第5話 嵐の前の静けさ

 中隊が初めて本格的な戦闘を経験したのは後にパブロフの家と称されることになるコンクリートでできた4階建てのアパートへの攻撃である。このいかにも価値が見出せない拠点では4回敵味方の主導権が入れ替わる激戦が発生していた。なんら変哲のない古風の住居が両陣営に大きな損害を被ることになることは誰にも想像できなかった。

ルーペ少尉に進撃の命が出たのは3回目の主導権争いに参加する時である。

ブリーフィングで集まった分隊長その他下士官たちは皆何かの経営会議に参加しているようなそんな雰囲気だった。

参加したアリスはその雰囲気を「不気味なほど落ち着いた。」と形容した。

「流石に主観が入りすげてますか。」とルーペに問う。

彼女は笑いながら「そんなことないよ。」と伝えた。

「現場作業はあんなものさ。これは作業だよ。いかに効率よく進めるか。想定される注意点を共有できるか。あとは私たちが生きて帰れるか、だね。」

あっけらかんとする彼女におもわず、「そんなこと言わないでくださいよ。」と返した。

「これは言っていないことだけど、主導権は向こうへ移ってしまってるんだ。その際に損害が出てる。向こうはこちらを待ち構えているんだよ。」

ルーペはメガネを外し、レンズを拭いた。

「今までの一方的なものとは違ってくる。前回みたいなアイリスの戦果や隣の小隊が敵の斥候部隊を葬ったのとは違うだろう。今回は奇襲や待ち伏せじゃないんだから。もしかしたら半分は帰ってこないかもしれないよ。」

下士官といえば皆そこそこの年齢である。家族を持ち自由時間には手紙を書く者、蓄音機で部下と共に暇を潰す者、野球をして憂さ晴らしをする者、中には一緒に酒場で騒いだ者もいる。彼らのうち何人かは戻って来ないかもしれないと思うと、背中を引っ張られる思いだった。


フーはニコニコと通信機を整備している。ようやく自分にも出番が回ってきたことに前向きになっていたのだ。先輩たちと共に器具をチェックし、問題がないことを確かめた。埃ひとつないように振り上げ「これであたしも一人前か。」と意気揚々だった。こっそり覗いた中尉からは「もう失敗しないようにね。」と一言言われたがそれすらも華麗にスルーできるくらい精神状態は落ち着いていた。


ランドメッサーは歩兵の隊員たちと喋りながら火器の整備をしている。クラフトマン曹長はその会話を影から聞いていた。

「汽車に乗る前にみんなで食った魚のコロッケ美味かったよな。」

「魚のコロッケ?」とシェパード青年は答える。

「あれはフィッシュケーキだ。田舎者め」ハンスが横から口を出す。

「ケーキ?あれは甘くないぞ。どこの世界に揚げたケーキがある。あれはジャガイモのカツレツだ。」とアンナが口を尖らせる。

曹長は彼らに近づく中尉に気がついた。「娑婆の空気が抜けきれていない。」と意見を言いに行こうとするソルベ中尉を彼らに会わせてはならない。すかさず別件で話をつけその場から離れさせた。


アイリスとシュリーフェンはともに自分達の火器を点検していた。チャージングハンドルを弾き、引き金を引く。撃針が上手く作動しているところを確認する。ポスンとボルトの重い振動がグリップを押す手にかかった。照準を確認し、三脚の可動域を再確認する。右に左に、固定具を外し上下にも動かす。

コンドルが戻ってきた。家族へ手紙を書いていたという。

「弟に子供ができてね。叔父さんになっちまったよ。」と恥ずかしそうにぽりぽりと頭を書いたその姿は珍しく丸い。

「弟くんの友達紹介してくれない?」

「伍長にですか?あいにくみんな出世できるほどの頭を持っていませんよ。」彼はやんわり断った。

「アイリスは彼氏いないの。」

「私みたいなゴツい女好きになるやつはそうそういないぞ。職場恋愛ってのもなあ。」

伍長は遠い目をした。


メリッサはその場でも1人でいた。数十分後には出発である。心の準備ができていなかった。母親からもらったお守りを大事に握り締め涙を堪えた。

神は試練を乗り越えられる者のみ試練を与える。そう言われた言葉を心の中で呟き、小さく隅に座り込んでいた。

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