第2話 怨念の黒い炎
黒い炎が蠢いて、あたりを囲んだ。熱く、煙が舞い息苦しい。
『早く、早く早く早く。思い出せ』
炎は大きくなり、揺れて自分を飲み込む。熱さは消えるが息苦しさは増した。ふわりと何かが肩や首、頭を飛んで移動していく。
重さは感じないが、跳ぶ拍子に軽く蹴られる感触がした。見えない何かを振り払おうと身体を動かすがまったく状況が変わらない。
耳元でクスクスと笑われる声が響き、脳内に声が入り込む。
『見つけたからね、肇……』
まだ寒さの残る春の朝。もう直ぐ桜が咲く季節だと言うのに、朝晩はコートを手放すにはまだ名残惜しい。今朝は会社よりも先に根津には立ち寄る場所があった。
通勤鞄でも軽減さを重視する彼の片手には大きな紙袋がぶら下がっている。上司には昨夜のうちに伝えていたし、通勤ラッシュの時間を避けてはみたが、まだ混雑は緩和されない。根津は押しつぶされそうになりながら踏ん張り、満員電車内で紙袋を早々に投げ捨てたいと思った。
「おはようございます。今朝は早いですねぇ。締切日ではないですが……何かありましたか?あぁ、もしかして私に会いたくなったとか」
「寒い」
玄関の引き戸を開けて、バタバタと靴を脱いでいると、家主の由依が大きな欠伸をしながら竜胆色の着流しに紺色のどてらを羽織ってやってきた。
「こたつへどうぞ」
にこにこと笑いながら言う。根津はコートを脱ぎながら由依の後ろを歩き、居間に向かった。長い廊下は彼らが歩くたびに軋む音を鳴らす。縁側から差し込む陽射しで外気との気温差に驚いた。
「本当……まだ仕舞ってないのかよ」
根津がこたつを見て悪態を吐いた。
「年中出してても罰は当たりませんよ」
「そりゃ、そうだが……」
荷物を下ろし、根津は足をこたつの中へ入れた。
「社に戻るのが怠くなりそうだ」
「ふふふ、私は居て頂いても構いませんよ」
「そうはいかねぇんだよ」
根津は持って来た紙袋を由依に渡した。
「おや、お土産ですか?」
「あの座敷わらしには入り用だろ」
由依が中身を覗くと、中には同じタイトルの本が二、三冊入っていた。
「あれ、発売日今月末でしたよね。少し早いのでは?」
「一番最初のやつ掻っ攫ってきた。出版社からそのうち残りの献本が届くはずだ」
「肇くんは相変わらずお優しいですねぇ」
由依はその本を一冊取り出し、根津の向かい側に座った。こたつに入りながらポットからお茶っ葉の入った急須にお湯を入れる。それを見ていた根津は手を伸ばして近くの戸棚から湯呑みを二つ取り出した。
「さやさんがいらしたら早速やりましょう」
湯呑みを二つ自分の方へ寄せると、急須を優しく揺らした。
「すぐやるんじゃねぇのか」
由依はお茶を湯呑みに淹れる。お茶の渋い香りがその一帯に広がった。
「咲さんは小説の登場人物ですから、さやさんが想像して作り上げた女性でなければ意味がないでしょうし、それに……」
由依はお茶を一口啜る。静かな居間に時計の音と冷蔵庫の音だけが響いた。
「あなたがここへ来る日は隠れてしまうようになりましたので」
「……は?」
由依は眉をハの字に寄せ、苦笑いを浮かべた。
「この間、うちに泊まったでしょう。あの時なんで私が強くあなたを引き止めたか……分かりますか」
強い眼力が根津を捉えて離さない。目をそらす事も出来ない力に、根津はゆっくりと息を吐いて答えた。
「さぁな……。ただの気まぐれだったとしか」
「夢に出てきた祠に見覚え、ありますね?」
どきっとして思わず目を泳がせた。由依の表情はまったく変わらない。
「なんでそれを」
「横で魘されるあなたの夢を覗かせて頂きました」
「覗き見なんて趣味悪いぞ」
「なんとでも。それで、あなたは何を思い出したのですか?」
ゴクリと生唾を飲んだ。
根津は確信した、全部バレている、と。
「別に。見たことのある祠だった、ぐらい」
「本当に?」
「あぁ。本当に」
「……まぁ、肇くんが嘘をつくとは思いませんので信じますが……。私の目は誤魔化せませんよ」
にこりと笑う由依に何も言い返せない根津は湯呑みのお茶を一口飲み込んだ。
「ハッキリと覚えてねぇんだよ」
にこにこ顔に負けた根津は溜息交じりに片手で頬杖をつきながら答えた。腕時計をちらりと確認し、まだ大丈夫であることが分かると胡座をかいていた足を崩し、そのまま寝転んだ。
「覚えていない、とは」
「子どもの頃、って言っても中学生ぐらいのことだな、あの祠で何かあったのは確かだ。ただ、気がついたら祠の前で倒れてたってぐらいで」
「何故、祠に行ったのかは覚えてますか?」
「あー……」
うーん、と唸って頭の後ろで手を組む。
「肝試しをするとかであの祠のある裏山に行った。夏休みだったな……。そこまでは覚えてる」
ぼんやりと違和感のある記憶が頭中で渦を巻く。当時もそうやって何度か思い出そうとした。学校の補講授業が終わってから、友人達と肝試しに行く約束をし、あの裏山へ行った筈だ。
「そこって、どんな山ですか」
「だだの学校の裏山だ。茂ってるような山でもなくて……結構木々の間から民家が見えていた気がする」
「へぇ」
湯呑みが置かれる小さな音がした。由依は以前引っ張り出してそのままこたつの近くに放っておいた、妖怪図鑑を開く。
「なんでそこで妖になる」
ページのめくれる音が聞こえ、根津は寝転がっていた身体を中途半端に起こした。
「そりゃ、祠がひとりでに喋るわけがありませんからね。あなたも聞いたのでしょう、早くしろだなんだという子どもっぽいくせに嫌に禍々しさが残るあの声……。覗かせて頂いた私にもハッキリと聞こえました」
「その、覗いたっつーの、やめろよ」
「安心してください、涎は拭いておきましたよ」
「寝ている俺に触るな」
「まあまあ、恥ずかしがり屋さんですねぇ」
根津は舌打ちをしてまた寝っ転がる。くすくすと笑いながら由依はまたページをめくっていた。
「本当にただの裏山ですか?もしかして……入ってはいけないとかそういう言い伝え、ありませんでしたか?」
由依は後半を強めに言った。時計と冷蔵庫の音が部屋の中で響くように聞こえる。
「寝ました?」
「起きてる」
「で、どうなんですか?」
根津はゆっくり肘をついて起き上がると、眉間に皺を寄せ、湯呑みのお茶を一口飲み込む。息を深く吐き、こたつの中で胡座をかき直した。
「どのぐらい昔なのかは知らないが、昔っから近づくなと言われていた場所があった」
「それが」
「あぁ、その裏山だ」
「言うこと聞かない悪い子だったんですねぇ」
「うるさい」
ふふふ、と笑って由依は分厚い図鑑をこたつから下ろした。
「そういうのであれば、少し危険な感じもします。少々ここで待ってください」
「なんかするのか」
「ええ。記憶をちょっと覗かせてもらいます」
数分後、どの部屋まで行ったのは分からないが普段根津が入らない部屋から戻ってきたのは確かだった。大きな綿埃を被り、鼻や頬、掌や着ている着流しの裾までが煤で黒くなって戻って来た由依は、「ありました、ありました〜」と呑気に言った。しかし、根津はギョッとした。由依のその手に持っているのがだだの象の形をした、赤いじょうろと銭湯でよく見かけるあの黄色い桶にしか見えなかったのだ。
埃を被ったそれらは、由依が歩くたびに小さな塵を飛ばした。せっかく先日掃き掃除から雑巾掛けまで終えた長ったらしい廊下に、その塵が舞ってしまった。根津は肩を落とし、何を言っても無駄な男を睨む。
「肇くん。台所に積み上がってる古紙、取って来てもらえますか。こたつのテーブルに敷いて欲しいです」
何も気にしていないであろうこの男は、相変わらず根津に対してにこやかな表情を見せる。根津は黙って立ち上がり、回収前の古紙束から数枚ほど新聞紙を取り出すと、由依に言われた通りにこたつの上に広げた。
「ありがとうございます。あ、このじょうろにお水を入れて来てください」
「水道水で良いのか?」
「ええ、構いませんよ」
根津はまた言われた通りにじょうろに水を入れた。ぎょろりと大きな象の目が特徴なこのじょうろは、埃というより少しだけカビのようなものが付着しているようにも見える。
「入れたぞ」
「じゃあ、ここに座ってください。溢すといけませんので新聞紙の上に一度じょうろを置いて……はい、では失礼します」
すると、由依は根津の背後に回り、髪の毛を数本抜き取った。
「痛っっっ!」
チクっとした強い痛みが、帯を引くようにじわじわと根津の後頭部を駆け巡る。反射的に手で痛む場所を抑えたが、すぐに痛みが引くことはない。
「何すんだっ!」
「大丈夫ですよ。肇くんにはまだたくさんありますから」
「ったり前だ!」
頭をさすりながら根津は由依を睨む。何をするつもりなのか全く明かそうとしない由依は、相変わらずニコニコと笑いながら抜き取った髪の毛を半分にした。
片方を桶の前に置き、もう片方の髪の毛を少しだけじょうろの前に置いた。
「あとは……これです」
着流しの袖から小さな小瓶を取り出した。
中には綺麗な群青色の粉が半分程入っている。
「……なんだ、それ」
「思い出してミーナ、です」
無理やりダミ声を出し、某アニメの人気ロボットのモノマネをされ、根津は、舌打ちをした。
「ここは乗るところですよ」
「良いから、なんだっつーの」
「とある花を粒子にしたものです」
「花?」
「この粉を、じょうろの水に溶かしてください」
小瓶を根津の手に持たせた。
「俺がやんのか?」
「ええ。あなたの記憶ですから」
根津は小瓶の栓を抜き、由依がストップと声をかけるまでじょうろの中へ粉を流し込んだ。水が青く染まりかけた程で声をかけられ、小瓶にもう一度栓をする。次に由依は先ほど桶の前に置いていた根津の髪の毛を桶の中心へ入れ、もう半分に分けた髪の毛をじょうろの中に入れた。
「さて、これで完成です」
「気持ち悪い自由研究だな」
「まぁまぁ。さ、象さんのじょうろのお水を、ゆっくり円を書くように桶に入れてください」
うぇぇ、と舌を軽く噛みながら根津は言われた通りに水を桶へと入れた。黄色い桶に入っていく青い水はだんだんエメラルドグリーンへと色を変える。
「綺麗ですねぇ」
「俺の髪の毛入れてんのにか」
「肇くんの記憶を覗くのですから仕方ないじゃないですか。記憶を司る海馬の近くにある髪の毛を使うのが重要なんです」
「海馬って前の方だろ。アンタが抜いたのは後頭部の毛だ」
「もぅ。細かい男はモテませんよ」
ぷくっと頬を膨らませる。根津はまたうげぇ、と声を出した。
「で、これで何が見えるんだ?」
まだ少しじょうろには水が入っているが、溢れる前に一度入れるのをやめ、テーブルの上に置いた。
「まぁ、見ていてくださいな」
根津を退かした由依はいつの間にか羽織っていたどてらを脱いでいた。両腕の袖をくるくると捲り、二の腕のあたりまで袖を捲り上げると、落ちないように洗濯バサミで固定した。どっから出したんだ、と言わんばかりの目で彼を見ている根津を由依はクスクスと笑う。
「……何だよ」
「お静かに」
由依は膝立ちになり、両手を桶の中に入れると目を閉じた。すると、由依の手の平から光が溢れ、水の中から大きな眩しい青い光が放たれた。
「うわっ」
思わず根津は目を細めた。あまりにも目に刺さるような光に驚いて、身体も軽く仰け反ってしまう。一方で由依は先程と変わらない姿勢のまま、じっと光を見つめていた。
「肇くん、そろそろです。見えますよ……!」
由依は眩しく光る桶の中を見るように言った。根津が目を細めたまま、顔を桶に近づけるとと、その光が桶から溢れ出し帯状の光と変わった。
「なっ」
「痛くないので我慢ですっ」
「い、痛くないとかっ、そういう問題じゃないだろっ」
帯状の光は根津の頭に鉢巻のように巻きつく。目のすぐ上が光を放っているため、より目を開いているのが厳しい状態だった。
「目が痛いっ」
「我慢です、肇くん!夢で見た祠を一度思い出してください」
「あぁ?祠?」
「はい。そしてゆっくり目を閉じて……」
祠を頭の中に思い出す。日が落ちて暗くなった山の中、ポツンと寂しげに建つ古びた組み木で造られた祠。周りの石畳、木々の揺れ。風の強さ。祠を思い出すだけなのに、根津の頭の中には別の情景が浮かび上がってきた。
蝉の鳴き声がうるさい夏の日だった。夏休み真っ只中の時期の昼間のこと根津は来年の冬に控えた受験勉強の為に中学校の図書館へ通っていた。家に篭ってするよりも冷房が効いていて涼しいし、何しろ誘惑をしてくるものがない。同じ様な理由で少なからず塾へ通っていない同級生は、殆ど毎日と言っていいほどそこで顔を合わせる。会えば息抜き程度に話すこともあったし、気が楽だった。しかし、勉強漬けの夏休みはかなり退屈で、自主勉強なんて特に実力が上がっているのかも分からない。たまに日直の先生が気まぐれでテストをしてくれたは良いが、対して変化があった様にも思えなかった。
そんな夏休みを過ごしていた根津は、八月半ばのある盆の日に、友人から肝試しに誘われた。暇だったし、勉強以外にやることもなかったため、息抜きになると踏んで誘いに乗った。
『夜の八時、学校の裏山の入り口で集合な』
そう言われた。
学校の裏山は薄暗く、街灯もない。昼間は木々の間から家々も見渡せ、そこまで深い山ではなのは、近隣に住む皆が知っている。麓から山道を少し登った先に石段が現れ、そこを登った先に祠がある。そんな小さな山だったが、幼い頃から近所の子どもには言い聞かされていることがあった。
『山には怖い妖怪がいるから、夕方四時を超えたら入ってはいけない』
物心ついた頃から、根津を含めたその地域の子ども達は大人からそう言い聞かされていた。そういう言いつけが昔からあったのだが、当然妖怪を信じるのは小学校低学年までの子ども達で、それ以上の子どもも大人は、子どもを早く帰らせるための言い回しだと誰もが思っていた。
その夜、根津達は仲の良い六人で集まった。肝試しに、山へ行くと言ってもこの時間帯だと確かに危険だったため、みんな親には花火をするだの、勉強会をするだのそれぞれ適当な理由をつけ、なんとか親を出し抜いてやってきた。
『夜の八時だし、そんな怖いモノも出ないだろうな』
『とか言って、お前が一番ビビってんだろ』
『ルールはどうする?』
『二人一組で行こう。山だから、念のため』
『昼間にさ、俺らで祠の前に三本蝋燭置いてきたからそれを取って来よう』
『準備いいな』
『よし、じゃあ始めよう』
根津たちは三組に分かれて順番に祠へ向かった。夏の夜、しかも八時となるとそこまで夜も更けていない。それでも中学生はやはりまだ子どもだ。やたらと大きな声で喋りながら歩くやつもいれば、いつもより口数が減ったやつもいた。
二組が何事もなかったように戻ってくる。大したことはない、すぐ近くの家の明かりが見えてあまり怖くない。むしろ、すぐそばの学校のが怖そうだ、なんて言って蝋燭を持って戻ってきた自分を讃えるかのように話す。
そんな程度か、と根津は思った。ペアになった同級生も四人の話を聞いて気持ちが楽になったようで、二人は懐中電灯を受け取って山へと入っていった。
少し急な勾配を進んだ。でこぼことした足場が歩きにくい。つい最近の雨によって、まだ乾き切っていない道が、少し抜かるんでいる。周りは暗いが、確かに木々の間から民家の灯りが少し漏れて見え、不気味さは殆どない。少し前に、肝試しに行った先で不思議な体験をする、なんて話の小説を読んだことを思い出した。作り話だった上に、もうそんなものでビビるような歳でもない。雰囲気は似ていたが、物語に出てくる主人公達よりも根津には緊張感がなかった。
根津達は黙々と歩いて進んだ。肝試しというぐらいだから、もっと怖いと思ったね、なんて話をしながら進み、石段の手前まで来た。
見上げた先に小さな祠があるのが見える。幼い頃、嫌な感じがして山で遊んでもこの祠に近づくことはなかった。相変わらず気味の悪い雰囲気があり、少し抵抗感がある。
しかし、ここで戻ってしまったら何を言われるかわからない。
根津たちは石段をゆっくり上がった。薄暗く、木々の中にぽつんと建てられた祠は、誰が管理をしているのかわからないが、かなり年季が入っている割に綺麗に鎮座している。余計に雰囲気があり、近づくのに躊躇いを覚えるが、祠の台座に乗せられた太めの白い蝋燭を見つけた。その奥に、白い狐の面が壁に引っかかているのが見える。蝋燭は先程戻ってきた二組が持っていたものと同じものであるように見え、根津が手を伸ばした。
『それ……お前のじゃないだろ』
頭の中に聞き覚えのない声が聞こえた。後ろを振り向くと同級生が『早く持って戻ろうぜ』と言う。さっき感じた声は、変声期真っ只中の中学生よりももっと高めだ。彼の声ではない。先に行って戻ってきていた四人の声でもなかった。
気のせいだ、と根津は再び蝋燭に手を伸ばした。
『オレのモノ、勝手に、触るなっ』
蝋燭を掴むと、同時に奥に引っかかっていた狐の面が落ちた。すると、その途端に根津の視界が薄れ、背中を強く打った痛みが全身に響く。痛みで閉じかけた目を見開き、起き上がろうとするが、身体に力が入らない。同級生は屈んで根津を揺さぶるが、うんともすんとも返すことが出来ない。
『許さない……許さない許さない!オレのモノ、返せ!返せ返せ返せ返せ!やはり人間は全部取り上げるタチの悪い生き物だ!お前も同じ!殺す殺す殺す殺す殺す殺す!』
動けない根津の耳には先程と同じ声が響く。姿は見えないが、何かが自分を抑え込んで離さない。同級生は誰かを呼んでくる、そう言って走って石段を駆け下りて行った。
待って、一人にするな!そう叫びたいが、声が出ない。
『返せ、返せ返せ返せ返せ返せ返せ!』
鼓膜が破れるような大きく高い声が、根津の耳に入り、顔を歪ませる。どこに何がいるのかは分からないが、強い敵意と殺意を向けられていて、逃してくれそうにはない。根津は掴んでいた蝋燭を離した。しかし何も状況は変わらない。今度は下っ腹のあたりに何かが乗っかった様な重みを感じた。視線を向けるが、何も居ない。でも明らかにそこには何かがいる。
『今さら遅い、許さない』
重さを感じる部分がだんだんと上半身の上へ上へと移動した。
『あははははははははははははは!』
甲高い笑い声が、顔の目の前から聞こえた。振り落としたいが、全く身体が動かない。次第にまた何かが身体を這うようにのぼり、喉仏を数回撫でると、そのまま覆われるように首を包まれ、力をかけられた。苦しくて口を開けるが、息が肺にまで届かない。ギリギリという音を立てて、首筋が潰されていくような圧迫感が襲う。もがこうにも、身体は全く言うことを聞かない。酸素が足りず、頭がクラクラし始める。先程よりも強い目眩が襲ってきた。
『殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す』
あぁ、もう……だめだ。
死ぬ…………。
意識が遠のく。根津が諦めて目を閉じかけると、石段の下から声がした。
『あぁ、まったく。こんな暗い時間に子どもが遊んでいたら大人に怒られますよ』
根津の知らない声の主は石段をゆっくり上ってくる。きっと、同級生が呼んできた大人の……。
根津は薄れる意識の中で自分と大差ない歳の青年が現れたのを確認した。
誰だ、この人は……。
『邪魔するな、人間め……!お前も、殺してやる』
首にかかる力が一瞬緩んだ。少しの空気が肺に入りこむがまったく足りない。苦しさは軽減されてもその場から離れることができなかった。
『貴方はここに住む悪鬼ですね。少々悪戯が過ぎるようですが……。祠から出ても良いと、誰が言いましたか?』
近づき不思議と青白く光る手を伸ばして根津を襲う見えない何かを振り払った。途端に首を絞めあげられる苦しみから解放され、急に身体へ入ってくる空気の多さに咳き込んだ。
『大丈夫ですか。ゆっくり深呼吸して。後は私が……』
『殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す死ね死ね死ね死ね死ね』
祠の前に黒い炎が現れ勢いよく燃え上がる。先程よりも苦しそうな声が聞こえた。
なんなんだ、この黒い塊は……!
何がどうして……。
『祠へお帰りなさい。今なら私が安らかに眠らせて差し上げます』
『嫌だ嫌だ嫌だ!そうやって人間は全部取り上げる!返せ返せ返せ返せ返せ返せ!それにオレは鬼じゃないっ』
興奮して怒りに満ちた黒い炎は蠢きながら大きく燃え盛り、青年と少年を取り囲んだ。
『そうやって悪さをして反省をしないから閉じ込められてしまったんでしょう』
炎は熱さを持ち、じりじりと二人に迫ってくる。
根津は青年を見上げた。
……誰だ……?
この一帯は狭い集落だというのにこの青年は初めて見かけた。長い髪を下の方で束ね、深緑に黄色の蝶柄といった、派手な着流しを着ている。こんな風貌の男は、この辺りで見たことがなかった。それに、何故この状況下でこんなにも凛として、恐怖を感じることなく立回れるのかが不思議でならない。それにその手から放たれる青白黒い光るそれは、一体なんだと言うのだ。
『煩い……煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩いっ!全部お前らが悪い。全部取り上げたのは人間だ!』
『はぁ……。話になりませんねぇ。まぁ、妖相手に仕方のないことでしょうけれど。良ければお話をお聞きしますよ。私で宜しければどうぞ思いの丈を伝えてください』
青年は先程から放っていた青白い光を引っ込ませ、両手を広げた。黒い炎はごうっと大きな音を立て、更に炎の威力を増し、大きく揺れ動く。しかし先程の様な威嚇をする言動は無い。
『あの……アンタ、一体』
根津は熱さに噎せながら青年の背中に問いかけた。すると青年はくすりと笑って振り返る。
『私はただの、通りすがりのヒーローですよ』
青年が再び前に向き直ると、黒い炎は二人を大きく包み込む。迫る炎に危機を感じた根津は恐怖に目を伏せ、そのまま気を失った。
『おい、肇っ、起きろ!大丈夫かっ』
根津は肩を揺さぶられていた。ゆっくりと目を開けると、顔を真っ青にした同級生と両親が不安そうに覗き込んでいた。身体を起こすが痛みはない。さらに言えば、さっきまで何があったのかまったく覚えがなく、ただ息苦しかった記憶が残っていた。すぐさま近くの病院に運ばれた根津は、貧血か癲癇を疑われたが、どちらでもないといわれ、受験勉強のストレスという事で片付けられた。
次の日から更にあの場所に近寄る人は減ったぐらいの出来事になり、根津の頭の中にも殆どあの日の記憶が残らなかった。
「肇くん、肇くん。起きてください」
身体を揺さぶられ、根津はゆっくりと目を開けた。酷く身体が怠く、目が回る。視界が定まっているのに歪んでいるように見えて気持ちが悪い。
「起き上がれますか。お水を飲んでください」
由依に助けられながら起き上がるのがやっとで、背中を支えてもらいながら差し出されたグラスに口をつけた。
「すみません……。少し長くやりすぎました」
「頭……痛い」
「えぇ、横になっててください。出版社へは私が連絡しておきますから」
こたつ布団を被せ、由依はグラスを受け取ると、いそいそと玄関先に置いてある固定電話に向かっていった。
根津は先程の記憶を思い返す。全く覚えがない。肝試しに行くまでの記憶は確かに覚えがあった。祠の前まで行った覚えも。ただ、その先の記憶は全く覚えのないものだった。
ゆっくり、手を伸ばして自分の首をさする。つい最近夢で見た苦しい悪夢と同じような締め付け方だった。ギリギリと爪を立て、突き刺すような鋭さに全体重をかけて締め上げられる。喉仏のすぐ下の窪みに、指が入り込み、深い苦しさに恐怖を感じたのを思い出した。そして、あの青年が引っかかる。
あれは、絶対…………。
「肇くん、兼田さんが午後を有休にしてくださいましたよ」
電話を終えた由依が居間に戻って来た。
「……余計なお世話だっつーの」
心配そうに横になった根津の顔を覗き込む。顔を近づけていくと、不意に手首を掴まれた。
「わっ」
華奢な身体の由依は簡単に組み敷かれた。根津は片手で両手を押さえつけ、もう片方の手で自分のこめかみを摩った。ガンガンと響く痛みが和らぐ兆しが見えない。
「ちょ、何するんですかっ」
「逃げそうだからな」
「何を」
バタバタと足を動かし、身体を捻って逃れようとするが力の差は歴然で全く歯が立たない。
「アンタだろ。俺を助けたのは」
「な、何を言って……。私はもっと美少年でしたっ!」
「あんな怪しい術を使える奴がそんじょそこらに居てたまるかよ。吐け、何をしてた」
手首を掴む力を入れられ、由依は歯をくいしばる。
「わ、わかりましたっ。言います、言いますからぁっ!」
足をバタつかせ、由依が叫ぶと根津は手を離した。
「もぅ、乱暴は嫌ですよ、まったく……。私が美青年だからってお昼から盛らないでもらえますか?」
「うるせぇよ、アラサーじじぃ。頭に響く」
根津は由依の上から身体を退かし、こたつに座り直すと、テーブルに両肘をついて指でこめかみを揉む。
「あーもぅ、皺になったじゃないですか。後でアイロン掛けてくださいよっ」
「へいへい」
生返事をする根津の向かいの座り直すと、由依は襟を正しながら口を開いた。
「黙っていたことは悪かったですけど、私も色々確信が持てなかったんです。肇くんがあんまり覚えてないと言うし、助けた男の子はまだ幼い感じがあって可愛らしかったので。まさか彼が肇くんだったとは思いませんでした……」
「そうかよ」
根津はいつもよりも強めに睨んだ。
「ちなみに、記憶を消したのは私ではありませんよ。あの時はあまり力も使い切れていませんし、修行の身でしたので」
「修行?」
「ええ。私、あの頃はあまり自分の力を制御出来ていなくて……」
由依は先程脱ぎ捨てたどてらを手繰り寄せ、肩にかけて羽織ると、お茶を淹れ直しながら話を続けた。
「昔も今のように妖に関する相談事を請け負っていたんですよ。あの時は全て一人で対応していたので、件数はこなせていませんが……。あの日、私は妖退治で近くのお寺に呼ばれていました。あの祠の山を管理しているというお寺の住職さんに。お話を聞いて、様子を伺いに行ったところで襲われている貴方達を見かけたのです」
「近くの寺……?」
根津は地元の地形を頭に浮かべる。確かに、あの山の近くには寺があったが、あの山が私有地だとは聞いたことがなかった。
「ええ。あの山の反対側に小さなお寺があるんですよ。学校からは見えにくいかと思いますが。実はそこで、あの山の祠の話があがっていて。昔から近づいてはいけない、という言い伝えがあるから気味が悪い、でも誰も理由をしらない。管理を請け負っていても、いつか何かありそうで恐ろしい……って」
「あぁ、近づいてはいけないってのは確かに言われていた。あの祠で間違いねぇよ。鬼が出るとか、山姥が出るとか、そうやって昔から脅かされてはきていたけどな」
子どもの頃、よく学校の先生や親に「あそこへは行ってはだめ」と言いつけられた経験は誰しもがあっただろう。理由は様々だが、不審者が出そうなほど暗いだとか、整備されていない獣道だからとか。安全性が低く、人目も少ないのが主な理由がだいたいだと言える。しかし、中には「昔からあそこには」といった枕言葉が使われるような曰く付きの場所も存在した。根津の地元がまさにそれで、誰一人としてその理由を知る者がいない。当時はどうせ、子ども達を早く家に帰らせるための言い聞かせの一つだと思っていたが、そうではないのはすでに身をもって知った。書物などに残っていない言い伝えは途中から途切れてしまう、なんてのは良くあることだったが、そういう形としても残ってもいないのに、誰も近づきたがらない場所だった。
「だからあそこに居たのは偶然です。まぁ、偶然というか必然というか。この世に偶然なんてないとも言われてますし」
由依は淹れ直したお茶を根津の前にも置いた。
「で、あの黒い炎の奴はどうしたんだ」
「もちろん、あの当時に出来る限りの事をしたつもりでした」
「つもりって何だよ」
「ですから、封印はした筈だったんです。あの後、お寺に戻って更に強いまじないもかけましたが……。誰かが解いてしまったのでしょうね……」
静かにお茶を啜る音が部屋に響く。先日直ったばかりの時計の音がやたらと煩く感じた。
「誰かって、誰だ」
「さぁ、そこまでは……。封印が解け、あの黒い炎を操る妖が、肇くんの周りをウロウロしていることは違いなさそうですね」
「……もう一度封印することは可能なのか?」
「出来なくはないと思います。そのためにはもう一度あの祠を確認する必要があるかと……」
由依の言葉に、根津は物凄く嫌そうな顔をした。家を出てからというものの、何年も帰っていない。今更な里帰りで気が引ける上に、理由が理由だ。黙って帰ったとしても、管理者以外にあの山に向かう者がいたら噂になるのはまず間違いない。
「……アンタだけで行ってくれ」
「それは出来ません。私がいない間に、貴方が襲われたら誰が助けるんですか」
「俺には仕事もある」
「有休を延ばせばいいでしょう。どうせ、ろくに消化もしていないんですから、これを機に使ってしまうのはどうですか?」
誰のせいで使う暇がないというのだ、と喉元で出かけたが、根津は代わりに大きな溜息をつくと、渋々と承諾の返事を返した。
相変わらずのド田舎だ……。
無人駅を降りた根津は、周りの山々を見上げた。家の何処からか引っ張り出してきたかわからないが、デジタルカメラでその辺りをやたらと撮り回る目の前の小説家はさて置き、昔から何も変わらない地元の風景を見て、胸の辺りが少しだけ温かく感じる。
「おい、旅行じゃねぇんだぞ」
「良いじゃないですか。二人で遠出なんて久々なんですから」
そう言いながらカメラを根津に向け、仏頂面を一枚収める。
「ったく……。土地勘ねぇんだから、逸れんなよ」
「はぁい」
何を言っても、何処へ行ってもこの男のマイペース加減は変わらないことに呆れながら、根津はカメラに夢中な由依の腕を引き、駅のホームを離れた。
高台になっている駅から見えた畑や田んぼの続く田舎道を歩き、舗装された道に出る。舗装されているとはいえ、すぐ隣には薮が広がり、街灯も相変わらず少ない道だった。そこを暫く進んでいくと、古い学校が見えてくる。根津は目的地が近付いたことを由依に伝えた。
「祠があるのはあの学校の裏の山だ」
根津は腕時計を確認する。山の管理をしている寺の住職との約束まではまだ少し時間があるようだった。
「おや、ご両親にご挨拶は良いのですか?」
足を止めない根津に、由依は声をかける。山や田畑にカメラを向け、懲りずに写真を撮っていた。
「何年も会ってないし、今更だろ」
「息子が顔を出すのに理由も今更もないと思いますが」
「良いんだよ。行くぞ」
先を歩く根津が早足になる。大学進学で上京してからというもの、殆ど帰省をしていない。別に家庭環境が悪い訳でもなんでもないが、車を持たない自分が都会からここへ来るのに半日は掛かってしまう。面倒くさがった結果、何年も帰省せずそのままになってしまった。
「まったく、遅れてきた反抗期ですかねぇ」
「うるせぇ」
理由を説明したところで、この男はもっと面倒くさそうな事を言い出すだろう。第一、この面倒くさい男は自分の締切日が迫っているのもわかっているのだろうか。有休を取った自分にくっついて遠出をしている事が編集部に知られてしまうのは厄介だ。と言っても、自分が休んだため、進捗確認に出向くことになった兼田にはすぐバレてしまうのだろうが。懐かしさに寄り道をして、帰りが遅くなってしまう事を考えると、どんどん兼田に申し訳なくなって、根津は黙って先を急ぐ他なかった。
中学校の横を通り、裏山へ続く道を真っ直ぐ歩く。古く錆びたフェンスから見える校舎は、平日の昼間にしてはやけに静かだった。
「この学校……廃校でしょうか?」
「あぁ……一昨年でな。隣町と統合したってよ」
「疎遠なくせに、そういうのは知ってるんですね」
由依のその一言に根津は舌打ちを返す。一昨年、同窓会の案内が実家から転送されたのを思い出した。たぶん、あれがこの校舎でやれる最後の同窓会だったのだろう。卒業してから一度も参加したことはないし、もうあの頃の記憶はぼんやりとしか覚えていない。
「繋がりを疎遠にばかりしていると、貴方の方が消えてしまいますよ」
「……どういう事だよ」
「人との繋がりは人にしか持てない、大事なものだと言ったんです」
周りの木々が風に揺れる。由依の笑い声が後ろから聞こえた。
ったく、調子が狂う……。
「……先に寺へ行く」
「そうしましょう」
根津が小さな溜息を吐き、裏山への入口を横切ろうとした時だった。裏山から根津と由依の歩く田舎道の方へ、突風がまるで一直線上を駆ける様に走った。
「うわっ」
目も開けていられないその強風に、二人は身を屈めた。踏ん張る体力がそもそも皆無だった由依は、その場に膝から崩れ落ちる。手を貸そうにも、根津は自分が立っているのがやっとだった。
「くっそ……!」
両腕で顔を風から守り、薄く開いた目で、周りの様子を伺うと、おかしな事に由依と根津の立っている範囲外に風が吹いている様子が見えなかった。突風に煽られ揺れているはずの木々は静かに凪いでいて、草も対して揺れている様子がない。
どういう……ことだ?
『遅いよ肇。待ちくたびれた』
同時にあの夢で聞いた声が、山の奥から聞こえて来る。
「は、はじ、めくんっ!聞い、てはだめ、です!」
由依にもその声が聞こえたのだろう。耳を傾けてはダメだと、言いたかったが、風が強くて上手く口を開ける事が出来ない。
『ダメだよ肇。もう逃がさない。返してくれるまで帰さない』
再び聞こえた声は、先程の声よりも禍々しく、低くて重い。
何を返せだって……?俺が、何を取ったって……。
その時だった。黒い影が山から勢いよく走り、根津の身体に思いっきりぶつかった。
「うっ!」
妙な浮遊感と吐き気がした。口に手を当てた根津はその場に倒れ込んだ。
「肇っ!!」
由依が叫んだと同時に、ぴたりと強風が止んだ。風が当たってぐしゃぐしゃになった髪を振りながら由依は根津の方へ駆け寄る。顔色が真っ青だ。
「大丈夫ですかっ」
「う……あぁ……」
根津は頭を押さえながらゆっくりと身体を起こす。倒れた時の打ち所は悪くなかったが、まだ目が回っている気がして、焦点が定まらない。
「ご気分は?」
「最悪だ……」
小さな唸り声を漏らしながら根津は答える。立ち上がることはできたが、頭がふらつき、咄嗟に由依に身体を預けた。
「……肇くん、貴方軽すぎですよ」
「アンタが重すぎるんだよ……」
まだ軽口を返せる余裕はあるようだった。由依は根津の肩に手を回し、彼を支える形を取ると、なるべくゆっくり足を動かして裏山へ続く山道から距離をとる。こんなのは気休めだ。また襲われる可能性も高い。さっきの黒い影はきっと……。
「とにかく、お寺に向かいましょう」
「……あぁ。頼む」
「これはこれは……」
住職は、由依に引き摺られるようにして運ばれた根津の顔色を見ると、敷地内にある自宅へと招き入れた。横になれるよう、布団を敷いてくれたのだが、根津は首を横に振り断った。
「どうせすぐに出るだろ」
「全く……イヤイヤ期のお子ちゃまより聞き分けないんですから」
由依は腰に手を当てわざとらしく軽口を叩くが、眉はハの字に寄せられており、心配していることは誰が見てもわかる。
「私がご住職と話をする間ぐらい、横になっていてください」
そう言われるが、頑なに根津は首を横に振った。どうにも先の黒い影が身体中を這いずり回っている感覚が抜けない。もしかしなくてもそうなのだろうが、はっきりとした感覚がやけに気持ち悪く、横にでもなれば更にそれを強く感じ取りそうだった。
「仕方ない人ですね……。ご住職、失礼ではありますが彼の姿勢だけ崩させてください」
「えぇ、構いませんよ」
由依の申し出に住職は心配そうに根津の顔色を見ながら答えた。由依は根津を自分の横に座らせると、その頭を肩にもたれかかせる。
「悪い……」
「お家に帰ったら肇くん特製のおしるこで手を打ちましょう。さて、本題に移りますが……。ご住職、私の事を覚えていらっしゃいますか」
由依の質問に住職は「もちろん」と答えた。
「あなたの様な不思議な力をお持ちの青年を忘れる方が難しいですよ」
「ええ。以前、こちらに伺い、あの祠の妖を封印したはず……でした」
そう言いながら由依は自分に体重を預ける根津に視線を投げる。
「あの山はあれから立ち入り禁止に?」
「いいえ。でも、あの騒ぎの後でしたから、祠に近づく者はほとんどおりません。ですから……今日のようなことは、あの日以来まったくありませんでした」
「……なるほど」
由依はウーン、と小さく唸る。
あの日、封印道具である小さな壺に妖を封印したはずだった。その土地の妖だろうからと、祠の中にその壺を入れお札を貼り、力の持たない人間に解くことができないように厳重な封をした記憶がある。
考えられるのは、何かの拍子にその封印の札が剥がれかけ、閉じたところが緩くなったか……。或いは、閉じ込めた妖の力が想定上のものだったか……。
「そういえば、貴方があの日置いていったものも、まだありますよ」
「あぁ、それは良かった」
由依の顔が晴れる。住職は急に思い出したと言って、部屋から出て行った。ほんの数分経つと、住職は四合瓶を持って戻ってきた。
「こちらです」
「ありがとうございます」
由依は住職からその瓶を受け取ると、蓋を開け中の匂いを嗅ぐ。直ぐ横にいた根津も鼻をぴくんと動かした。酒の香りはしない。由依は試しに手の甲に一雫垂らし、それを舐めた。
「肇くん。こちらを飲んでください」
「……毒味かよ」
「違いますよ。私が残した聖水です」
「聖水……?」
「えぇ。万が一のために。あの時の妖は随分と何かに執着している様子もありましたから」
由依は「さぁ」ともう一声かけて根津に瓶を持たせる。青白い顔で渋々と受け取った根津は瓶に口を付けて中の聖水を飲んだ。喉が一度鳴り、身体の中へ聖水が入る。飲み込んで数秒後に身体中が沸々と熱を持ち始めた。
「うぅ……あっ……なん、これ……」
根津は胸と腹を抑え、倒れ込んだ。熱くて、焼けそうで、苦しい。
「大丈夫ですか!?」
「我慢してください。これで中に入ったモノを追い出します」
「が、がまんって……アン、タなァ…!」
眉間に薄らと青筋を立て、根津は転がり苦しみながら由依を睨む。その隣で住職は不安そうに目の前の二人を交互に見つめた。
何かが身体中で蠢いて、背中はゾクゾクと嫌な寒気さえする。次第に吐き気が喉の方まで昇り詰め、手を口で押さえた。
「肇くん、ダメですっ。ここで出します」
由依は咄嗟に根津の両手を押さえつけた。
「う、あぁ……っ!んぁっ!」
大きく口を開けたその時。根津の背中から黒い影が出始める。先の突風と共に根津へ向かったあの影に違いない。
「出ていきなさい。これは貴方の身体ではありませんよ」
由依は苦しさに暴れる根津の手首を力強く押さえつける。
『こいつはオレのモノを盗った。だから許さない。オレも奪って……こいつに苦しんでもらうんだ……!』
黒い影が動きながら徐々に身体から出てきている。根津の呻き声は先程よりも落ち着いてきていた。
「肇くんが何を盗ったと言うんです?」
『煩い煩い煩いお前には関係ない!!こいつがダメならお前から奪ってやる!!』
黒い影は完全に根津の身体から抜けきると、由依に向かって飛びかかる。
しまった……!
そう思い、由依が根津の手首から手を離した時だった。咄嗟に手を伸ばした根津が、由依の襟を掴み、畳に頭を叩きつけ、黒い影をかわした。
「痛っ……ら、乱暴な人ですねぇ……!」
「アンタも大概だろっ」
『許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないっ!!』
避けられた黒い影は、部屋をごおっという音を立てながら勢いよく一周すると、そのまま外へと飛んでいき、祠のある裏山の方へと消えていった。
「……あれは……一体なんなんでしょうか」
腰を抜かした住職は、黒い影が消えた方向を、見つめながらぼそりと言った。
「今からそれを確認してきます。やられっぱなしはうちの肇くんも黙ってられませんから」
「あぁ。まったくだ……」
少なくとも撒いてしまった種は自分にある。自分に執着する理由はあの時、無意識に何かを奪ってしまったからなのだろう。だったらそれを返してやらなければならない。
「なので、これを……お借りしますね」
由依は聖水の入った四合瓶を拾いあげると、住職に礼をした。
「さて、再戦を挑みに行きますか」
寺を出て、二人は先ほど突風に遭った所へ戻ってきた。手に持っているのはここへ来るまでの各々の荷物と、住職から借りてきた怪しい聖水。この水であの妖が腹の中で苦しんだのは身を持って知ったが、果たしてこの水だけで太刀打つことは出来るのだろうか。
「さぁ、肇くん。行きますよ。今日であの悪夢ともおさらばです」
「あぁ。そんでさっさと原稿に取り掛かってもらわねぇと……」
「本当、貴方は野暮なことしか言いませんねぇ。そういうの、KYって言うんですよ」
自信たっぷりな由依の背中を見ながら、根津は溜息をついた。相変わらずこの裏山は茂みが多いが、木々や藪の隙間から近所民家がはっきり見える。他の山よりも陽の光もあたり、悪い妖などとは一切縁がなさそうな山に見え、先程の突風など信じられない。それでも二人は、その突風の正体を暴くため、根津が肝試しに使ったルートを辿り、祠へと向かった。
「あぁ、だんだんと……してきましたね、気配」
「……あぁ」
普段見えない根津にもそれはわかった。そこそこに寒い気温だったが、嫌な寒気が身体に纏わりつき、山に入ってからずっと背後に視線を感じていた。根津の心臓も、だんだんと脈拍を増やす。黙々と歩く度に、緊張で吐き気までした。
石段手前で由依は足を止めた。ここを上がれば、祠はもう直ぐそこだ。
「肇くん、荷物をお願いします」
由依は持っていた鞄を根津に押し付ける。一体何が入っているのか分からないが、やたらと重くて根津は思わず眉を寄せた。
「それから……。絶対に私から離れないでください」
「そういうのはイケメンのセリフなんだろ」
「容姿端麗天才小説家なら有りよりの有りですよ」
くすくすと笑い、根津に持たせている鞄から四合瓶を取り出した。
「万が一の場合は、私からこの瓶を取り上げて全力で逃げなさい」
いつになく真剣な目で由依は言った。それが余程おかしかったのか、根津は吹き出した。
「そうさせないように、アンタが頑張るんだろ」
「だからって笑うのは酷いですよ、まったく……」
由依は一瞬ふざけて頬を膨らませたが、直ぐにくすくすと楽しそうに笑うと、石段を上り始めた。その後を根津は黙ってついていく。万が一が起きたら、一人でなんて逃げやしない。どうにかこの鼻につく自惚れ屋を、引き摺ってでも連れ帰る策を練っておかなければ……。
石段を上がり切ると、祠が現れ、黒い影がうねうねと動きながらその上を円を描くように飛んでいた。
『やっと来たな肇……。オレが今日、ここで全部お前から取り上げてやる……!』
蠢く黒い影が揺れる。何を言っているかはっきりと根津の耳にも入ってくる所から、結構な妖力の持ち主相手らしい。
「それは困りますね。私の肇くんは渡せません」
「アンタの物になった覚えはないけどな」
根津は鼻で笑い、持っていた荷物を乱雑に地面に置く。ピクリと由依の眉が動いたが、今は目の前の得体の知れない妖に集中することにしたらしい。
「それで……貴方は何を肇くんに奪われたんです?」
『さっきから煩いヤツだな……お前には関係ない』
「おやおや……。仕方ありませんね」
由依は瓶を持ってない方の手を開きながら黒い影に向け、手のひらから青白い炎を出した。あの時はただの光に見えたが、綺麗な青い炎が由依の手のひらで揺らめいている。
「穏便に終わらせてあげようとしたのを拒んだ貴方がいけないのですよ」
『お前は……!あの時の!!』
高い子供の声が、低く唸る。黒い影は祠を囲うようにして黒い炎へと変化した。根津の脳裏にあの日が蘇る。
「もう一度聞きますよ。肇くんに執着している理由はなんです?」
『そいつが……そいつがオレの大事な物を持っていったのが悪い!あれはオレの物だったのに……!オレの大事な……大事な物だったのに!』
黒い炎は低い唸り声をあげ、大きな炎と変化する。あたり一帯を焼き付くしそうな大きさだが、木々に燃え移る様子が見えない。
「肇くん、身に覚えありますか?」
「……いや。祠から取ったのは他のやつが肝試しのために置いてきた蝋燭で」
『違う!蝋燭ではない!あれはオレの大事な面だ!失くさない様に、祠に置いておいたのに!お前が奪った!人間はそうやって全部オレたちから奪うんだ!』
何がどう違うのかは、根津の記憶の中では皆目検討がつかない。まずその面があったかさえも今の所ハッキリと覚えていないのだ。
ただの蝋燭に手を伸ばした……はずだ。俺が間違えて別の物に触ったというのか……?
でも確かにあの時『それ、お前のじゃないだろ』というこの黒い炎と同じ声がしたのを思い出す。
「ふむ……なるほど。どうやら当時のやんちゃな肇くんが勘違いで触ってしまったとしか思えませんが」
『だとしてもだ!お前が触ってどこかにやってしまったことに違いない!もうあの面は……主の形見は戻って来ないんだ!!』
黒い炎が劈くような声をあげ、由依に向かって来た。由依は青い炎を出した腕を一振りすると、瞬時に大きな薄い壁を作り出し、黒い炎を跳ね除けた。
「落ち着きなさい!」
『煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い!』
黒い炎は再び体勢を整えると、由依の作った青白く光る壁に向かって突進する。
「まったく……埒があかない……!肇くん、この聖水をやつに!」
「は?」
「早く!」
「ったく!」
根津は由依の片手から四合瓶を奪うと、壁に突進し続けている黒い炎に向けて聖水を浴びせた。
『っうあああああああああああ!!』
たった数滴かかっただけだったが、効果は抜群のようだ。黒い炎は勢いを止め、地面の身体を擦り付ける様、のたうち回っている。由依は根津に駆け寄ると、根津と黒い炎の間に立ち、苦しみながら蠢く黒い影をじっと見つめた。
『あああああああああっ!』
耳を塞ぎたくなる様な声が響く。禍々しく、嫌な感じがして気分も悪くなっていきそうなその声。次第に頭の中にキーンとする痛みが走り、とうとう根津も由依も耳を塞いだ。
だんだんと黒い炎は小さくなり、その中心から黒い獣の姿が見えてきた。とんがった耳は赤く、目尻や大きく裂けた口元も赤い。所々が不思議な毛色をしたその獣は少し離れて見ても狐のように見えた。
「……狐?」
根津は不思議そうに呟いた。よく神社などのお祭りで見かける黒い仙狐面に似ている。
これが……あの夢魔の正体……?
「まだですよ」
近づき、その姿をよく見ようとした根津を制して由依は着ていた羽織の懐からビッシリと仰々しい文字が切れた札を取り出した。
「勘違いにしろ、彼から何かを奪っていたかもしれませんからね。ここはゆっくりと話を聞いてやりましょう」
そう言い、由依は黒狐の額に札を貼りその小さな身体を抱き上げた。
目が覚めると、良い匂いがした。
あぁ……。この匂い、知ってる。
主がよく、煮てくれた油揚げの匂い。
染み込んだつゆが塩っぱくて、くせになる、大好きなあの匂い……。
人間は良いものを沢山持っている。
主もそうだった。
主は妖の友達も、人間の友達も多かった。
良いなぁ、羨ましいなぁ。
オレは山で一人で住んでいたから、大勢で騒げる主は凄いと思っていた。
主はいつも楽しそうだった。
人間は繋がりを作るのが上手なのを、主を見て知った。
でも、いつだか主の周りから人間は消えていった。
主はいつも誰かといたのに。
急に一人になった。
時々誰か来たけれど、何かを渡してすぐに帰っていく事が多かった。
人間は主から離れていった。
主は寂しそうだった。
縁側に座って空を眺める日と、布団に包まり、ぼんやりと空を眺める日ばかりになった。
だからオレは主が寂しくないように毎日主の側にいた。
毎日、毎日。
主の名前を傍らで呼び続けた。
「君に良いものをあげよう」
主はそう言って、よろよろと弱った身体で箪笥から白い狐の面を取り出した。
「これはね、君の様な不思議な力を少しだけ制御できるものだ。これを被れば、村の子と同じ姿になることができる。人の姿を借り、誰かに優しさを分けてあげれば、君のもとにもきっと素敵な友人がやってくるはずだよ」
細くてひょろひょろの腕がふわりと俺の頭を撫でた。
冷たくて気持ちの良い。
もっとして欲しかったけど、主は数回撫でて、また横になった。
主は最後に言った。
「もう私は眠るから。君も他所に行くと良い。いつか生まれ変わったら、また君に会いに行く。きっと今度は、君と野を駆けれるように丈夫な身体で生まれて来るから。それはまではその蝋燭に火を灯した友人と一緒にいるんだよ」
そう言って、主は優しくふわりと笑うと、静かに目を閉じて眠ってしまった。
動けなくなった主に会いに来ていた人間はきっと主に何かしていたのだろう。
主は嬉しそうに何かを貰っていたけれど、それを口にしては咳込んで、苦しそうにもがいていた。
きっと、人間が主を奪っていったんだ。
きっとそうだ。
主は人間に奪われたんだ……。
そのうちに悪戯をしたり、人間を呪ったりするようになった。
沢山の人間が怒って、俺を山の中に閉じ込めた。大事に持っていた主から貰った面を、祠に括り付けられ、その場から何年も動けなくなった。
何年も、何年も。
ずっと一人。
だけどある時やってきた人間の子どもが面をどこかにやってしまった挙句、強い力の人間が俺を祠に閉じ込めた。
あぁ、今度は一人だ。
主のくれた面もない。
寂しい。
一人は嫌だ……。
返して、返してよ俺の大事な物を。
返してよ、俺の自由を。
返してよ、俺の……主を。
すん、と鼻を掠める。
さっきもしたこの良い香り。
懐かしい。寂しい。会いたい。
じわりと目が熱くなる。
「あぁ、きっと貴方は……色々と勘違いをなさっていたんですね」
くすくすという優しい笑い声が聞こえた。主と同じ、色んな妖と人間の匂いがする。
誰だろう……。
「うぅ…………」
薄らと目を開ける。ぼんやりとした視界に自分を覗き込む人間の男の顔が入り込む。
「あ……るじ?」
「ふふふ。あぁ、起こしてすみません。申し遅れましたが、私は由依千歳。こちらは……貴方も知っている通り根津肇くんです」
くすくすと由依が笑いながらそう言うと、目をぱっちりと開いた黒狐は飛び起きた。
「なっ!なん、なに」
「おや、元気ですねぇ。ご住職に頼んだら油揚げ沢山用意して貰えましたよ。良かったですね」
由依は油揚げの沢山乗った皿を、お盆から取り上げると「食べますか?」とにこにこと笑いながら言った。
「そ、そんな餌付けで誑かされるか!」
「おい、落ち着け」
根津が由依に飛びかかりそうになった黒狐の首根っこを掴む。
「んあああっ!はなせぇえ!」
尻尾を逆立て、ジタバタと手足を動かし、根津の手からどうにか離れようともがいていたが、先程の札のせいでか力が上手く入らず、数秒暴れて諦めた様に大人しくなった。
「くっそぉ……」
逆立っていた尻尾を垂らし、耳もへたりと垂らす。油揚げの良い香りも混じり、上手く力が出せそうにない。
「少しお札の力が強すぎましたね。私、手加減を知らなくて……申し訳ありません」
悪びれもなくそう言うと、由依はお盆から箸をとり、油揚げを口に運んだ。
「ああっ!ずるいぞ!」
キャンキャンと吠えながら黒狐は由依の周りを駆け回る。それを軽くかわしながら由依は一枚の油揚げを食べ切った。
「あああ……!」
「ふふふ。私の肇くんを呪った罰です」
しおしおと更に萎れていく耳と尻尾を見て、根津はため息をついた。
「ったく……お前のせいで飛んだ目にあった。油揚げの前にこれだろ。ほら、探してたもの」
根津は上着のポケットから白い狐の面を取り出した。かなり年季が入り、所々が黒ずんで汚れている。裏返すと中心部に『鬼』という文字が彫られていた。紐も汚れて茶色く変色しており、長年放置されていたのにも関わらず、亀裂や欠けているところがなく、汚れているだけというのは、どう考えても普通の人間が持つようなの物ではない。
「あぁっそれは!やっぱりお前が持っていたんだなっ!」
黒狐は根津の差し出した面を引っ手繰ると、その場でまた威嚇体勢をとる。喉がグルグルと鳴り、野生の獣そのものだ。噛みつかれたら酷い怪我を負いそうだと、二人は眉を寄せる。
「違いますよ」
由依はやれやれ、とため息を吐く。
「貴方が倒れた後、肇くんが探してくれたんです。不思議なお面なので、貴方の呪いを受けてる彼だから探せたのありますが……。あの日、騒いだ貴方がどこかにすっ飛ばしたのでしょう。あの時の肇くんはちゃんと友達が用意した蝋燭だけを手にしていたんですよ」
「……そう、なのか?」
黒狐は疑り深そうに根津の顔を見上げた。根津の着ていた服の裾や膝に土が付いているのが見え、嘘ではないことがわかった。
「……あぁ。その面は不思議な力がないとそもそも見れないらしい。今の俺は……お前の呪いのせいだから見えるらしいが……。そんな怪しい面、記憶にないの方がおかしいだろ」
黒狐は納得したのか、複雑な顔を見せる。
「……あ、主が……知ったら……どうしよう……」
ずっと勘違いをして、関係ない人間に危害を加えていた。人間は主の仲間で、同じ種族だ。彼が居なくなってもそれは違わない。きっと、こんな馬鹿馬鹿しい勘違いで人を呪っただなんて知られたら…………。
「お前、名前は?」
「……黒楼(くろう)」
「見たままかよ」
「煩い、主がつけてくれたんだっ!」
「それで、その主という方は?」
由依の質問に黒楼は一瞬黙ったが、久々に見た主との夢を、彼との別れを二人に話した。
「……きっと、主は誰かに苦しめられていたんだ。人間からもらったものを口にするといつも渋い顔をして、咳き込んでいた。だから、人間はオレの大事なものを盗っていくやつらばかりだって……」
すると由依と根津は揃って大きなため息を吐いた。
「お前なぁ……。人間をなんだと思ってるんだ」
「えぇ。心外にも程がありますよ」
「なんだと!」
由依は黒楼の頭をゆっくりと撫でた。
「貴方のご主人、きっと病と戦っていただけですよ。良薬は口に苦しというでしょう。私も肇くんも薬を飲むとだいたい咳き込みますし……」
「くすり?」
黒楼は小さな頭を傾げた。
あれは主を苦しめていたものではないというのか……?
「えぇ。病気を治すものです。だから、貴方のご主人に何かを渡していた方は、ご主人の味方、良い人間ですよ」
味方……。
由依のその言葉に、黒楼の目頭が熱くなった。
あの時から人間は大事なものを奪っていく悪いやつらだとばかり思っていた。そのせいで多くの人間を呪ってきた。悪戯も沢山した。今回もそうだった。肇が祠から持ち去ろうとしたのは蝋燭だった。勘違いを起こし、自らの手で失くしていたものを、肇のせいだと思い込み、長い年月ずっと肇を探して見つけ出し、夢の中で祠の封印を解かせ……呪った。
それも全部…………。
「オレの……思い違い?」
ぽろぽろと床に涙が溢れた。黒楼の目からきらきらと光る涙がこぼれ落ちる。
「えぇ。肇くんも、ご主人の周りにいた方々も貴方の大事ものは何も奪っていませんよ」
「本当か……?」
「疑り深いな……。このセンセーは胡散臭いけど嘘は言わねぇよ」
「酷いですねぇ、胡散臭いは余計です」
わざとらしく頬を膨らませる由依を見て、根津は小さな舌打ちをした。
「……肇」
「なんだ」
「……お面、ありがとうな……。あと、脅かしてごめんなさい……。」
「あぁ……」
根津は黒楼の頭を静かに撫でた。
「千歳っ!肇っ!」
いつからいたのか分からないが、由依と根津が戻ると、とさやが玄関まで走って出迎えにきた。
「おや、来ていたんですか」
「遊びに来たら、いないんだもん。寂しかった」
さやは荷物を降ろした由依に抱きついた。座敷童子は重さが殆どない。そもそもが大して食べれずに命を落とした子どもだ。それでも抱きつかれた反動でよろめいた由依を背後で根津が支えた。
「すみませんでした。お詫びにこちら、肇くんの地元で有名な芋羊羹を買ってきましたよ。後で一緒に食べましょうね」
「うん!あれ……?」
「どうかしましたか?」
さやは由依の首に腕を回しながら根津をじっと見つめた。
「肇の黒いもやもや、消えたね。でも、どうしてあっちに置いてこなかったの?」
「あー……」
さやは首を傾げながら根津の足元を指さし、由依に尋ねた。もう黒楼の呪いからは解放された根津だったが、また一人になるのは嫌だと駄々を捏ねた黒楼を振り切ることが出来ず、仕方なく連れ帰ってきてしまったのだ。
「不良少年と捨て犬は切っても切れない関係ですから」
根津の足元で広い玄関を眺め見ていた黒楼は「オレは犬じゃないっ!」とキャンキャン声で吠えた。
「弱い犬ほどよく吠えるって諺があるの、知ってますか?」
「なにぃっ!」
「おい、クロ。いるならこの人に構うな……面白がってるだけだから」
根津は溜息を吐きながら言った。怨念を消した黒楼は根津には視えないため、黒楼の反応を想像して諭す。
「そうだ、早いとこ渡しておきますね」
由依は手にぶら下げていた巾着から、小さな箱を取り出した。
「こちらをどうぞ」
「なんだよ」
訝しげな顔をして、恐る恐る根津が箱を受け取る。手のひらサイズのそれをまじまじと見つめ、ゆっくりと開いた。
「……は?」
中身を確認した根津は眉を寄せ、由依の顔を見上げた。開いた箱にはシンプルなシルバーリングがこぢんまりと収まっていたのだ。
「エンゲージリングですよ」
「ざっけんな、気色悪ぃ。返す」
「返さないでください。これがあれば、私の力を使わなくてもさやさんとクロくんの姿が視えるようになりますよ。もちろん、私からの愛はたっぷりと……」
由依が全て言い切る前に、根津はそのリングを右手の中指にはめた。すると、先程まで視界にいなかったはずのさやと黒楼が、はっきりと根津にも視え始めた。
「オレ達、ちゃんと見えてるのか?」
黒楼とがおずおずと根津の顔を覗き込む。
「……あぁ」
根津は屈んで手を伸ばし、黒楼の頭を優しく撫でた。
「ちゃんと視える」
さやの方へも視線を向け、根津は言った。由依はその様子を横目に見ながら、静かに微笑むと居間へ向かう。さやを優しく床へ下ろすと、こたつのスイッチを入れ、石油ストーブの電源を入れた。灯油のつんとした匂いが部屋に漂う。
「さて、お茶を飲みながら咲さんを呼び出しましょうか」
「本当?もう、お母さんに会えるのっ」
「えぇ。肇くんが本を持ち帰ってきてくれましたから」
「肇、ありがとう」
さやはにこりと笑って根津の足に抱きついた。根津は小さく返事をしてさやの頭を優しく撫でる。
「さや、遅くなって悪かったな」
「ううん。大丈夫。肇の事も大事だもの」
えへへ、と照れ臭そうに笑うと、今度は黒楼の方に向き直る。
「こんにちは黒狐さん。わたし、さやっていうの」
「黒楼だ」
スンスンと鼻をさやの着物の匂いを嗅ぐ。くすぐったいと言ってさやがじゃれついた。
「ふふふ。仲良くなってくれて良かったですねぇ」
「そうだな。んで、咲を呼び出したらそっからは仕事の時間だ」
「まさか……!肇くんってば、私がこのか弱い身体を張ってまで助けてあげたというのに……」
「それとこれとは別の話だろ、センセー」
根津はニヤリと笑う。由依は下唇を突き出しながら頬を膨らませた。
「芋羊羹は全部終わった後のご褒美だな」
わざとらしいその膨れっ面が鼻についたのか、眉をぴくんと動かした根津は、由依が先程ルンルンと持ち運んでいた紙袋を取り上げた。
「なっ!肇くんの意地悪……!」
「なんとでも。アンタ、天才作家なんだろ」
「んもぅ!そうやって揚げ足ばっかり取って!」
「次の締切こそギリギリを回避してもらうからなァ!」
バタバタと広い平屋に大人の足音と、微かに小さな笑い声がふたつ。交わる事のない世界がこの屋根の下で一つに重なった。
小説家由依千歳の徒然妖奇譚 杏西モジコ @mojiko0216
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