第2話 転生令嬢は仕事が命

 イーディス・マクレガー。17歳の侯爵令嬢。

 それが、今の私だ。


 淡いローズピンクの波打つ長い髪。朝露に濡れた新緑のように鮮やかなグリーンの瞳は、ややつり目ながらも大きくパッチリしている。


 宰相を務めるお父様、優しく美しいお母様、王子の側近を務める優秀なお兄様。大きな屋敷にたくさんの使用人。何もかもが前世とは違う、この世界。


 イーディスが前世の記憶を持っていることに気付いたのはわりと早い時期であった。


 それは8歳のとある日のこと。その日は、父に代わって領地運営をする母にくっついて執務室をうろちょろしていた。


 領民から税が納付される時期であったため、机には書類が山積みになっていた。忙しそうに羽ペンを走らせる母の横から、それらの書類を覗き見た時であった。


──何コレ、分かりにくいっ!


 何で報告書式がバラバラなの。定型書式の雛形とか普及してないの? それに納税額が割合制じゃなくて、金額の方が一定!? これじゃ、収入に格差が出ちゃう!


 この衝撃がきっかけで前世の記憶が突如として頭に流れ込んできたのだ。我ながら現金である。……シャレではない。


 イーディスの前世は、大企業で財務と経理を担当するOLだった。損益計算書や利益計画書と睨み合いをする日々を送っていた。本来なら財務課と経理課は分かれているものだが、前世のイーディスはどちらも指導係をこなせるほどには精通していた。


 よく法人税を計算しながら、これらの税金の行方を思案したものだ。年金受給年齢引き上げのニュースを見れば、税金はどこへ行ったのかと首を傾げたりもした。


 消費税、法人税、相続税、固定資産税、所得税……たくさんの税金があるのに国債は増えるばかり。


──税金が必要なのは分かる。でも使用用途をもっと明確にかつ分かりやすくしないと国民は納得しないじゃない!


 そんな小さな不満を抱きながらも、真面目にこつこつ働いていた。


 しかし、前世の記憶を全て覚えているかと言えば全くそうではない。


 不思議なことに、イーディスが覚えていたのは、あくまでも仕事の事だけであった。前世の死に際や家族の事、自分の名前……そういった事はさっぱり覚えていない。


 前世の記憶と言うよりも、どこかで読んだ本の知識を思い出すような感覚というのがしっくりくるだろうか。イーディスとしての自我があるため、自分が死んで生まれ変わったという感じは全くない。


 それでも、前世の記憶が役に立つ物であるとはすぐに理解出来た。


──これはきっと、神様から「この世界の経済を変えなさい」って思し召しに違いない!


 そう前向きに考えたイーディスは、時間さえあればこの世界の経済事情について学びまくった。


 領地の過去帳簿、物価、国の法律……子供らしからぬ内容ではあったが、そこは前世の記憶が大いに役立った。パソコンや表計算ソフトなんてものはないが、それもまたやりがいがある。


 そうして二年。子供の吸収力は半端ではない。


 コツコツと勉強を続け、自国だけでなく近隣諸国の経済事情にまで精通した10歳のイーディスは、家族を前にプレゼンを行った。


 定型書式を用いることのメリット。税率を一定額ではなく割合に設定する事のメリット。もちろんデメリットへの対策もバッチリだ。


 10歳の子供が何を言っていると一蹴されるかと思ったが、家族は話の分かる人達であった。全て即採用である。


 税率については、高収入の店から反発もあったが、それも想定内であった。その税金で街道整備や商工会の設立など使い道を懇切丁寧に説明した。将来的に自分達にも利益があると分かると簡単に納得してくれた。前世と違い理解のある人ばかりでありがたいことだ。


 それからというもの、マクレガー領は一気に飛躍的な発展を遂げた。特にお父様は、定型書式の運用にいたく感動して王城内にまで普及させてしまった。


「ウチの娘は可愛いだけじゃなくて超天才なんだ!」


 そんな恐ろしい事を言いふらしていたそうだ。親バカもほどほどにしてほしい。


 しかし、新たな問題が降って湧いた。親バカな父親のせいで僅か10歳にして、山程の縁談が舞い込む事になってしまったのだ。


 この国では、女性の結婚は16歳になってからが一般的だが、婚約だけなら年齢制限はない。貴族の中には、家同士の繋がりで生まれてすぐ婚約する人もいるくらいだ。


 マクレガー家も貴族──その中でも上位の侯爵──ではあるが、政略結婚には否定的であった。そのおかげもあり10歳で未来の夫ができることはなかった。父が「娘はやらんっ」と片っ端から撥ね除けていったらしい。


 こうなると、娘を溺愛する父(なぜか兄も)は、社交界デビューにも難色を示した。


 本来であれば、15歳辺りがデビューとなる。社交界への参加が認められ、交流を増やしていくのだ。


 イーディスはその優秀さが広まり、前代未聞の10歳でデビューのお誘いが来た。早いうちからお近づきになろうという魂胆だろう。野心のある家は、金のなる木としてイーディスを取り込みたいらしく、お近づきになれる機会を虎視眈々と狙っていたそうだ。


 まぁ、そんな訳で様々な思惑があったようだが、過保護な家族と優しい使用人が徹底して守り通してくれた。イーディスが社交界デビューしたのは、通例通り15歳の時であった。兄がエスコートをしてくれ、終始ずっと傍に居てくれた。


 そして16歳──念願叶って財務官の試験に一発合格して、財政改革への第一歩を踏み出したのであった。



◆◆◆◆◆



───堤防工事の予算案……木材と石材の物価を考えると少し安過ぎね。人件費も予定人数の割に少ないわ。


 今日のイーディスは、休日のため自宅の書庫に籠もっていた。仕事で気になっていた部分を徹底的に調べ上げていたのだ。


 静かな書庫は、集中できるのでイーディスのお気に入りだ。窓際に置かれた机がイーディスの定位置であった。


「イディ? 今日も勉強してるの?」

「ひぃっ……!」


 ひょこっとイーディスを覗き込んできたのは、兄のアレンだ。ブロンズ色の髪がさらりと揺れ、イーディスよりも淡い若葉色の瞳がこちらを真っ直ぐに見つめてくる。


 仕事に関連する資料をこれでもかと広げまくって、予算案の精査に没頭していたイーディスは、突然の出来事に小さな悲鳴をあげた。しかし、すぐに兄だと分かるなり唇を尖らせる。


「もうっ! お兄様ったら、驚かさないで下さい」

「あははは。ごめん、ごめん」


 兄のアレンは楽しそうに笑いながら、イーディスの頭を撫でた。


 アレンは、イーディスより三つ年上で20歳になる。落ち着いた雰囲気があり、いつも微笑みを絶やさない。優しげで中性的な美男子としてご令嬢に大人気だ。


「あれ? お兄様がお戻りと言うことは……やだっ、もうこんな時間っ!」


 本の下に埋もれた懐中時計を見れば、ディナーの時間を指し示していた。イーディスが自宅の書庫へ来たのがランチのすぐ後なので大分時間が過ぎてしまっている。


「全く……休みなんだからゆっくりすればいいものを。イディが体調を崩さないか、お兄様は心配で仕方ないよ」


 困ったように笑う兄の顔が眩し過ぎる。眉目秀麗、容姿端麗とは兄のための言葉だろう。


「休みだからこそ、気の済むまで調べ物が出来るんです。本当なら朝から書庫に籠もりたかったのに」

「そんな事をしてごらん? 父上が泣くよ」

「…………うっ」


 イーディスの脳内では、ランチも食べずに調べ物に没頭する愛娘を心配する、過保護な父親の姿がありありと浮かんだ。


「もちろん私だって悲しいよ。一日中調べ物に没頭するなんて……可愛い妹が倒れていないか心配でたまらないよ。

心配のあまり仕事を放り投げてしまうかもしれないなぁ。その隙に殿下に何かあっても仕方ないよね。可愛い妹の方が大事なんだから。ああ、きっと父上も仕事を放り投げて──」

「ひいぃ! 絶対しませんからっ! ご飯大事! 適度な休憩大事!」


 まくし立てるように早口で話すアレンに、イーディスは慌てて割って入った。


 王太子殿下の側近かつ護衛もこなす兄と宰相の父。この二人がそんなどうでもいい理由で仕事を放り投げるなんてとんでもない。にこやかに笑いながらさらりと恐ろしい事を言うあたり、兄の腹黒さを感じる。


──やる。絶対二人ならやる……。


 親バカ、兄バカとはよく言ったものだ。アレンの攻撃ならぬ口撃を受けたイーディスは、いそいそと本を閉じて立ち上がった。


「さ、ディナーの時間ですし行きましょう」

「……イディ? 食後もまだやる気だね?」


 本を閉じただけで、机の上には本や資料がそのままとなっている。どう見てもまだまだ調べ物をする気満々という有様だ。


「えっと……ちゃんと日付が変わる前にはやめますよ」

「…………イディ?」


 アレンは一際麗しい笑顔をイーディスへ向けた。その笑顔は有無を言わせない圧力が込められている。こうなってはイーディスには勝ち目はない。


「分かりました……」


 結局、本を棚へ戻し、部屋に資料を戻すまでアレンにしっかり監視されることとなるのであった。

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