月と花
長谷川昏
1.颯と花
1.逃げる男 (1)
男は暗い道を闇雲に走っていた。
なぜ私がこんな目に?
しかし何を思おうと、彼が直面する事態に変化は訪れなかった。
「……た、助けてくれ……だ、誰か……」
深夜、海沿いの倉庫街。
駆ける脚は縺れ絡まり、混濁する息が耳に障る。
肌に擦り寄る汐のにおいと、コンクリートに打ちつける波の音。向こう岸では港の灯りが、乱れた息遣いに同調するかのように点滅している。
自分を追う者から、ただ逃げ続ける。
命を賭して彼は駆け続けるが、懇願の呟きは湿り気を帯びた暗闇に消えていくだけだった。
「も、もう、だめだ……」
急激な体力の終わりを感じて、彼――
再び立ち上がろうとするが、それは突如目の前に現れた昏い人影によって阻まれていた。
「お、お前……」
立ち塞がった相手は何も言わずに立っている。黒いパーカーにジーンズ、汚れたスニーカー、ラフなその格好から随分年若いように見える。
再度麻生の心の中を絶望の文字が過ぎっていった。でもまだ全てを諦める訳にはいかなかった。
「な、なぁ君……わ、私には分かってるんだよ」
震える膝を押さえながら、麻生は相手に呼びかけた。
「……き、君だってこんな仕事は本当は嫌なのだろう? 見たところまだ十五、六ぐらいだ……、もし私を見逃してくれたら、これからは私がもっといい仕事を回してやってもいいんだ……」
歪んだ表情に媚びた笑みを貼りつかせて、麻生は言葉を連ねた。放った言葉はその場しのぎのでまかせでしかなかったが、現状をやり過ごさなければ明日の夜明けも見られない。口八丁は一番の得意事だった。それを武器にしてこれまで生き延びてきた側面は多分にある。培ったその能力を発揮しなければならないのは、今この時であるはずだった。
「……これから、俺に、いい仕事?」
「あ、ああそうだ……だから割に合わないこんな汚れ仕事より、もっと……」
「ねぇ、残念だけどそれはないよ。悪いけどそっちのツテはもう潰されてる」
しかし畳みかけるはずの言葉は遮られ、麻生は暗闇の表情を見上げるしかできなくなる。
相手の言葉がその場しのぎのでまかせでないのは、声色から伝わっていた。自分に残されていたはずの望みがとうに消え去っていた事実を突きつけられ、今自分にできるのは地面に力なく尻をつくことだけだった。
「だからいい仕事だとか、それで見逃してくれとか言われても、元より何もない」
暗闇から淡々と続く言葉から伝わるのは、ただ一つの仄暗い感情だった。
どれだけ拒もうとも、確実に触れさせられるであろう〝それ〟をひたすらに畏れ、麻生は己の
「た、頼む! お前には何でもやる! 欲しいのは、金か? あ、あの場所に行けば、幾らでもあるんだ! わ、私が案内する! 幾らでも望むだけお前にやるから、頼む!」
「あのさ、金をやるって言われても俺、生きてく上でお金はもちろん大事だと思ってるけど、それ以上に与えられた仕事を責任持ってやり遂げるとか、信頼だとか、そういうのがより大事だと思ってるんだよね」
相手は鬱陶しいとでも言いたげに縋った手を振り払う。こちらを見下ろす顔には、交渉に悩む様子は何一つ見取れなかった。
金に相手の心は動かない。最後の砦も崩された。
麻生は仕立て上がったばかりのスーツに汚水が滲み込んでいく不快さも忘れるほどに、再びの絶望を味わっていた。四十を過ぎ、一定の地位も立場も得たはずの自分がこんな醜態を晒している現状がただ信じられない。
あれは間違っていた。
ふと幾許かの後悔が心に漂う。
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