかった奴らの目に止まれば、労を抗さずとも欲しいものを差し出してくれるかもしれない。それが情報網もマニュアルも持たない自分達ができるやり方だった。
志摩は懐に潜ませた己の得物に触れた。冷ややかな感触を持つ〝それ〟の重みは、他人には得難い緊張を感じさせてくれる。
飯埜が言い放ったあまりにも的確な揶揄を思い出せば、微かな笑みが漏れた。
「颯、飯埜から連絡があった」
志摩は颯に連絡を取り、電話越しに飯埜から得た情報を伝えると今後の予定を告げた。
「俺は今からその《ダスト》に行ってみる」
『そっか、分かったよ。じゃ俺の方は? まだこっちで捜索続けてればいい?』
「いや、お前は本庄の自宅に行ってみてくれ。歩いて行ける距離だ。住所は今、伝える」
颯に行き先を伝え、通話を終えると志摩は次の目的地に足を向けた。
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