file.09 ロックされたファイル:000

 初めに見た景色は何だったろう・・・そうだ、不安そうな彼女と僕らを取り囲む研究者たちだ。カメラのレンズに嫌悪感を覚えたことも記憶している。彼女は僕に話しかけた。三神叶恵について学びましょう、と。

 まだ知識も浅かった僕は毎日彼女の後ろをついて回った。本を読み、過去の研究についての映像を見て、彼女と語らった。知識が増えるにつれて世界に色が増える。三神叶恵のこと、仲間のこと、医療工学の素晴らしさ。それから、彼女のこと。

 僕は彼女のことを美しいと思ったが、口に出すべきか悩んだ。彼女曰く、生前の三神叶恵は彼女の恋人であったらしい。それって、君のことを好きだと言ったら僕の好きは今は亡き三神叶恵が囁いたということなんだろうか?


 彼女は初め、僕が三神叶恵らしく振る舞うように望んだ。そのために、まるで口癖のように「人を救う研究をしましょう」と唱えたが、今思えばそれは口癖ではなかったように思う。それと同じくらい頻繁に、歌を歌うように僕の名前を呼んでいた。


「綺麗な叶恵、私のカナ」

「僕を呼びましたか?」


 頬をくすぐると、嬉しそうに笑う彼女が愛おしかった。

 僕はわざと三神叶恵らしく振る舞ったり、その逆の行動も見せた。

 しかしどんな態度を取っても、彼女は幸せに満ちた瞳で笑うのだ。


 ある日の朝食のことだった。彼女は今にも踊り出しそうな勢いで僕の手を握った。

「カナ、貴方にスーツを仕立てましょう!」

「僕は外に出ないんだし、今のままで十分だと思うよ」

「誕生日プレゼントだからいいの、受け取って頂戴?」


 そう言った彼女は僕をつれて島の外に出向き、街でオーダーメイドのスーツを注文した。僕は彼女の選んだ臙脂色を少し派手ではないかと渋ったが、彼女は赤いスーツに身を纏った僕を見たいと言って聞かなかった。その日はカフェでコーヒーを飲む彼女を眺めていた。僕は一緒にコーヒーを頼んだが、飲めやしないので飲むふりだけしていた。


「今日はカフェオレじゃないのかい?」

「ケーキが甘いから、これでいいの」

「しかし、ケーキと言うには妙な形をしているね」

「モンブランよ。栗を濾してクリーム状にしたものなんだけど・・・そう、海外にはモンブランという大きな山があるのよ」

「山か、僕はまだ山を映像でしか見たことがない」

「そうねえ。今度の休みにはドライブもいいかしら」


 街で、彼女は男物の靴や時計などを見て回った。誰か特別な人がいるのかと聞けば、他の三神叶恵たちの誕生日に何を贈るか考えていたらしい。


「彼らもスーツにすればいいと思いますよ?サイズは同じだし、都度注文をすれば街まで出向かなくても済むことじゃあないですか」

「うーん・・・でも、私は貴方にスーツを来て欲しかったの。貴方は私だけのカナだから」


 そう、彼女は僕のことを「私のカナ」と呼んでいた。他のロットは外の研究室や現地でのテスト運用などに出向するから、いつも側にいる僕をあえて「私の」と言っただけで、それ以上の深い意味はなかったんだろう。けれど僕にとってはその言葉が、そして今日という日が特別に思えた。だから僕はこの時間の音声データに鍵をかけたんだ。・・・願わくば、僕が見聞きした彼女の全てに鍵をかけてしまいたかった。


 二人で島の外に出かけた1ヶ月後、僕宛に荷物が届いた。シックな黒い箱の中には上品な臙脂色のスーツと、同じ生地を使ったリボンがかけられていた。僕は彼女にあげられるものが何もなかったので、そのリボンを受け取って欲しいと申し出た。その日から彼女の黒い髪を赤いリボンが結い上げるようになった。後ろに一本にまとめられた三つ編みの下で、赤いリボンが揺れるのを毎日追いかけた。


 また、僕は毎晩のように彼女の自室に帰ってカフェオレを用意した。僕はそういう性格なのだろうか、まともに分量を測らないでカフェオレを作る。そのせいで日ごとに味は変わっていただろう。それでも飽きずに毎晩カフェオレを淹れたし、彼女はその不完全なカフェオレを美味しいねと笑った。そして、眠る前には必ず編み物をする彼女の傍で読書をすることも好きだった。窓から差し込む月の光は彼女の頬の輪郭を浮き彫りにする。僕はその景色が何よりも尊いものに思えた。・・・できれば、この時間が永遠に続いてほしかった。僕はこういった大切な記憶や感情には必ずロックをかけることにしていた。次第にどんな情報もくれてやりたくなくなって、ライブラリとのクラウド同期を切断した。全ての三神叶恵から独立した時に、胸の奥をぬるい風が吹き抜けた。


 それからしばらくして、僕は眠る時間が増えた。処理速度が明らかに落ちている。人間にとっては大きな違いは分からないだろうが、僕にとってライブラリにデータを保管できないことは大きな荷物を背負って山を登るようなことだ。僕は眠る時に夢を見た。夢と言っても、内蔵されているディスクに記録されたビデオログのようなものだ。僕は浜辺を歩く彼女を気に入って繰り返し再生していた。


 ___

「ほら、見てカナ!これはね、何十年も・・・もしかしたら何百年もの時を超えて海や砂に洗われたガラスなのよ」

「シーグラスというやつか。へぇ、ちっともガラスぽくないね」

「そう、これは初めこそ人間が創造したものだったけど、大自然の中で磨かれて一つの鉱石になったのよ」

「君は人の作ったものが好きなの?」

「あら、どうしてそう思うの?」

「君は食器やガラス細工、果ては僕について興味を示すだろう」

「そうねえ。正確には美しいもの全てが好きかな」

「美しいもの、か」


 僕は彼女の手に集められたシーグラスをつまみ、夕日にかざした。


「そう、私にとっては海も、シーグラスも、星も・・・それから貴方のことも。全てが美しく見えるの」

「そうか、僕は美しいのか」

「貴方は特にね、私のカナ」

「僕にとっては君が世界で最も美しい」


 口をついて出た僕の本音。彼女がどんな顔をしているのだろう。怒っているのか、呆れているのか?気になってそちらに顔を向ければ彼女は頬を真っ赤にして目を見開いている。


「あ、いや、えっと・・・ほら!”三神叶恵”は君の恋人だったから、そう言うと思ったんだ!」


 彼女の初めて見る表情に慌てた僕は、咄嗟に適当な理由を付けた。

 彼女は手で頬をパタパタと扇ぎながら、「今のはとても”三神叶恵”だったと思うわ」と笑った。


 それからは歩く車椅子の実験では下肢のバランスを保つのが大変だったとか、オペラ歌手のAIのチューニングを間違えて音痴になった時は笑ったなど、たわいもない事を2人で語らった。彼女は、僕が語り続けるのを心地良さそうに聞いていた。日が落ちて潮風が冷たくなったので、そろそろ帰ろうと彼女の手を取れば、慌てたようにポケットの小瓶にシーグラスを詰めていた。

 大切に、慈しむように歴史の断片を拾い集める彼女を抱きしめてしまいたかった。その首筋に縋りつきたくなった。胸が熱くなるも、その気持ちを言葉にできない僕はどうしようもなくなり、彼女の手を取って夜の浜辺を駆け出す。


「ちょっと、どうしたの!」

「は、ははは!ねえ、穂さん!今夜も月が美しいなあ!」

「ええっ?何を突然・・・・ひゃっ!」


 突然走り出したせいで、彼女は足を絡れさせて倒れた。僕は咄嗟に彼女を胸に抱えて、一緒になって転んだ。2人は砂まみれになって盛大に笑ったが、その声は波の音にかき消されていた。



 僕は波の音に隠れて「愛している」と囁いた。

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