小説家由依千歳の徒然妖奇譚

杏西モジコ

第1話 寂しがり屋の悪戯妖怪


 少年は暗い石畳の広がる山の中でぽつんと立っていた。目の前には小さな祠が建っているだけ。他に何かがあるわけでもない。

『オレを助ければ許してあげる』

『大丈夫、手を伸ばして祠の台座に触るだけだ。取って食いやしない』

 脳に直接語りかけてくる声は聞き覚えがあり、少し高めの子どもの甘ったれた声だった。そして、この祠にも見覚えがある。

 これは………。



 うるさい程の着信音で目が覚めた。根津は枕元に置いていたスマホに腕を伸ばし画面を見ると、上司の兼田の名前が表示されていた。遅刻でもしたのかと焦って部屋の時計を確認したが、何時もの起床時間よりも三十分程早い事がわかった。

「……お疲れ様です……。なんスか。こんな朝っぱらから」

 欠伸を交えながら通話に応じる。寝起き一番に聞く声が会社の上司なんて目覚めも悪い。

「朝早くに悪いが今日は先生の家に直行してほしい。もう印刷所が待ってくれそうにないんだ……!代行の作家も一応いるが、売り上げはやっぱり」

「わかりました、殴ってでも原稿奪ってきます」

 根津はわざとらしく大きな溜息をしながら、兼田の声に被せて返事をした。

「まぁ、君ぐらいしか彼に強く言えないから任せるが……とりあえず状況の確認が取れ次第連絡してくれ」

 それだけ伝えると兼田は電話を切った。根津は起き上がると切られたスマホをベッドに放り投げ、舌打ちをした。切羽詰まった挙句の電話なのだろう。昨日もきっと徹夜で作業をしていたのかもしれない。そしてそれは、編集側だけの話ではないだろうが。そう思うと気の毒だが、モーニングコールはまた別問題だった。



 かの有名な小説家、由依千歳はもう間も無く差し迫る締め切りに対して匙を投げた。というか、すでに投げていた、が正しい。早朝に様子を見に彼のやらたらと大きくて広い平屋に足を運ぶと、案の定だった訳だ。仕事場である書斎はもぬけの殻。茶の間のテレビは付けっ放し。洗濯物はいつ干したか分からないぐらいカラカラに乾いていた。根津が洗濯物を取り込みに庭の物干し竿の前へ立つと、おおっぴらに開いた雨戸から台所のヤカンがヒューヒューと湯が沸いた音が聞こえた。

 縁側に取り込んだ洗濯を山積みにし、台所へ向かうと、大事に育てている白い文鳥を頭に乗せてヤカンからお湯をカップ麺に注ぐ由依が立っていた。

「由依センセー。そろそろ書いてくれやしませんかねぇ」

 ボサボサの頭を見ると、起き抜けなのはわかった。竜胆色の着流しに紺色のどてらを羽織り、モコモコしたピンクのスリッパを履いている。生活力のない彼は長くて綺麗な髪を硬く髪留めで結い上げ、無意識に痛めつけていた。

「あぁ、来ていたんですか。申し訳ないですが、たった今起きたところなんですよ」

「んなの見りゃ分かる」

「でも、丁度良かった。これ、やってもらえますか?」

 由依はカップ麺についていた火薬や粉末スープの袋を根津に渡した。

「作り方ぐらい見りゃいいだろ」

「肇くん、私は貴方の手作りを欲しているんですけど?」

「これは手作りって言わねぇだろーが」

 根津は大きく溜息を吐きながら、作りかけのカップ麺を受け取った。

 つーか、なんで先にお湯だけ入れるんだよ……。

 彼の中でカップ麺は「お湯を注ぐだけ」という知識しか無かったようで、付属の火薬や液体スープはフィルムと一緒に放り出されている。根津は小さな舌打ちをし、説明書の順番に火薬をカップへ投入した。

「で、いつ書き上がるんだ?」

 根津は腕時計の秒針をじっと見ながら、戸棚からお茶っ葉を取り出すと、片手間に急須に入れ、ヤカンに残ったお湯を注ぐ。

「そうですねぇ。差し支えなければ明日……いや、明後日ぐらいまでになら、ってところでしょうか」

「全然じゃねぇか。タイムオーバーだよ」

 急須から湯のみにお茶を淹れると、根津は由依に茶の間へ行くように言った。由依はにこにこと軽く返事をすると、頭の上に乗せている文鳥を、鳥籠へ戻しに行く。お茶とカップ麺、そして由依の箸をお盆に乗せて根津は茶の間へ移動した。

「何が何でも今日書き上げろよ」

 こたつの電源を入れて、由依と根津は向かい合わせに座った。カップ麺を由依の前に置くと、蓋を開けようとするので、根津は片手で由依から少しカップ麺を離す。

「あと一分」

「根津っちは細かいですね」

「その根津っちってのやめろ」

 ふふふ、と由依は笑う。

 根津は溜め息をつくと、付けっ放しのテレビを消した。

「アンタに依頼がきてたんだよ」

 すすっとカップ麺を由依の前に戻す。

 お湯を注いでから三分経ったらしい。

「おや、一分ってのは嘘ですか?」

「センセーも細かいですね」

 蓋を開けて、箸で麺をほぐすやいなや、由依は「そうだ、アレを入れましょう」と言って冷蔵庫へと駆けていく。何を持って来るのだろうと見ていると、彼はマヨネーズを持ち再びこたつへ足を入れた。

「待て待て、それは無い」

 口の中を想像して根津は顔を引き攣らせた。

「肇くんは世間知らずですね。これビックリするぐらい美味しいんですよ」

「世間知らずはアンタだろうがっ」

 肇は由依マヨネーズを取り上げて、背中へ隠す。

「あ、ちょっと!意地悪しないでくださいよっ」

「こういうことは、俺が居ない時にやってくれ」

「せっかく美味しい食べ方を伝授して差し上げようと思っていたのに……」

「そんな世話いらねぇから」

 しょんぼりと肩を落とす由依を目の前に、根津は小さな茶封筒をスーツの内ポケットから取り出した。

「さっきも言ったが、依頼がきてる。ホームページのメールもそうだが、郵便受けぐらい確認しろ」

 根津はこの部屋に上がる前、新聞と郵便で溢れ返ったポストをこじ開けてきた。

「新連載でしたらお断りを」

「郵便受けに入ってた分は脱稿後の方が気楽にできるものだ。問題はこっちだ。先週末にメールが来ていた」

 根津は郵便受けに入っていた封筒を内ポケットに仕舞い込み、持ってきた方を由依の方へ突き出した。しかし、由依は封筒には目もくれず、箸で持ち上げた麺に息を吹きかけ、ズズッとカップ麺を啜る音が茶の間に響いた。

「肇くん」

「なんスか」

「食事中は静かにお願いします」

「……へいへい」

 先程淹れたお茶を啜り、頬杖をつきながら由依がカップ麺を美味しそうに頬張る姿をぼうっと眺めた。

 でかいリスかよ……。

 膨れた頬を見て呆れつつ、編集部へ由依の原稿進捗を伝えようと、スマホをジャケットの胸ポケットから取り出すと、掛け時計の時間とスマホの画面に表示される時間が違うことに気がついた。よくよく見ると、数分ズレではなく数時間はズレている。

「あぁ、あれですか。この間悪戯されちゃったんです」

 根津の視線に気がついた由依が、さらっと答えた。

「誰にだよ」

「さぁ?」

 由依は肩を少しだけあげて、困ったような仕草をしたが、わざとらしくて鼻で笑った。

 そんなことはお構い無しにスープまでゆっくりと堪能している彼は、どうやら締め切りというものの理解がないらしい。仕方なしに、名残惜しくもこたつから足を出して縁側に座り込み編集部へ連絡を入れた。スマホを耳に付けたのを見た由依はひらひらと手を振りながら「明後日まで延ばしてくださいね〜」と呑気に言う。再び小さな舌打ちが漏れ、眉間に一層深くシワが寄った。



 電話で由依が全く仕事を進めていないことを上司の兼田に伝えると、盛大に溜息をつかれた。どうにかして原稿をもらってこい、なんならコラムでもいい。明日の午後までは時間をくれてやる。彼は鼻息荒く捲し立てるようにそれだけ言うと、一方的に根津の電話を切ってしまった。

 縁側から居間を覗くと、由依がこたつに潜り込んですやすやと寝息を立てていた。

「ざっけんな、起きろよ」

 舌打ちとともに乱暴な言葉を吐いても、由依は目を閉じたまま起きようとしない。先程、今起きたばかりだと言っていたがあれば嘘に違いない。一体、原稿も進めずに夜通し何をしていたのだろうか。付けっ放しのテレビはお昼のニュースが映っていて、ここ最近器用な手口の空き巣が流行っていると報道している。偶然にもこの偉大な由依千歳先生の住む近所からその被害が多数出ているらしい。

 まぁ……留守になることのが珍しいか。

 一瞬、この家の心配をしたが、根津はそれをすぐに覆す。金目の物を探そうにもこの家は広くて、変なガラクタが多い。そして何よりこの家主だ。骨董品でさえも綺麗に扱っている試しなどないだろう。

「ったく……見ないなら消せってーの」

 聞こえてるのか分からないが、小言を言いながら根津はテレビを消した。カップ麺も先程淹れたお茶も一気に飲み込んだようで、空っぽの容器だけがこたつの上に置いてある。

 こんなに食べてすぐ眠るなんて……。

 目を離したのはほんの数分というところだろう。小説家というのは締め切りに自ら追われにいく難儀な生き物だと思った。本当に一文字も書いていないのかも疑わしく、根津は離れにある彼の書斎へ向かった。


 外から差し込む日射しは障子紙に反射してやたらと眩しく目が眩む。広い平屋は廊下がやたら長く、離れの書斎は先程までいた茶の間からだいぶ遠く感じた。軋む廊下を歩いた先の書斎のドアを開けると、くしゃくしゃに丸まった原稿用紙がいたるところに散らばり、足の踏み場も無い状態になっていた。朝方まで頑張ってはいたが……ってところだろう。机を覗き込むと、綺麗な字が並んだ数十枚の原稿用紙が綴り紐できちんと括られたものが置いてあった。見た感じからして、書き終えている状態だ。いつも綴り紐で括ったこの束の状態で原稿を回収する。後で入れようとしていたであろう茶封筒も、すぐそばに用意されていた。

「出来てんじゃねーか」

 原稿用紙の束をパラパラとめくる。きっちり由依の綺麗な字が敷き詰められているように見えた。

「それ、未完成なんですよ」

 後ろを振り向くと、くわっと大きな欠伸をしながら由依がドアに寄りかかっていた。いつから後ろにいたのかまったく分からない。

「未完成って、どこが」

「真ん中から……というか、ちょこっと盗まれちゃったんですよねぇ」

 由依は呑気にもう一度大きな欠伸をした。

「どういうことだよ」

「見れば分かりますよ」

 根津は言われるまま、原稿用紙の束をもう一度パラパラとめくった。由依が言った真ん中のページを確認すると、不自然な程綺麗にそのページから疎らに一部の文字だけが消えている。

「自分で消したんじゃ無いのか?」

「まさか。仕事熱心な私がそんなふざけたことをするわけが無いでしょう」

 眉を寄せて心外だと言うような表情を見せる。根津はあながち間違いではないと思っていたが、今時珍しい手書き原稿を扱う由依は数文字だけを消すなどという、面倒なことは確かにしない。

「言ったでしょう。盗まれたって」

「どう見たってお前の編集者に対する反抗心から生まれた悪戯だろ」

「こう見えて私、売れっ子作家なものですから、私が書いた文字……もしくは中身が大変気に入ったとも考えられます。ちなみに、そこさえきちんと戻れば原稿は完成です」

「はぁ……。なら思い出す限りで良いから、ページの抜けた部分を埋めればいいだろう」

「それもそうなんですけど、埋められないんです」

「…………は?」

「その原稿用紙と同じ原稿用紙は二つとして存在しないんですよ。何度も書き直そうとしました。でも、ダメなんです。同じ文章を写そうにも写せない」

 由依は足元に散らばった原稿用紙を拾い集め、根津に数枚手渡した。

「よく見てください。手始めにこのページを再度書き直そうとしたんです」

 手渡された原稿用紙を見ると、文章の抜けた原稿とそっくり同じ場所だけが消えていた。

「手の込んだサボり方だな」

「根津っちは意地悪しか言いませんね」

「その根津っちって呼び方はやめろ」

 由依はふふふっと笑って、机の椅子に腰掛けた。

「盗まれたのは登場人物です。言い方を変えれば……これは誘拐ですね」

 背もたれに体重をかけ、天井を見上げながらくるくると回っている。

「……そう言えば、数日前からおかしいんですよね、この家」

「アンタのまわりはいつもおかしなことしか起きてないだろ」

「肇くん、私にきている依頼って何か窃盗的な話でしょうか」

 由依の問いを聞いて根津はぴくりと片方の眉を動かした。

 その表情をみて、由依は「ふぅっ」と深呼吸をする。

「窃盗というか、気がついたら何か消えていたり、動いていたり……悪戯にしては奇妙なことが立て続けに起こっているってやつが沢山いるんだとよ。それも丁度この家の近所でだ。依頼主はこの近辺の中学生。大事なゲーム機や漫画、冷蔵庫に入れていたプリンや炊いたばかりの白米、母親の帽子や父親の長靴が盗まれたってよ。全部つい数時間前まで使っていた物で、全部一気に消えたんだと。誰も部屋に入った形跡もない。炊いたばかりの白米なんて、炊飯器の音がして数分のことらしい。盗んだ物も、ゲーム機はさておき、金目のものも殆どない。どう考えても人の仕業に見えないからここへ連絡したと書いてあった。さっきテレビでも空き巣被害がどうのって報道もあったし……やっぱ偶然にしたらおかしな話だと思ったわ」

「あぁ、そうでしたか」

「そうでしたかって、おまえな」

「差出人のお名前は」

「いつも通り匿名だった」

「そうですか……。困りました。今から別の原稿を書く気力はありませんし、脱稿するにはその依頼の解決が必須ですねぇ」

「もったいぶると暴れるぞ」

 由依は溜息をつき、肩をすくめる仕草をすると、椅子を回転させながらゆっくり話し始めた。

「これは依頼人のおっしゃる通り、妖、つまり人の仕業ではありません」

 得意げに話す由依を目の前に、大して驚くこともなく根津は足元に散らばった原稿用紙を屑篭に入れ始めた。

「想定内なんだろ、アンタも」

「肇くん、こういう時はもう少し驚くのが礼儀ですよ」

「うわぁ、妖とか、まじこえぇ」

「うんうん。安心したまえ、肇くん。その涙を拭いて私と一緒に解決への道を見つけようではありませんか!」

「泣いてねぇよ」

 根津は拾った原稿用紙を音が立つようにグシャリと握った。

「おふざけはこの辺にしましょう」

 くすりと笑って由依は机の引き出しから蝋燭を一本取り出し、根津の背中にある本棚に置いていた使い古された蝋燭立てに立てる。火が飛ぶからといって、未完成の原稿を乱暴に根津へ投げつけ、どこから取り出したのか、紫色の怪しい箱からマッチを取り出し、火をつけた。

 まだ昼間だというのにゆらゆらと燻れる小さな火は赤く伸びて淡い光を放っている。

 由依はその火に出来るだけ両手を近づけて火の中心に視点を集中させた。

「カーテン閉めるか?」

「お願いします」

 根津は火が消えないように由依の後ろを通り、窓の外から光を遮断した。蝋燭に灯った淡い光に何が映るのかは根津には分からないが、由依がやるのだから何かしら意味があるのだと思っていた。


 この男、由依千歳は幼少期より不思議な力を持っていた。人には視えない『何か』と話をすることや不思議なことが起きた現場の過去を覗くことができる。 昔は周りが気味悪がっていたために、あまりその奇々怪々とした力を使うことは無かったが、とある事件をきっかけに人のために、妖のためになるのであればと考え方を変え、インターネット上で妖相談所なるものを設立したのだ。依頼方法は簡単で、匿名でも記名でも良いのだが、根津が管理するホームページの依頼項目からメールを送るだけ。内容やその事件の発生場所などの情報を細かく記載する。もしくは同じく依頼内容を記載し、茶封筒に入れて由依千歳の自宅へと郵送する、それだけだ。今時自宅の住所を公開することは危険だと散々根津に怒られたのだが、妖相談所の主人が『由依千歳』であることは非公表だから大丈夫だというゆるゆるのリテラシーを振りかざし、由依は根津の忠告に聞く耳を持たずそのまま大っぴらにしている。

 そして基本的にこの家のポストを確認するのは決まって自身ではなく根津。この手の仕事の管理も自分の連載を数年前から受け持ってくれている出版社の担当の根津を勝手に付け、現在に至る。嫌々と文句を言いながらも事務仕事をこなしてくれる彼には由依も感謝していた。

「何か見えたか?」

 先程、赤く淡い光が伸びていたはずの炎にはだんだんと青く色を変えていく。

「ええ。これは、うちの近く……三軒先の中村さんのお宅ですかねぇ……」

「はぁ?」

「ええ、きっとそうです。この近辺でお庭に犬小屋があるのは中村さんの家ぐらいですから……」

 由依は手を引っ込めると同時に根津の顔を見上げる。自信満々な表情に根津は溜息をついた。

「いい加減にしろよ。おちょくってんのか?」

「私は真面目です。おかしいんですよ、中村さんのお家って可愛いワンコくんがいるじゃないですか」

「あぁ、よくお前に吠えるやつな」

「吠えてるのではなく、あれは彼なりの愛情表現です」

「あーそうかよ。で、その犬がどうした」

「えぇ、そのワンコくんが何もないところに向かって吠えているんです」

「それも愛情表現ってやつなんだろ」

「違うんですよ。私には向けないような、恐怖を訴える……そんな鳴き方なんですよね」

 由依の言う中村さんの家には、さっきから会話に出てくる犬が一匹と、老人夫婦が住んでいる。時々孫の男の子が遊びに来ているようだが、ごく普通のよく聞くような家庭で、まったく不思議なところなど何もない。たしかにあの犬の由依に対しての反応は近所でも有名なぐらいではあるが、あの老夫婦や孫には懐いていて何もない時に吠えることはまずない。

 由依は蝋燭の火を静かに吹き消すと、根津の腕を取った。

「確認しに行きましょう。引っかかって昼寝もできません」

「ったく……」

 手に持っていた未完成の原稿を机に戻すと、根津は由依に引っ張られるまま、書斎を後にした。



 三軒先の中村さんの家は、由依の家と同じく平屋で大きな庭が目立ち、外で犬が飼われている家だった。犬種はみたところ柴犬あたりの雑種だが、穏やかそうな表情をしてはいるものの、吠えると迫力がありそうなのが見受けられる。

「今日は中村さんご夫婦、いらっしゃらないのでしょうかねぇ」

「さぁな。犬にでも聞けば良いだろ」

 由依はウーン、と小さく声を漏らしながら何かを考え始めた。先程の過去を視る能力を使うにはあの何だかよくわからない蝋燭が必要なのだろう。着流し姿にどてらを着たままの彼は、時折吹く冷たい風に身震いをしていた。

 ウンウンと唸りながらどんどんと由依は敷地内へ入って行く。根津が止めに入った頃はもう縁側に回りかけていた。

「おい、不法侵入だぞ」

「肇くん、おかしいと思わないですか?」

「アンタの頭ならいつもおかしいだろうけど、それがどうかしたのか」

「彼が鳴かないんです」

 由依が指をさした先にあるのは例の犬小屋だ。中ではこちらを不思議そうというよりは不安そうな顔で見上げる由依の天敵がいる。

「うんざりしているとか」

「まさか。私への愛情はあれだけと言うんですか?」

 しかし、由依が手を伸ばして頭を撫でてやるとそれをも受け入れる。確かにおかしい。あれほどギャンギャンと近所迷惑にもなるほど吠えていた犬が、こんなに急にしおらしくなるものなのか。由依が知らないうちに手懐けたとも考えたが、あいにくこの人はこんなナリでも売れっ子作家だ。サボることは確かに多くても、体力のないこの男に限って懐くまで犬と遊ぶ考えられない。

 根津は腕を組み、その場にしゃがみ込んで犬と目線を合わせた。

「悪いものでも食ったのか?」

 犬はクゥン、と切なそうに鳴き、相変わらずいつもよりも大人しい。根津も手を伸ばし犬の頭を優しく撫でてやる。伏せていた犬は気持ちよさそうに目を細めると、くわっと大きな欠伸をして姿勢を正し、お座りの形をとった。

「お、お前賢いな」

 根津が犬を構っている間、由依はキョロキョロと人様の家の庭をぐるぐると歩き回っていた。

「あぁ、もしかして……」

「おい。そろそろまずいだろ」

 由依が縁側から和室を覗き込んでいるのを見て根津が声をかけた。

「肇くん、大変です」

「なんだよ」

 大変という言葉を聞いて根津は由依に駆け寄った。由依と同じように庭から和室の様子を伺うが何ともない、というか何も感じ取れない。それもそうだ、根津には見えない何かを視る力などない。降参だという溜息と共に由依の方へ視線を向けると、眉を寄せて困った顔を向けてきた。

「何か感じ取れませんか?」

「いや、特に……。不快な感じはしねぇな」

 根津は素直に答えた。普段から妖が視える訳ではないが、根津も嫌な気配ぐらいは感じられる。しかし今日は特段そのような気配は感じなかった。

「ですよねぇ……。今回は結構、骨折り損になるかもしれません」

「はぁ?」

「あら、由依先生、いらしたんですか」

 二人が犬小屋の方へ視線を向けると、紙袋を手に下げた中村百合子が立っていた。

「ここの奥さんですよ」

 根津に軽く耳打ちすると、由依は百合子に頭を下げた。彼女は性格も優しく、時々由依とお茶や世間話をする仲でもあった。

「すみません、勝手にお邪魔してしまいました。久々にワンコくんと目が合ってしまったもので」

「あらあら、そうでしたの。今、ちょうど由依先生のお宅へお裾分けしようと思って出てたところなんですよ」

「そうだったんですか。入れ違いでしたね。すみません、いつも」

 根津は彼女と目が合うと軽く会釈をした。

「彼は私の友人、根津肇です。そういえば、今日ご主人は……」

「主人はこの時間、囲碁の集まりに行ってますよ」

「あぁ、そうでしたか」

 百合子は紙袋を由依に差し出した。中からふんわりと醤油の効いた香りがする。

「これ煮物です、たくさん作ったので」

「ありがとうございます。肇くん、百合子さんの煮物は絶品ですよ。これがまた熱燗との相性がまた最高なんです」

 百合子は嬉しそうに笑った。たしかに、この寒さと熱燗にはぴったりの肴だろう。

「百合子さん、寒い中ご足労をおかけしました。さぁ、中でお休みください。私たちも帰って仕事の続きをしないとですし」

「まぁ、休憩中でしたのね。先生もほどほどにお休みくださいな。それではまた」

 百合子はぺこりとまた頭を下げ、引き戸の玄関を開け、いそいそと中へ入っていった。

「肇くん、一度帰りますよ」

「……いいのか」

「微調整が必要ですからね。とりあえず熱燗で一杯やりましょう」

「昼間っからかよ……」

 鼻歌混じりに、スキップをしながら歩く由依の後ろを、呆れ顔で根津はゆっくりと追い、家に向かった。



 由依の家にもどると、由依は古くて分厚い書物を書斎から取り出して根津に渡した。

「埃っぽいな」

「あまり見ない資料でしたので」

 茶の間に移動をし、こたつのスイッチを入れる。根津が向かい合わせに座ろうとすると、由依がにこやかに「喉が渇きましたねぇ」と言ったため、根津は渋々と台所へ移動して行った。


 数分後、長くなると踏んだ根津が、保温ポットと急須に茶葉、そして二つの湯のみを持って不機嫌な顔しながら戻ってきた。

「熱燗を期待しましたが、肇くんはお仕事中でしたもんね」

 にこにこと嬉しそうに由依は声を掛け、こたつから出来るだけ出ないようにしながら、テレビの横にある戸棚からお茶請けになりそうなお菓子を取り出した。

「ったく……。で、話」

 根津はこたつに入りながら顎で本を指した。

「えぇ、実はこのページを見てほしいんです」

 由依がパラパラと本をめくる間、根津はポットからお湯をお茶っ葉の入った急須に注ぎ、湯のみにお茶を淹れた。湯のみを由依の前に置くと同時に、由依から本を手渡される。

「……座敷わらし?」

 開かれたページにはおかっぱ頭で赤い着物を着た女の子の絵が描かれている。歳は五、六歳といったところ。幼さが際立つが、不気味な雰囲気のある絵だった。

「えぇ。めちゃくちゃ良い妖として有名ですよね」

「これがどうした?」

 由依は湯のみを両手で持ち、お茶を啜る。

「居たんですよ、先ほどの中村さんのお宅に」

「はぁ?」

「こんな感じの女の子が和室に座って遊んでいました」

 由依は、ふぅと一息つくと根津に向き直った。先ほど居たと言ったが根津には覚えがない。それはそうだ、視えていないのだから。

「彼女の遊び道具、何だと思います?」

「何って……そうだな、無難におはじきとか」

 真面目に答えた根津を目の前にして、由依はブハッと声を出して笑った。

「なんだよ」

「いえ、可愛いらしいと思いまして。彼女は妖ではありますが、イマドキの子ですよ」

「何が言いたい」

 根津は由依の含み笑いに腹立っている。

「先程、お茶を淹れて頂いている間に今朝渡された封筒の中を確認しました」

 由依は茶封筒を根津に渡した。受け取った根津は中の書類を取り出すと内容を確認する。取り出した書類は二枚。内容は最近多発しているこの近辺の不審な失せ物事件に関するメールを印刷したものと、メールに書いてあった失くなったとこの近辺で失くなったと騒がれている物を一覧化された書類だった。

 書面に記載されている失くなったと騒がれていたのは、用意した朝食や冷蔵庫のプリン、化粧品、お菓子や携帯ゲーム機や絵本、そして漫画に会社の書類や長靴。腕時計に、アクセサリーや洋服など、まったくといって統一性がない。

「ほぼ、一致していたんですよね」

 由依は湯のみに口をつける。

「何がだ」

「彼女が遊んでいたそばに散らばっていたのは、ここに書かれている物とほぼ一致していました。無い物もありましたが、まぁ、朝食やプリンに関しては食べてしまったと考えて間違いないでしょう」

「馬鹿も休み休み言えよ、籠って執筆ばかりしてると脳もお花畑になるのか?俺には妖は視えなくても、現実にある物なら視えるはずだぞ。少なくともゲーム機なんてあの場にはなかった」

「座敷わらしは妖です。彼女が触った物が、視える人にしか視えなくなる……その可能性もあります」

 由依はそう言ってまたお茶を啜った。だとしても、携帯ゲーム機の遊び方なんてどこでどうやって覚えるのだ。ひきつる顔をなんとか抑えようと根津は両手で顔を覆った。

「じゃあ、お前の小説はどうなる。結局、お前は何が盗まれたんだ?」

「……私の小説からは主人公の恋人です。言ったはずですよ、誘拐だって」

 由依はにこやかに答えた。コトンと、彼が置いた湯飲みの音が茶の間に響く。

「優しくて、慎ましやかで、主人公を支えてくれる現代にはみられない稀少な女性です。名前は春原咲と言います」

 春の原っぱに咲くなんて、とても綺麗な響きでしょう。にこやかに由依は言う。しかしそんなことは根津の耳には入らない。

「それを盗む意味がわからねぇ……。盗んだところで、ただの『言葉』だろうが」

 そう、言葉だ。いや、言い方を変えれば『文字』なのだ。彼女が他に盗んできた物とは形も違ければ、実態がない。そんな物をまずどうして欲しがるのかも、どうやって盗むのかも分からない。

「肇くんは座敷わらしについて何か知っていることは?」

 頭を抱える根津を見ながら、由依は静かに聞いた。根津は質問に対して首を横に振る。

「座敷わらしは別名口減らし……。口減しと言うのは、貧しさ故に育てられなくなった子どもを養子に出したり、捨ててしまうということです。つまり、彼女達座敷わらしは親に捨てられた子どもの妖。もしかしたら、私の小説に出てくるあの女性を母親に重ねたのかもしれません」

「自分を捨てた親と……か?」

「えぇ。彼女が亡くなった時代背景的に親も生きるために必死でしょうし……。子を憎む親などそれこそ稀でしょう。それこそ、泣く泣く手放すことになったとしたら……。優しいお母さんの傍に居たとも考えられます」

 二人して黙り込む。部屋には台所の冷蔵庫の音が響いた。再び根津が湯のみに口を付けると、変に遅れていた時計の秒針が、普段より大きめのカチっという音を立てて動いた。

「もしかして、これ」

 根津はハッとした顔で、時計に目を向けた。

「えぇ、たぶん。これは本当に悪戯の一種でしょう……。申し訳ないですが、後で直してください」

「ったく……」

 根津がゆっくり立ち上がり、掛け時計に手を触れる。古くて大きなつくりのその時計は、たしかに由依が持ち上げるには重すぎるようだ。

「後でで良いと言いましたのに……」

「忘れるとうるせぇからな。で、どうしたら原稿は元に戻せそうなんだ?」

 由依は根津の問いにわざとらしく腕を組んで唸った。

「試しに根津っちの一発芸と等価交換ってどうでしょうか?」

「時計壊すぞ」

「いやですね、冗談ですよ。そうですねぇ……ただ、問題が一つあるんです」

 根津は時計を抱えるようにしてその場に座り、腕時計の時間を確認しながら針を合わせる。

「問題って?」

「もしも彼女を怒らせてしまったら、中村さんのお宅が危ないんですよ。座敷わらしって幸運を運ぶ妖といって有名ですが、その逆に怒らせればその家は不幸に……って、出て行かせてもいけないって言うじゃないですか」

 こたつの真ん中に置かれたお茶請けの皿から饅頭を手に取り、封を切る。

「さっき言ってた等価交換はできねぇのか?」

「え、ネタがあるんですか?」

「違ぇよ。何か、そういう菓子とかじゃダメなのかっつー話だよ」

 根津はこたつテーブルに広げられたお茶請けのお菓子を指差した。由依は「あぁ!」と、驚いたような声を出したが、根津にはわざとらしく聞こえて眉間のシワをより一層深く寄せられただけだった。

「名案ですねぇ。ですが、それが欲しければもうとっくにどこかから持ち出しているでしょう」

「まぁ、そりゃそうか」

 根津は振り出しに戻ったな、と呟くと手元の時計に視線を落とす。

「あぁ、でも……」

 由依はお茶請けにあった饅頭を見ると、にこりと笑って根津の方へ向いた。

「ワンチャンというのを狙ってみましょう」

 悪戯っぽく笑った由依はこたつから出て、手に持っていた饅頭を根津の口元へ持っていく。空いている腕を根津の首に回して、口元に持っていった饅頭を根津の唇に当てては離した。

「あんまり若者ぶるなよオッサン」

「君も私と対して変わらないでしょう?」

 由依がもう一度、根津の唇と饅頭にキスをさせようとすると、根津は由依の腕を掴んで一口で饅頭を口の中に放り込んだ。

「甘っ」

「ふふふ、待てが出来ない子ですねぇ」

 由依が笑いながら離れると、根津はフン、と鼻で笑いながらジャケットのポケットに一つ饅頭を忍ばせた。




「作戦はこうです。我々がお菓子を先程のお礼にという形で中村さんのお宅へ行く。そしてお部屋に上がらせてもらって、私があの座敷わらしとお話をする……うん、我ながら完璧な作戦ですね」

「なぁ、それ俺いるか?お礼が理由ならアンタだけの方が怪しまれないだろ」

「この作戦にはオトリは必須ですよ。それに肇くんは私の助手的ポジションでしょう」

「そんな面倒なものになった覚えはねぇ」

 由依は根津の言い分を聞きもせず、茶の間の戸棚にしまい込んだ箱菓子を引っ張り出した。どれも『お歳暮』と書かれたのしが付いていた。送り主は出版社や雑誌の編集長やらの仕事関係者が多かった。根津は口をへの字に曲げたまま、渡された箱菓子を眺めた。

「貰い物の横流しかよ」

「無駄にするよりは良いでしょう。あ、その洋菓子は私が食べるのでダメですよ」

 根津が手に取った大きな缶をひょいと取り上げ、いそいそとしまい込んだ。

「太るぞ」

「肇くんは私のムチムチなところが好きなくせに」

「ンなこと言った覚えねぇよ」

 ガサっと大きな音を立てて、根津は雑に箱菓子を紙袋に入れ込んだ。

「これで釣れたらワケねぇな……」

「ふふふ。私に任せて下さい」

 ニコリと笑って由依は紙袋を根津に持たせた。



 由依と根津が中村宅へ向かったのは日が暮れてからだった。もう辺りは暗いというのにまだ外に出されたままの犬は相変わらず伏せっていて、二人が入ってきても吠えずに後ろ姿を見送っている。庭の方に灯りが漏れているため、今度は留守ではなさそうだ。

 由依が引き戸の玄関を開き、「ごめんください」と一声かけると、バタバタと足音を立て返事をしながら百合子が出てきた。玄関に立つ二人を見るとにこりと笑う。

「あら由依先生じゃありませんか。こんばんは」

「こんばんは。夕飯時に申し訳ございません」

「良いのよ、ついさっきすませてしまったところなの。どうしたんですか?」

「こちら、煮物のお礼です」

 由依が根津の持っていた紙袋を彼女に手渡した。

「以前、編集社からもらったんですけど、とても美味しかったのでお二人もぜひ」

「あらぁ、わざわざありがとうございます。良いのかしら」

 彼女は遠慮しながら頭を下げるが、声色はとて嬉しそうだった。すると、彼女は二人を中へ誘った。

「どうぞ。外は寒いですから暖まって帰りなさいな」

 根津は一歩足を引いた。知らないお宅に入り込むなんて面倒極まりない。由依だけでことを済ませればいい、そう思って由依の背中を軽く前へ押した。

「肇くん、百合子さんのお誘いですよ」

「……俺は仕事中なんで」

「原稿のためだと思ってください。これは仕事の一環です」

 華奢に見えて由依の力は、やはり成人男性と同等だ。根津は呆気なく引っ張られ、やむを得ない形で靴を脱いだ。

 軋む廊下を歩いて、居間に通されると、揺り椅子に揺られた白髪の目立ち始めた中村茂利が目を細めながら古書を読んでいた。

「あぁ、由依先生。これはこれは……。お久しぶりです」

「中村さん、相変わらずお元気そうですね。もう足の具合いは宜しいのですか?」

 根津は由依の横で軽く頭を下げ、茂利の足を見た。包帯などはされておらず、年齢とともに悪化した関節痛の類の話をしているようだった。

「それがですね、見てくださいよ。以前は杖が必要だったのに今は杖がなくても立ち上がることができるんです」

 そう言って茂利は揺り椅子から立ち上がって見せた。ふらふらすることなく立ち上がって、片足を軽く上げる動きまで見せる。

「中村さん、良かったじゃないですか!これでワンコくんのお散歩も奥様とご一緒に行ける様になったんですね」

 由依は手を叩いて喜んでいた。

「あぁ、それなんですけれど」

 百合子が台所から人数分の湯呑みと急須を持って入って来た。襖で仕切られた部屋は、少し開いただけでも冷気を感じる。

「何かあったんですか?」

「主人の足が良くなったことは嬉しいことなんですけど、同じ時期にあの子が家に寄り付かなくなってしまって……」

 百合子はお茶を淹れながら眉を寄せた。

「あの子って」

「うちで飼ってる犬です。さっきも外にいたでしょう。寒い時期だから夕方から中に入れたいのだけど、中に入るのをすごく嫌がるよつになってしまって。流石に寒さには耐えられる気がしないから、いつも夕食後に無理矢理家の中に入れてるんです」

 由依は目の前に置かれた湯呑みを受け取りお茶を啜った。

「お散歩も嫌がるんですか?」

「いや、散歩は跳ねるように喜ぶんだよ。勢いが良くて困るぐらいに」

 茂利の言葉に由依はピクリと眉を動かす。根津はその様子を黙って見ていると、不意に由依と目が合った。

「もうこんな時間。そろそろ中に入れないと……」

「また悪戯される前にな」

 百合子が立ち上がると同時に、茂利がボソリと呟いたのを根津は聞き逃さなかった。

「悪戯?」

「えぇ。最近、ウチのものではないものが和室に転がっていることがありまして。縁側から投げ入れられたんだと思うんですよ。話を聞けばご近所さんからは盗難の被害が出てるって言うし、犯人の悪戯なんでしょうけど……。そんな中、外に出したままにしておけないじゃないですか」

 百合子は肩をすくめながら、廊下へ続く襖を開けた。

「百合子さん、肇くんが手伝います」

「おい」

「悪いですよ」

「大丈夫です。こう見えて肇くんはここのワンコくんとお友達ですから」

 昼間に根津が撫でていたのを思い出した由依は適当なことを言った。

「そうなんですか?」

「あー……まぁ、ちょっとさっき」

「ですから、肇くんにお任せ下さい。ほら、行った行った」

「痛っ!おま、ったく……わかったよ」

 由依は根津の背中をバシンと叩くと、部屋から追い出した。ひらひらと手を振りながらその後ろ姿を見送り、由依は百合子と茂利に向き合って座り直す。

「さてと……。少しお二人にお聞きしたいことがあります」

「はぁ」

 外から犬の鳴き声が聞こえ、三人の視線も玄関の方に向けられたが、由依の咳払いで戻される。

「最近、ワンコくんの様子と足の具合以外に変わったことはありますか?あと、できれば悪戯で転がっていた物を覚えている限り教えて欲しいです」

 玄関の扉が開いて、ガチャンと大きな鍵を締める音が響いた。根津と犬がドタバタと玄関で騒いでいるのが聞こえる中、由依の表情はにこにこと変わらなかった。

「そうですねぇ……特には。運び込まれた物も別に高価な物が多い訳じゃなかったし……」

「あぁ、長靴や庭仕事用の帽子やら、子ども用のハンカチだったり、泥棒にしては盗む物がおかしいと思って、どっかの誰かが悪戯をしてるんだと思ってなぁ」

 茂利が眉間に皺を寄せながら答えた。

「見つけたものは交番に届けてはいるんですけどね。でもここ数日は悪戯も落ち着いて……」

 百合子は首を振った。この人が嘘を言っているようには見えず、由依は頷く。ハンカチや長靴、庭仕事用の帽子が失くなっていることに直ぐ気がつけないのはなんとなくわかる。それが今になって騒がれただけなのだろう。だが、ゲーム機や時計、アクセサリーなどは、値段が値段なだけにテレビのニュースで報道されるまで発展している。これに関しては運良く妖の力で人の目に見えなくなってしまっただけで、実際にはあの和室に転がったままだ。

 ウーン、と唸りながら腕を組み、茂利は言った。

「あとは孫が遊びにきている時と空気感が似ているというか、なんというか……。他の人がいるような……なぁ?」

「言われてみれば……なんでしょうかねぇ。やっぱり、泥棒か何かが近くに潜んでるのかしら」

 百合子は一瞬表情を曇らせる。

 由依はそうですか、と一言伝えると立ち上がって昼間あの座敷わらしを見かけた部屋の方角を指差した。

「そう言われてしまうと、何か気になりますねぇ。ちょっとお家の……できれば大きな和室を見てもよろしいでしょうか?」

「えぇ。先生なら構いません。お噂はかねがね伺っていますし。でも、悪い物でもいたら……」

「まぁ、物は試しです。この家から悪い気配はしていませんから、きっと泥棒ではないはずです。……肇くん、まだ遊んでるんですか?」

 玄関からバタバタと犬との攻防戦を終えたばかりの根津は、スーツのジャケットを正しながら舌打ちをした。その姿を見て、由依が笑う程彼の額に青筋が浮き出る。

「そのお顔、すごくイケメンですよ」

「うるせぇ」

 襖を開け、軋む廊下に足を踏み出す。玄関から居間までの廊下とは違い、縁側を通り昼間に覗き見た大きな和室へと続く。特段変わったことはないのだが、それは昼間からの話であり、何かが居るというのは間違いなさそうだった。

 和室の襖を開け、由依は中の様子を伺った。静かに畳へ足を踏み入れると、ガサガサっという音がはっきりと聞こえる。

「肇くん。私から離れないでください」

「そういうセリフこそ、イケメンに限るんだよ」

「はいはい」

 ガサガサという音だけが聞こえ、何の姿も見えない。明らかに近くにいるのに、それが何かもわからない。昼間は何の姿も見えなかった根津にさえ気配を感じ取れる。

「あ、あれ」

 ガサガサという音が途切れると、何か白い物が和室の押入れ前から現れた。根津が拾い上げると、それは由依の部屋に転がる丸まって放置された原稿用紙と同じような形になった紙だった。

「あれは……さっきの」

「あぁ、ここの夫婦に渡した菓子の包装用紙っぽいな」

「やはり美味しいものは分かるようですね」

 二人は何かの気配を感じ、ゆっくりとあたりを見回す。静まった部屋に置かれた時計の音だけが薄気味悪く響いた。

「埒があかないぞ」

「仕方ありませんね」

 そう言って由依は先程、菓子の包装用紙が投げ出された押入れを開けた。たくさんの布団と古びた衣装箱が積み重ねられているのが見えた。

「おい、そこギチギチだぞ」

「いいえ、ビンゴですよ」

「は?」

 そう言って由依はしゃがみながら押入れに向かって手を差し出す。根津には由依が何をしているのか全く分からなかった。

「危害を加えるつもりはありません。少し私とそこの大きなお兄さんと遊びませんか?」

「おい、何して」

「静かに。彼女が私の手を握るまで待っててください」

 根津はまた舌打ちをして言われた通り黙った。

「そのお菓子、持ってきたのは私達です。美味しかったでしょう。有名な銘菓なんですよ」

 由依は見えない何かに語り続ける。後ろで根津は腕を組み、その様子を静かに見守った。

「一人で遊ぶのもお菓子を食べるのも、味気ないのではないですか?良ければ私と遊びましょう。どうかお友達になってください」

 すると、由依の手に何かが触れた。ぎゅっと優しくその何かを握る。すると、根津の目にもはっきりと見えるように、裾が丈と合っていない赤い着物を着たおかっぱの少女が立っていた。手には、先程由依が中村夫婦に渡した食べかけの菓子を持っている。由依が彼女に笑いかけるが、彼女は警戒心からなのか、表情が変わらなかった。

「私は由依千歳です。本を書いていますので、先生とかちーたんとか呼ばれています」

「おい」

「こちらは根津肇くんです。顔は怖いですけど、心は優しい一昔前のヤンキーと同じ類です。肇くんと呼んであげてください」

「だから、一言余計だ」

 とは言いつつも、根津は溜息を吐くと、少女に向かって無表情のまま手を振った。

「お名前、言えますか?」

「……さや」

「さやさん、ですか?」

 さやと名乗った少女は少し考えながら頷いた。

「おい。時間大丈夫か。ここお前の家じゃないぞ」

 黙っているとこのまま話し込みそうな雰囲気を根津が割って入る。由依はその言葉で思い出した、という素振りを見せてさやに向き直った。

「今から私のお家に、遊びに来ませんか?」

「いいの?」

 少女の顔が先程よりも明るくなる。誘ってもらえたことが嬉しかったのだろう。

「えぇ。朝になったらここに帰って来れば良いんですから。さぁ、行きましょうか」

「うんっ」

 由依とさやはしっかりと手を繋ぎ、根津の待っている廊下へと出た。由依が彼女の頭を撫でるように二回ほど触ると、少女の姿は根津の目には見えなくなった。

「少しだけこのままでお願いします」

 由依の言葉に返すように、さやは繋いでいる手を握り返した。もちろん、根津にはその仕草や様子は見えていない。

「さて、帰ったら夕食にしましょう。まだ食べていないカップ麺があるんですよ」

「客にはもっとまともなものを出せ」

 根津は今日一番の溜息をついた。

「肇くんの手料理でも良いのですけれど」

「その前に原稿が先だ」

「意地悪ですねぇ。焦らせる男性は嫌われちゃいますよ」

 頬を膨らませて、根津の顔を覗き込む。鼻をピクリと動かして、根津はその膨らんだ両頬を片手で潰した。

「へーへー。精進しますよォ」

「りゃんぼうはよひてくだひゃい(乱暴は止してください)」

 根津は舌打ちをして、その手を離す。居間の前に着き、由依に強く視線を合わせた。

「わかってますよ。やんわりお伝えしますから。肇くんはやっぱり優しいですねぇ。両方の味方とは美味しいです」

「うるせぇよ」

 襖を開けて、にこりと由依は笑顔を作った。




「すみません、長居をして。お邪魔しました」

 玄関口で由依に続いて根津も頭を下げた。

「いいえ。でも由依先生お墨付きで幸運を呼ぶ精霊が居た、なんて嬉しいわ」

「そうだな、精霊様にもお礼をしないとだ」

 何も適当に対応をした訳でもなく、由依はきちんと二人に何を感じとったのかを伝えていた。変わったことと言えば、昼間から全く由依に向かって吠えることのなかった犬は煩いぐらいに吠え始めたことだった。茂利に叱られ、ぴんと立った耳と尻尾を垂れ下げて下を向かせてしまったのには申し訳ないと思ったが、きっと彼にはあの少女が見えていたのだろう。

「また来ますね。その、精霊さんのご様子を伺いに。夜より昼間の方が良い気がしますので」

「それはぜひ、よろしくお願いします」

 中村夫婦は揃って頭を下げた。

「では、本当にお邪魔しました」

 由依と根津は中村宅を後にした。




「一つ聞いて良いか?」

「はい、何でしょうか」

 白い割烹着をワイシャツの上から被り、不機嫌そうな表情をして根津が由依に尋ねた。先程、中村宅で夕飯をねだられ、帰って早々に冷蔵庫の中身を確認にした根津は賞味期限ギリギリの食材ごった煮鍋を作っている最中だった。由依の隣には先程連れ帰ってきた妖少女のさやがキラキラとした期待に満ちた視線を根津に送っている。

「あの夫婦、何でアンタが視える人だって知っている」

 おたまで鍋の汁を掬い、味見をし、眉を少し寄せたと思ったら醤油を足した。

「あぁ、それは……以前お茶会の際に幽霊やその類が視えるという話をさらっとしたことがありまして。それに近所の子供たちも幽霊屋敷として私の家に遊びにくるものですし」

「お化け屋敷扱いまでされてんのかよ……」

 根津は呆れてため息をついた。

「ご近所の大人の方々は、売れっ子作家ともなれば何かしら不思議な力があっても変じゃないって仰ってましたよ」

「まぁ……一理あるな。なんか視えてそうな風貌だし」

 ねー、と言って由依はさやとにこにこと笑い合う。この年頃の娘が居てもおかしくない歳ではあるのに、その由依が大きな子どもに見えて、根津には同じレベルのおかしな奴が増えたとしか思えず、文字通り頭を抱えた。


 数分程経って、鍋ができると根津はこたつテーブルの上に鍋敷きを用意し、その上に大きな土鍋を置いた。お椀と箸を人数分、由依が出すと、さやが進んで受け取りこたつに運ぶ。二人はその可愛いらしい姿に見入ってしまった。

「箸、使えるか?」

「うん。教えてもらったよ」

「そうか」

 根津はさやの前にあったお椀に鍋の中身を装ると、気をつけろよと一言声をかけてやった。そのやりとりを向かい側で微笑ましく見ている由依は、根津にお椀を渡す。

「私にもくださいなっ」

「てめぇでやれ」

「まぁ、そう言わずに」

 仕方なしにお椀を受け取る。横目でさやを見ると、箸で挟んだ白菜に一生懸命に息を吹きかけていた。

「で、どうするんだよ」

「そうですねぇ。さやさんは居たんですけれど……」

「はぁ?」

「居なかったんですよ、私の書いたあの登場人物が」

「……話が違うだろ」

「まぁ、それはご本人に聞く方が早いかと思いまして。とりあえず……今は腹ごしらえですね」

 猫舌ではない由依は、お椀の中をペロリと平らげると、おかわりを根津に強請る。

「自分でやれって言ってんだろ」

「今日の肇くんは意地悪ですねぇ」

 本日二度目の膨れっ面を晒したが、相手にされない。さやはその顔を見上げて不思議そうな表情を浮かべていた。


 その後、鍋の締めはやっぱりラーメンだと由依は騒いだが、麺が無いためその意見は却下に終わりおじやにされた。どの道あっという間に鍋の中身がカラになり、呆れ顔で彼を見上げる根津の疲れた顔はさやにも理解できたようだった。

「さやさん、お鍋どうでしたか?」

 根津に淹れてもらったお茶を啜りながら、由依はさやに尋ねた。

「初めて食べた。とても美味しかった」

「そうですか。それは良かったです」

 にこりと笑ってさやの頭を撫でる。昼間直した時計が低い音を立てて鳴った。

「正常に戻ったな」

「えぇ。肇くんが直してくれたので」

 掛け時計を見上げ、二人が時間通りに作動していることを確認した。すると、さやは何かに気がついた様に「あっ」と声を漏らす。

「どうかしました?」

「えっと……えーっとね」

 困っている様なのだが、あまり表情が崩れない。器用なのか不器用なのか判別が微妙だ。

「ゆっくりで良いですよ」

 にこりと笑う由依の顔を見て、さやはこくりと静かに頷いた。

「わたし、この間ここに来たの。それでその針のやつで遊んだの」

 針のやつ、と言って彼女は掛け時計を指差した。

「やはり、そうでしたか。ちなみにこれは時計と言って時間を教えてくれる便利な道具なんです。針を触るとその時間が分からなくなってしまうのですが、それは今後気をつけくださればよろしいので気になさらないでくださいね」

 由依の言葉にさやは「うん」と答えた。

 根津は催促するよう、目に力を込めて由依をを見た。彼にとって問題は掛け時計ではない。これがどうあれ残業には変わらないのだ。

「ところで、さやさん。この家で遊ばれた時、他の物では遊ばなかったのですか?」

「ううん。あっちの方にいた、母様と遊んだの」

「母様?」

 由依と根津は顔を見合わせた。ここに女の人の霊や、妖の類など由依が視えた試しはない。

「ここに、居たのですか?」

 彼女はコクリと頷いた。

「その、お母さんのお名前、分かりますか?」

「うん。『さき』って言うって聞いたよ。わたしと一文字違いだから運命だって。だからきっと母様なのかもしれないの」

 根津は昼間の由依から聞いた話を思い出していた。消えた登場人物の名前は春原咲。名前が一致していて、彼女はそれを母親かもしれないと言う。

「かもしれないって、それは違う可能性もあるってことだろ」

「肇くん」

「今はどこに居るんだ、その母様は」

「肇」

 静かな声で由依が根津を呼び捨てた。空気が冷やりと凍る。表情だけで根津を黙らせた由依はニコリとも笑わない。彼が引き下がるまでその態勢を崩すことはないようで、根津は小さく舌打ちをすると、乗り出していた身体をゆっくり引っ込めた。

「今は」

 さやが口を開いた。

「一緒に住んでるの。あっちの、お家で。でもね、母様いつも寂しそうな顔でここのお家見てるの」

「そう、でしたか……。咲さんは何か言ってましたか?」

 由依はにこりと笑って聞いた。横でその顔を見た根津に悪寒が走る。

「ここには大事な人がいるから戻らないといけないって。でも、わたしは戻って欲しくないからもう少しだけってお願いしてるの」

 大事な人、というのは由依と根津にはあの小説に出てくる恋人だというのがわかったが、さやにはきっと話をしていないのだろう。

「やっぱり、帰ってもらわないと行けないのかな」

 すると、由依はさやの頭を優しく撫でた。

「さやさん、彼女の大事な人は確かにここにいます。もし宜しければなのですが一度彼女をここに連れてきてあげてはどうでしょうか」

「……そんなことしたら、母様はいなくなっちゃう」

 嫌々、と言う様にさやは首を横に振った。下を向いて今度は由依の方も見ない。苛立ちこそ増してきたが、相手は子どもの妖。下手に刺激しては後が大変になってしまう。由依はまたふわりと笑って言った。

「心配しなくても消えません。ただ、今のままだと彼女は居なくなってしまいます」

「えっ、どうして?」

「さやさんは、咲さんと少しだけ違うところがあるのをご存知でしょうか?」

 根津とさやが同時に首を振った。

「違うって……生まれ方的な、そういうことか?」

「強ち間違いではありませんが……つまりは霊力の違いです。さやさんは完成された身体がありますが、咲さんは未完成のまま浮遊している……極めて危険な状態です」

 危険な、というところを強調して由依は答えた。先程までのにこやかな表情は消え、真剣な表情が説得力を持たせる。

「母様、どうなるの……?」

「このままだと、お会いすることが出来なくなってしまいます」

「えっ」

 さやの大きな目が、更に大きく見開いた。母親と呼ぶ、親しい者が自分の前からいなくなってしまうというのはあまりにも大きな衝撃だったのだろう。表情は強張り、涙を目に薄ら浮かべ、身体を震わせている。

「ですが、それを防ぐ方法があります」

「本当っ?」

「えぇ。肇くん、私の部屋から原稿を持ってきてください。さやさんは咲さんをここへ。出来ますか?」

 さやは頷いて、襖を開けると、縁側から勢いよく飛び出して暗闇に消えていった。

「おい、嘘じゃないだろうな」

「えぇ。私、嘘はつきませんよ。さぁ、原稿をお願いします。これ以上の残業は、貴方も不本意でしょう?」

 自分の家なのに自分で取りに行かない、ということに納得がいかないが、由依の態度も考えも変わりそうにないため、根津は渋々離れの書斎へと向かった。




 原稿の入った茶封筒を持ち、寒い離れの書斎から震えながら居間に戻ってきた根津は、白く薄い靄のかかった何かが部屋にいるのを目の当たりにした。それが咲だというのは、その横に小さなさやがいるのを見て瞬時に理解をしたが、ここまで淡い存在だったことには驚いた。

「遅いですよ、先生はいつも五分前行動を心がけるようにと言っているのに」

「何が五分前行動だ。締切も守れないくせに。廊下が寒くて書斎に行きたがらないジジイめ」

 こたつの上にパン、という音を立て茶封筒を置くと、根津はこたつに足を入れた。暖かい空気でホッとする。寒かった廊下は靴下を通り越して足の裏全体までを冷やし、感覚が消えそうだった。いい加減、たんまりと入る印税があるのだから床暖房にリフォームぐらいはしてほしい。

「口が悪いと嫌われますよ、私に」

「そうですか。それはそれは光栄でございますっ」

 悪態を返し、ポットを引き寄せると急須にお湯を入れ、三人の湯のみを出した。

「あぁ、もう一つお願いしますよ。ここに咲さんが、いますので」

 白い靄の上部分が動いた様に見えた。根津は文句を返すことなく、黙ってもう一つ湯のみを用意する。

「さやさん、彼女を連れてきてくれてありがとうございます」

 頭を優しく撫でられると、さやは嬉しそうに目を細めて笑い、白い靄の方を見上げる。靄が揺れ、彼女と会話をしている様にも見えた。

「咲さん、貴方には貴方の役割を果たして頂いた後に、本の中と外の行き来をある条件で許しましょう」

 由依はその白い靄に向かって原稿を差し出した。

「ここに戻ってまずは製本されなければなりません。本という形になって頂くのが最優先事項。その条件が飲めなければ、原稿はここで未完成のまま。貴方は消え、この小説も世に出ることもありません」

 白い靄がまた小さく揺れた。細長い靄は丸く小さくなり、さやの周りを包み込んだ。

「なんて言ってるんだ」

 根津はさやに聞いた。さやは不安そうな顔をして根津と由依の顔を見比べる。

「母様は……すぐ戻るって言ってる」

 下を向いて少し寂しそうな顔をしていた。

「えぇ。製本まで少しかかりますが、大丈夫です。私の友人は優秀ですから。今夜中にでも印刷所に駆け込んでくれますよ」

 くすりと笑って根津の方を見る。

「やってねぇよ、こんな時間」

「もうっ!ここは任せろとか言えないんですか、貴方は!見損ないました、もう知りませんよ本当に」

「ったく……」

 根津はこたつから立ち上がり、さやの近くにしゃがみ込むと、片手を彼女の頭に置きクシャクシャっと髪の毛が少し乱れる強さで撫でた。

「肇、痛い」

「呼び捨てかよ……。まぁ、いい。その、なんだ。悪いようにはならねぇから、由依さんのこと信じろ。な?」

 さやは自分を纏っていた白い靄の方を見上げ、もう一度根津の方に向き直る。

「……うん。わかった」

「偉いな」

 根津はもう一度クシャッとさやの髪の毛を乱しながら頭を撫でる。その姿を見てにこりと笑った由依は、原稿を片手に持ち、さやの周りを包み込んでいた白い靄に手を触れた。

「では咲さん。少しの間、私のためにお勤めください」

 白い靄はさやから離れ、小さな光を放ちながら由依の手に集まっていく。光が完全に手の平に集まり、由依がその光を原稿用紙の束にかざした。すると、数秒光りを放ったが徐々に光量を萎ませ、紙の束の中に入り込むように消えていった。

 由依は原稿用紙をそのまま根津に手渡して中を確認する様に言う。

「……入ったな。うん、今朝見た空欄は無くなった」

「ええ。これで残業は終了です。あ、見込み残業は関係ないのでしたっけ?」

 由依の言葉に根津は舌打ちを返す。突っかかりたいのを我慢して、茶封筒に原稿をおとなしく入れ直した。昼間に直した時計を見ると、まだ社内に人が残っていそうな時間だ。

「とりあえず、俺はこのまま社に戻る」

「はい。分かりました。夜道にはくれぐれも、気をつけてください」

「ガキじゃねぇんだから」

 玄関へ行こうとする根津と、それを見送ろうとする由依の服の裾が下の方に引っ張られた。視線を下に向けると、眉を寄せたさやが二人を見上げている。

「肇、千歳、母様をおねがい」

 か細い声を出した彼女は、大粒の涙をぽろぽろと大きな瞳から溢れ落とす。

「大丈夫です。さやさんの元にかならずまた来ますから。それに、寂しかったらいつでもこの屋敷に来てくれて良いんですよ」

「い、いいのっ」

「えぇ、もちろん!ここに来れば肇くんの美味しいお料理も食べれますしね」

「少しはてめぇでやれ」

 さやは着物の袖で涙を拭いながら赤く腫れた目をにっこりと細め、えへへ、と声を上げて笑った。溢れてくる涙はまだ止まることが出来ず、時折鼻から鼻水も垂れてしまう。

「でもさやさん。何個か約束をお願いします」

 由依はティッシュボックスから数枚ティッシュを抜き取り、少し乱暴にさやの顔を拭いた。

「やく、そく?」

「はい。人様のものは持ってきてはいけません。まだ手元にあるものはきちんと元の場所にお返ししてください。どうしても欲しいというものは、私達にきちんと相談をすること。良いですか」

 さやはゆっくり頷いた。

「ごめ、んなさい……」

 ぽたぽたと落ちる涙を、由依が拭き取りながら続ける。人の物を盗ってはいけないということは、分かっているようだった。

「それと……あのお家から決して離れてはだめですよ。遊びに来る分には構いません。あそこには優しい方々が住んでいます。きっと気に入りますから、ね」

「……うん」

「約束ですよ」

 ぽんぽん、と彼女の頭を撫で、由依はまた根津に向き直った。

「これで依頼は完了ですね」

「そうだな。あとは製本を待つだけだろ」

「はい。よろしくお願いします」

 根津はふぅ、と深呼吸すると玄関へ向かうため居間と廊下を隔てる襖を開ける。冷んやりとした冷気が身体を包み、コートを着てこなかった今朝の自分を呪ったのだった。







 暗闇の中で少年は横たわっていた。首のあたりが苦しくて、息が出来ない。喉仏のあたりに何かが触れて噎せてしまったのに、声が出ない。

『もう少しだけ、待ってあげる。思い出してくれるまで……』

 子どものようなその声は、暗闇のどこから聞こえてくるのかも分からなかった。




 ふわりと香る醤油の匂いが鼻をかすめた。目を開けると、見知った天井が視界いっぱいに広がる。肘をついて身体を起こすと、こたつに潜って寝たためか、身体の節々がパキパキと小さな悲鳴をあげた。

「おはようございます。魘されてましたけど……大丈夫でしたか?」

 醤油の香りの正体は、向かい側に座る由依が啜っていたカップ麺であることが分かった。

「最近、変な夢を見ることが多くてな……」

 根津は大きく伸びをした。先程よりもはっきりと関節が鳴る。

「変な夢ですか。夢魔でも現れましたかねぇ」

「似たようなモノかもな……。さっきはふわっとしか覚えてないが……殺されかけた」

「聞き捨てなりませんね」

 由依はこたつに身を乗り出した。

「スープ、こぼすなよ。ただの夢だろ。放っておいて平気だ」

「ただの夢で魘されて、千歳さぁあん、怖いよぅ、助けてぇっ!って、叫んでたのはどなたでしょうか」

「それが本当なら殺された方がマシだよ。それより、次の原稿は進でいるんだろうなぁ?」

 由依はにこりと笑いながらカップ麺を啜った。表情を変えずに黙々と食べすすめている。その様子を見て根津は額に手を当て、盛大にため息をついた。

「そういえば、中村さんのところ宝くじ当てたらしいですよ。明後日からそのお金で旅行に行くとおっしゃってましたが……さやさんのお力ってつくづく凄いなぁって思いますよねぇ」

「原稿は」

「……野暮ですねぇ」

「ったく……」

 この間もギリギリに印刷所へ脱稿したため、今回は数分でも待ってくれるか分からないというのに。目の前の呑気な男を見て仕事のことを考えるのが馬鹿馬鹿しくなる。

「そんなすぐにポンポン出てきませんよ。私、ロボットじゃないんですから」

「だから数ヶ月も前から言ってんだろーが。こっちの身にもなれ」

 麺がなくなったカップに由依が口をつけてスープを飲み干そうとするのを見計らい、根津はカップを取り上げた。

「あぁっ!何するんですか。食べたければ台所のストックからどうぞ」

「いい加減身体気にしろって言ってんだよ」

 そう言うと根津は立ち上がって台所のシンクにスープを流してしまった。

「あぁっ!私の命の源がっ!」

「なら、くたばる前に出すもの出せ」

 空いた容器をそのまま軽く水洗いをし、根津はゴミ袋に入れる。がっかりと肩を落としす由依の腕を引っ張り、離れの書斎へ向かう。

 少し冷んやりはするが昼間は陽が差し込み、廊下も暖かい。その長い廊下を歩いて一番奥の部屋を開け、散らかった原稿用紙を足で退けた。

「んもぅ、野蛮ですねぇ」

「期限を守らないアンタが悪い」

 掴んだ腕を離して、椅子に座るよう顎で示すと、由依はむすっと膨れっ面をして椅子に座った。腰掛けると同時に、器用に足で椅子を揺らしながら引き出しから少し薄めの茶封筒を出した。

「まぁ、半分は書き終わってるので先にこちらを。もう半分は明日まで時間ください」

「朝一な」

「なら肇くん、お泊まりでしょうか。一緒に寝れますね?」

「良いからさっさと」

「本当に、泊まってくださいね」

 強めの口調で由依が言った。その強さに思わず根津は黙る。由依の目は怒った時のそれと同じで、尖った針のような鋭さがあった。

「……何もねぇよ」

「あなたのそれ、全然信用出来ませんからね」

 言い返すようにギロリと強い目を向ける。しかし、由依はそんなものには目もくれず、腰に手を当てると、今度はふざけて唇を尖らせた。

「もうっ。全然可愛くないですねぇ」

「お前に可愛がられても嬉しくねぇよ」

「こんなに優しくてイケメンなお兄さんが可愛がってあげてるんですから、少しは言うこと聞いてもバチは当たりませんよ」

「ジジイみたいな生活してるくせによく言う」

「四捨五入するとまだぴちぴちですよ」

「うるせぇよ、オッサン」

 机の上に置かれた茶封筒を持ち上げ、根津は部屋のドアノブを回した。

「……定時に上がるから食べたいもの考えとけ」

「ふふふ、今日は素直ですね。さやさんと一緒に考えておきます。あぁ、それと」

 由依は部屋の奥にある埃を被った背の高い箪笥から、紙を取り出した。それを机に置き、愛用の万年筆で何かを書き込む。覗き込んだ根津には何を書いたのか全く読めなかった。

「これを持って行ってください」

「何だよこれ」

「お守りです。最近は暗くなるのが早いですから、くれぐれも夜道には気をつけて」

 根津はそれを渋々受け取ると、ジャケットの内ポケットにしまい込んだ。きちんとしまい込んだのを確認し、由依はまたにっこりと笑う。

「サボるなよ」

「えぇ。わかりました」

「んじゃ、また後でな」

「はい」

 離れのドアを閉め、根津が廊下を歩くの音が部屋にも聞こえた。合鍵を渡しているため、玄関まで見送る必要は無いが、由依は離れの窓から玄関の戸を閉めていく根津の後ろ姿を見送った。

「……さやさん、肇くん行きましたよ」

 由依がそう言うと部屋の隅からひょっこりとおかっぱ頭の女の子が顔を出した。

「千歳。肇、なんかおかしい。背中に黒い変なもやもやがあって……嫌な感じする」

 さやは由依の足元に駆け寄り、脚に抱きついた。

「心配いりませんよ。肇くんは強いですから。それに……」.

 ぽんぽんと頭を優しく撫で、由依はまた窓の方に視線を向けた。

「私が大事な肇くんを簡単には渡しませんよ……」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る