図書室少女とヤンキー少女
『推し』という言葉の意味は解っているし、私にもそう呼べる対象がいないことはないから、その感情も多少はわからないでもないんだけど。
それが実在する人間で、しかも特に著名人でもない、ただの同級生のことを指しているとすれば、まあ、ちょっとわけがわからない。
私なんかに、どういう想いでそういうことを言っているのか、私なんかの、どこにそんな美点を見出したのか。
何一つわからないままに、私の目の前で、赤みがかった茶髪を揺らしながら、
そんな姿に私はため息を着きながら、持っていた小説をぱたんと閉じて、その顔に呆れを込めて視線を送る。
「私なんか構ってなにがたのしーの?」
「んー? なにってわけでもないけどね、でも『推し』と喋るのはたのしーよ?」
「そう、私『推し』って言われるの嫌いなんだけど」
「へえ、なんで?」
「さあ、知らない」
「えー、何それ?」
そう言って、片耳に空いたピアスを揺らしながら笑うその様に、私は少しだけ息を吐く。
理解不能で意図不明。
ただ自分に、それがどれほど意味不明でも、好意を向けてくる人間を、無下にするわけにもいかないから、傍にいるくらいは許容するけど。
果たしてこいつは一体何なのか、一体何がしたいのか、それがどうにも掴めないまま。
「あ、そうだ。おっぱい触っていい?」
「触ったら廊下の壁の染みにするから」
……とりあえず、気持ち悪いことだけは確かだね。うん。
※
そもそも、七條七海と私は同じクラスだ。といっても、夏休みが終わった今に至るまで、まともな会話は、私が記憶する限り二・三度しかない程度の間柄。席は隣だけど、会話することもほとんどない。彼女の周りにはいつも、同じような明るい髪の友達が取り巻いており、休み時間もその他の時間もいつも騒がしくしているばかりだ。
まあ、華の高校生活だし、そっちのほう健全だから、それを疎ましいとか、五月蠅いとか想うほどではないけれど。私とは住む世界が違う人間だとは、確かに想う。
教室で静かに小説を黙々と読む私と、彼女の世界は到底交わるものではなかった。
私が彼女の『推し』になるまでは。
一度、習い事の帰り、深夜に偶然出会ったことがあって、それ以来なんでか随分と私を気に入ったみたいだ。
それからは何かと私を構うようになったけど、そこまで至る意味はちょっとよくわからない。かといって、どうしてそうなったの聞くのは、なんか……めんどくさい彼女みたいでなんか嫌だ。
なので、よくわからないまま、私は今日も謎の構われを発揮している。
「…………どーしたの、みかげ。こっちみて」
「…………なんでもない」
最初は何かの悪ふざけかとも想ったけど、悪ふざけにしては期間が長いし、たまにするセクハラまがいのムーブも、演技でやってるなら大層なもんだよ。時々見える、いやらしい視線まで演技だと言うのなら、そのまま役者になることを推薦してもいいくらい。
普段、あまり会話する相手もいない私にとって、まあ、話しかけてもらえるのはそんなに悪い気分でもないわけで。あまり邪険に扱いすぎるのもどうかとは想うけど。
「そーいえば、私触っただけでカップ数わかるんだけど、おっぱい触っていい?」
「……しねばいいのに」
邪険に扱わなけれならない理由も確かにあるのが困ったとこだ。これで感性がまともだったら、私も少し明るい友達ができたくらいで喜んでいたって言うのに。
はあ、とため息をついていると、とことこと七條七海の指が人が歩くみたいに、私の方に迫っていた。腕を登って、そのまま脇まで到達しそうになったから、持っていた小説でしばいておいた。借り物の本をこんなことに使わすんじゃないよ、まったく。
にひひ、とそんな対応すらどこか愉しんでいる七條七海を、横目で見つめながら考える。
はてさて、本当に私なんかの何がいいのか。そして、『推し』だというのなら、その推し活動はいつまでつづくのか。
なんとなく、読みかけの小説に眼を落として、少しだけ想いを馳せる。
だって、『推し』って結局、なんだかんだと寿命があるものじゃない?
そんなことを考えた。
※
子どもの頃好きだった魔法少女は、小学生に入らないくらいで卒業した。周りの空気がそうだったなっていうのもあるし、なんとなく自分でも気付けば違うものが好きになっていた。
小学生に入って、図書室でのめり込むように読んでいた青い鳥文庫のミステリー小説は、結構新刊も出てるらしいけど、さすがに今はチェックしてない。
中学生に入るころに揃えていた少女漫画のレーベルは、気付けば少しだけわざとらしくてうぇってなる。
あんなに喜んで付けていた、ポケットに入る黄色い鼠のストラップは今では、勉強机の奥の引き出しに、ほこりをかぶって眠っている。
高校生になると、むしろ趣味はころころ変わって、読んでいる小説も、漫画も、音楽も、動画も一か月前に熱心に取り組んでいたはずのものが、気付けばすっかり過去になっていて。本当に自分は一か月前の自分と同じ人間なのかな、たまに不思議になるくらい。
そういうことを感じるから、最近は意図的にあんまり趣味を変えてない。
できるだけ、同じものを長くじっくり味わえるように、そうやって感じる自分はすくなくとも同じ人間だと、そう信じ込んでいる。
別にそれで何が変わるわけでも、何が変わらないわけでもないけれど、そんな、なんとなく不安に後押しされるまま、私はすっかりと同じものばかりを選ぶようになっていた。
「その小説、前も読んでなかったっけ」
「うん……これで五週目くらい」
七條七海がふと気付いたようにそう尋ねてきたから、私はあまり表情を動かさないようにして頷いた。
「ほへー、いいなあ。そういうちゃんと読み込んでるの、私、一回読んだらそれで終わっちゃうからさあー」
彼女はそう言って、あきしょーなのだ、とおどけて肩を竦めていた。私はそんな彼女の様子を眺めながら、合わせるように肩をすくめる。
「別に、なんかすぐ次のに行っちゃうと、この本を読んで感じたこと、忘れそうになるから、何回も読んでるだけ」
そういう意味では、ただ変わることを恐れているだけというか。そんな些細な変化で自分の芯が解らなくなる程度には、あやふやな人間ってことなのかもしれない。……やっぱり、こんな私に『推し』っていうこいつはおかしいんじゃないだろうか。
そう考えると、少しだけ頭が痛くなってくる。
なーんか自分が情けなくもなって来るし、なんでこんなこと考えなきゃいけないんだろって感じもする。
それのせいで、ちょっと集中力が切れたから、そっと小説を机に裏返してふぅとため息をつく。
ただそんな私を、七條七海はどこか楽しげに眺めていた。
「いいじゃん、そういう自分から見たらくだらない理由でやってることが、端から見たら、意外とすごいと想えたりするもんだよ」
そうやって、なんか急に年上みたいなことを言い始めた彼女を見ながら、私はふうんとぼやけた相槌を打っていた。ちょっと照れそうになったから、視線だけは外しておく。
「ところでみかげさあ」
「なに?」
「揉むのがだめならワンタッチ―――」
「死んじゃえばいいのに」
「―――は冗談として、最近なんか推してるのはないの?」
照れで一瞬紅潮しかけた頬が、急激に覚めるのを感じながら、私は適当に鼻を鳴らす。
しかし、私の推し、推しねえ……。
「最近はない、あんまり」
机に突っ伏しながら、ぼやくように応えると七條七海は少し意外そうに首を傾げてきた。
「あれ、ずーっとそのシリーズ読んでいるけど、推しじゃなかったの?」
そう言って、私が読んでいる小説を指さしてくる。その問いに私はうーんとうなるばかり。
「まだ、言うほどこれ、読み込んでないから」
「……五回も読んで?」
「というか、これシリーズ外伝みたいなやつだから、本家はもっとあって、そっちも半分くらいしか読んでないし」
「へえー、で、全部何周したの?」
「……今読んでる分は、最低三周ずつくらい」
「それ、もはや推しでわ……?」
私の答えに、彼女は訝しむように眉根を寄せた。ええ、三周くらいで? 世の中にはに十週も三十週もしてる人がいるっていうのに?
「いや、そんなん関係ないから。好きで読んでるんだったら、それはもう推しでいいじゃん。私もみかげのこと、推してはいるけど、人に比べたら全然知らないよ」
そこで私を比較対象に出さないでほしいんだけど。
「ああ、でも最近観察しててねえ、よく食堂でたぬきそばを食べてることは知っているよ?」
勝手に人のプライベートを探らないでほしい、っていうか食べてるとこ見られてたのか、全然気づかなかった。たぬきそばばっかり食べてるのは、小説代を出すために、安い物を選んでたべているだけなんだけど。
「てまあ、それは置いといて、別にそこまでいったら推しでよくない? 充分好きじゃん? まあ、そういう言い方にこだわる人も偶にいるから、わからないではないけどねー。推しじゃない、神だとか、信仰対象だとか、生きがいだとかとかとか」
いやあ、そこまで言ってはないけれど。……ただ少しだけ、推しという名前を付けるのに抵抗があるのは、確かにそうなのかもしれない。
なにやら、彼女の知り合いの変わった推しを紹介してくれている姿を眺めながら、ぼんやりと肘をついて考える。
推しという言葉に、抵抗を抱いたのはいつからだっけ。
一体、なんの頃だっけ。
そうやってしばらく考えて、少しだけ息を吸って。
そうして、未だに何やら熱弁する七條七海の茶色の髪をぼんやりと眺めているとき、ふと瞼の裏にちらつくものが何かあった。
まだ十六年ぽっちしかない私の記憶の中で、忘れられていたたくさんの記憶。その名残のような感情の残滓。
「小学生の頃、『――――』っていう小説が好きだったの」
ぽつりと唐突に喋り始めた私に、七條七海は少し驚いたような顔をしたけれど、やがて優しく微笑むとうんうんと話を聞いてきた。
「すっごい好きで、人にも紹介するくらい好きだった。推しキャラとかもいてさ、何かとその話ばかりするから、親に少し呆れられたりもしたくらいだったんだけど」
今でも多分、勉強机の隅を探せばあの時集めたグッズがきっと残ってる。
「でも、中学生になって、ふと気付いたら、そんなこと全部忘れてたんだよね。親に、あんたそういえば、ずっと推し推し言ってたあれはどうしたのって。そう言われちゃって、あれ、私ももうあの頃みたいには好きじゃないじゃんって。最新刊も読んでたけど、なんか前ほどいっぱい読み返したり、たくさん感動したりはしなくなっちゃってた」
少しほこりを被ったまま。
「そうやって、あれだけ好きだったものなのに、忘れちゃんだって、我ながら結構ショックでさ。大事だったものを、自分が忘れちゃうって、そんな自分がちょっと不誠実な気がしてさ」
きっとまだ、私の引き出しの奥の方で眠ってる。
「だから『推し』って言葉はちょっと苦手。いつか飽きちゃうものだから、多分、熱中すればするほど、いつかは飽きちゃうものだから」
それからふうと息を吐いた。
我ながら何を語っているんだろう。こんなこと聞いても、彼女にはなんの得もないし、面白みの欠片もない。
やめやめ、今の話はなしってそう言いかけて、私は七條七海を、はっと見た。
そうやって見止めた彼女の瞳は、私のことをじっと見つめながら、すごく優しい表情で笑っていた。ちょっと優しすぎるような表情で。
「ふふーふ、そうだねえ。いつか『推し』を好きじゃなくっちゃうかもしれないのは、寂しいね」
そんな彼女の表情を見ていて、あれ、もしかして私なにかまずいこと言ってないかと、少しだけ冷や汗が流れ落ちる。そんな私を置いて『誰が』という主語が省かれた文章を彼女は朗々と語り続ける。
「でも、今、推しが好きなことは確かな事実だから、それでいいんじゃない。新しい物が好きになっても、それはそれでいいんだよ。ちゃんと好きだったって記憶は残るわけだし。寂しいけれど、それはそれでいいんじゃない?」
彼女の表情は相も変わらず優しくて、どことなくにたにたと笑みがこぼれそうになるを必死に抑えているようでもあった。
「それに、意外と何かの拍子に、また好きになるかもしれないよ? それか意外と飽きなくて、ずっとずっと好きかもしれない。実は死ぬまで飽きないかもしんないよ?」
『推し』に寿命があることを、私は言った。そしてそれを寂しく感じていることを、私は言った。そして、私は彼女に自分が『推し』扱いされることを嫌がっている。
これが導き出す答えとは。
「そっか、
―――私が彼女の『推し』でなくなるかもしれないことが。
そうして、優し気だった笑みが一気に崩れて、にたにたとほくそ笑む表情が前面に出始めた。
しまった、と想った時にはもう遅くて。
「ねー、ねー寂しいの? やっぱり寂しいの? 『推し』が『推し』じゃなくなることが寂しいの? 誰の『推し』とは言わないけどさあ?」
「う、うるさいっ! 図書室なんだから、静かにして!!」
「ふふふー、そっかあ。そっかあ。さびしーのかー」
「うーるーさーいっ!!」
顔が真っ赤になるのが嫌でも自覚できるくらい熱かった。
「私は結構、一度『推し』にした相手は飽きないよー?」
「うーるさーいって!!」
そうやって、夕暮れの中、真っ赤になった顔を隠しながら、言い訳みたいな言葉で私はその場を必死に誤魔化していた。
燃えるように熱いのは、夕焼けのせいで、私のせいじゃ絶対ないし。
私が『推し』の寂しさについて語ったのは、あくまで私の好きな物の話であって。それ以上でも以下でもないし。
別にこいつとの関係をどうこう言ったわけじゃないんだって、そんなことを静かな図書室で一生懸命に声に出していた。
そうしているあいだ、七海はひどく、とってもひどく愉快そうに、楽しそうに、嬉しそうに笑っていた。
帰り際、図書委員のお姉さんに、お喋りはいいけれど、もう少し静かにしてねーとやんわり注意されてしまった。ああ、もう全部全部七海のせいだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます