2.新たな仕事

1.朝

 志摩ハルカは、彼らと同じ歳の頃には既にこの世界に深く足を踏み入れていた。

 それから十年近く。

 これまでの人生を思い返す時期もなく、この先も恐らく同じことを繰り返すであろうその人生に疑問はない。



 身体に感じる重みと温もりで、志摩は目を覚ました。

 上にした左肩に乗せられているのは細い腕で、爪の間には落としきれなかった土が入り込んでいる。

 微かな寝息を漏らす気配が確実に背後にある。しかしそれには眉を顰め、深い息を吐くしかなかった。

 そこにあるものは至極温かく、柔らかいものと知っているが絶対に触れたくはない。静かに身を返し、背後の物体に気づかれる前に無言でベッド下へと蹴落とした。

「きゃっ」

 短い悲鳴が響き、床上に何かが転がった音が届く。志摩は一緒にずり落ちた毛布を手繰り寄せると、中断した眠りを再開させるべく目を閉じた。


「痛い! 酷い!」 

「勝手に人の寝床に入るからだ」

「へー、それじゃあ勝手じゃなきゃいいんだー?」

 続く戯れ言は当然無視する。けれどそんなことなど全く意に介しない相手の気配が再び迫る。目を向ければそこにはきっと、チェシャー猫の如く笑う花の姿があるはずだ。

「だったら、ハル……」

「だったらもクソもない、何があろうとお前には絶対許可しない」

 懲りない相手の手が再度肩に触れる。志摩はその手を掴んで捻り上げると溜息交じりの声を向けた。


「いい加減にしろよ、花」

「ねぇ、痛いよ、ハル……分かったから、言うこと何でも聞くから、もっと優しくして……」

 ややきつく言い渡したが、思惑以外の展開が待ち受ける。颯の着古したTシャツとトランクス姿の花は、怯むどころか腕を庇いながら、か弱い表情を浮かべて見せる。

 彼女の唇から零れるのは、ほとんどが嘘と謀りばかりだ。被害者と加害者の立場はいつの間にかすり替えられている。もしこの場に第三者がいたなら、大柄な男が華奢な少女をいたぶっているようにしか見えようがない。 


「……花、部屋に戻れ。一応言っておくがお前の部屋はここじゃなく、隣だ」

「そんなの分かってるよ」

 手を離すと、いつもの表情に戻った相手が胡座をかいてこちらを見る。

「分かってるなら早く戻れ。それと前から言おうと思ってたが、今言っておく。お前がこうして俺のベッドで寝たとして、その間に颯に入れ替わってる事態を一度想像してみろ。そうなった時の俺の感想はただひと言、ゾッとするだ。これに関してはお前も同意見だと思ってたが、もしかして俺は甚だしい勘違いをしているか?」

「えっーと……うん、まぁ……それもそうだね……」

 言い連ねると相手はようやくベッドを離れる。

 同居を始めて約半年、度々陥るこの件について志摩が割合真剣に危惧しているのは事実だった。最終手段の説得として使ったが、向こうがあまり真剣に捉えていなかったのなら、伝えて正解だったようだった。


「じゃ、またあとでね、ハル」

 扉が閉まり、自室に戻っていく足音を聞きながら志摩は再び横になって天井を見上げた。

 彼女は簡単に相手の懐に入るが、無駄と思えば必要以上に押したりしない。その様は以前勝手に部屋に居着いていた雌の黒猫を思い出させる。

 自分が触れられたくなければ牙を剥いて威嚇するくせに、甘えたい時はこちらが拒否しても傍で当然のように眠りこけていた。餌をくれる家を渡り歩いていたらしき彼女黒猫はある日突然現れて、気づいたらいなくなっていた。

 猫と自分を翻弄し続ける少女。共通点は多々見られるが、気まぐれなあの小さな獣より花は言葉を話せる人である分、数段タチが悪いと志摩は思う。


 傍の時計に目を移せば、七時を少し過ぎたばかりだった。

 仕事を終え、部屋に戻ったのが五時。それから交代で風呂に入って、別々のベッドに入ったのが六時前。ボスの所に報告に行く時刻は十一時。まだ眠る時間は充分にあった。

 寝溜めなどに意味があるとは思えないが、眠れる時に眠っておく。それは十数年前の浮浪生活で得た教訓だった。しかしながら既に目は冴え、その教訓は果たせそうもなかった。


『私達は身体を共有した双子なんだよ』

 眠りが霧散した志摩の脳裏を、ふと過去の言葉が巡った。

 それは双子の変化を初めて目の当たりにした相手に、花が言った言葉だった。

 共有とはどういうことなのか。果たしてそんなことなどあるのだろうか。

 颯と花。一方は、もう片方が意図して創り上げた別人格とは言えないだろうか。

 そんな疑問を浮かべた相手に颯は言った。

『一つが二人になったんじゃなく、俺達は最初から二人で一つなんだ』

 二人で一つ。

 颯と花の入れ替わりに法則はなかった。

 先程まで颯だったはずが、気づけば花に変わっていることもある。

 逆に数週間も変わらず、ずっと颯でいる時もある。


 颯との相棒関係は上手くいっていると志摩は思っていた。

 勘のいい彼は何でもそつなくこなす。颯と《身体を共有した》花も同様だった。

 けれども花は自らの聡明さを逆手に取って、わざとトラブルを起こそうとするきらいがある。要は彼女はとても性悪で、傍にいる者は常に気を張り詰めている必要がある。

 自らが隠し持つ狂気を窺わせない容姿を持つ花は己の魅力も充分知り得ていて、その上で危うい者を誑かす。その危うい者の中に自身も含まれていることを、志摩は自分でも分かっていた。だが花は《身体を共有した》颯でもある。そうなれば常にどのような判断を下せばいいか、結論は自ずと導き出されるはずだった。


 眠りを完全に諦めた志摩は、自室を出てリビングに向かった。

 遮光性の低いカーテンからは朝の光が差し込んでいる。

 ソファに放置していた泥汚れた服を端に押しやり、腰を下ろして溜息をつく。

 どちらも相棒として過不足はないが、できれば目覚めた時に颯に入れ替わっていることを願う。

 花と颯を比べて優劣をつけるつもりはないが、やり易さを考えれば若干颯が上に立つ。しかしそう感じていることを既に花には悟られているようにも思えて、もう一度溜息が零れた。


 コーヒーでも淹れようかと腰を上げた時に、どこかで鳴り響く携帯電話の音が聞こえた。脱ぎ捨てた服を掻き分けて探し当てた電話に出れば、耳には聞き慣れた声が届いた。

『あー、志摩? アタシだけど。今日ちょっと早く来られる?』

 いつも掠れたボスの声は珍しく困って聞こえる。

 それがよくない前触れであるのは、十二才から彼女の部下として働き続けた十五年の実績がなくとも分かることだった。

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