2.逃げる男 (2)

 この数年、雇い主ボスの儲けの一部を密かに懐に入れ続けていた。見つかれば、失うものの方が多いこの背任に手を染めたきっかけは何だったろう?

 妻より何倍も美しい女のためか? 喉から手が出るほど欲しかった高級ヨットのためか? ステイタスの粋を極めた豪華な別荘のためか? 欲望に忠実に突き進む己の中に、危機感や後悔は一欠片も存在しなかった。その流れに逆らわず深部まで行き着いたそれは、いつしかボスの利権に手を出すまでに至っていた。けれどそんな自分でも引き際は分かっていたはずだった。だから全てが明るみになる前にそれらを手みやげに新たな場所で、また新たな地位を得る手筈だった。

 だがその計画も潰されていたとは気づいていなかった……本当にあれは間違っていた……こんなことならあの卑しい! それなのにこいつ……責任だと? 信頼だと? あのボスに? あの忌々しい性倒錯者の雌豚に?


「し、信頼? だったら頼む、お前に頼もう!」

 麻生は蘇った怒りで絶望を抑え込むと、新たな交渉の種を胸に相手を見上げた。

 目の前の相手に、得も言われぬ畏れを抱いているのは確かだった。

 でもこちらの人生の半分も経験していない相手少年に、交渉の余地はまだあると謀る。それに以前、麻生は幾度かこの少年を見た記憶があった。少年は今晩と同じく薄汚い服装で、ボスの部屋の高価なソファーに手持ち無沙汰に座っていた。けれど眉を顰めるその場違いな格好より、目を惹いたのは少年の見た目だった。

 長めの髪に顔は青白く、この年代特有の危うげで華奢な身体つきは性別の境界線を曖昧に見せていた。同性に性的興味がない自分でも煽られるものがあったのを覚えている。今夜ここにある姿を見ても再びそう思う。恐らくあの女ボスの悪趣味の一環で、そのような性癖を満たす店から拾い上げた代物ではとそんな邪推を過ぎらせれば、続く言葉は出ていた。


「お前ならボスに口利きできるだろう?」


 しかしそう発してすぐに麻生は後悔していた。

『目の前の相手は己より下位の人間でしかない』

 そんな思いが思わず言葉端に滲み出ていた。 

 だが後悔しても、遅かった。湿り気を帯びた暗闇に冷然とした気配が混じり込んでいくのを感じ取っていた。


「あのさ、俺さっさと済ませて帰りたいんだよ。ここ寒いし、もういい? 浅生さん?」

 少年は変わらぬ口調で麻生の名を初めて呼んだ。

 声は穏やかだったが、裏には真逆の粗暴な気配が潜んでいる。

 最後の絶望は自ら足元へと招き入れてしまっていた。今夜幾度目か分からない後悔を身に染み入らせながら、浅生はじきにどうでもよくなるであろう記憶を呼び覚ましていた。


 少年はいつも背の高い若い男と一緒にいた。長い髪を後ろで括った全身黒ずくめの男の名はハルだったか、シマだったか、二文字だった気がするが、元より覚える気もなかったそれを今更思い出せるはずもない。

 時折ボスに呼ばれてやって来た彼ら。小遣い稼ぎに安い仕事を貰いに来たチンピラの類、ただの碌でもない連中としか認識していなかったが、違っていた。

 彼らはいつも重要な件で呼ばれていた。

 重要な件――。

 それはボスの商売の妨げになる者や背いた者、

 その者達に下される制裁及び排除。

 彼らが請け負っていたのは正にそれだった。

 

「頼む……殺さないでくれ……」

 今夜彼らに命じられたのは、裏切り者である自身の排除。

 ボスの持ち物の一つである埠頭の倉庫。誰からも忘れ去られたその場所に盗んだ金を隠し続けていた。しかしこの企みを知られていたのと同様に、自らの破滅が近づいていることにも全く気づいていなかった。

 大金を前ににんまりと笑んだ背後に、突如現れた二つの影。

 彼らの不意を突いて、必死の形相で暗闇を無様に逃げ回ったが、逃れられたのは一瞬だけだった。

 コンテナの影で蹲る背に躙り寄っていたのは、己の全てを奪う恐るべき絶望……。


「た、頼む……」

 華奢な少年は手ぶらだ。ナイフも銃も手にしていない。たとえ手慣れていなくとも、標準を多少上回る体格を持つ自分にも分があるかもしれない。

 けれどもその考えは瞬く間に消えていった。長年の裏社会人生で身についたのは裏を掻くやり口だけでなく、自身が置かれた状況に対する勘。

 自分はもう逃げられない。この少年は自分を殺す。

 こうなることを見抜けなかった自分にも、それだけは確かと分かる……。

「わ、私は……」

 声は嗄れ、小便が股を濡らしていた。


「もう喋んないでよ、何言ったって結果は変わんないから」

 今晩の少年の姿を、浅生はその時初めてはっきり目にしていた。

 そして戦慄する。

 驚くほど整った相貌に美しさと共に見えたのは、限りない無情。

 頼む、助けてくれと最後の懇願の声は、発せられなかった。

 死を認識する間もなく、彼の目にはもう何も映らなくなった。

 

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